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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第八十五話 透きとおる指先

 かすかな薄曇りが、地平を白く溶かしていた。ファルム・コラティナへと続く山裾の道は、夜露を宿した灌木の葉を揺らし、遠く風鳴りを連れてくる。崩れた小石が足元で跳ね、空気の膜に淡い震えを刻んだ。

 リナリアは、振り返らなかった。ひと晩だけ、世界は音を止めてくれていた。あの部屋、あの眠り、あの手の温もり。その一つひとつが、彼女の中に深く沈んでいる。けれど今、それらを手に取って持ち歩くことはできない。彼女が向かう先は、もう帰ることのない場所。

 ルミナが後ろから歩いてきていた。片耳を揺らし、空に鼻先を向ける。風の匂いを嗅いでいるようなその仕草は、何かを察知しようとしているのか、それともただ(かぜ)に馴染もうとしているのか。毛先に朝露が溶けていたが、彼女の歩みに迷いはなかった。そのさらに後ろで、ジークがあくびをひとつ吐いた。


「……よかったのか?」


 声色にはいつもの軽さがあった。けれど、その問いは鋭く胸に響いた。リナリアは、立ち止まらない。ただ、踏み出す一歩にすべてを込める。それが答え。


「まあ、わかってたけどな。お前が、そうなることは」


 ジークは小さく笑い、小石を蹴った。ころころと転がっていった先で、風が不意に強まり、乾いた草原がざわめきを増す。

 その音に、リナリアはふと目を閉じた。あの部屋に残してきた気配が、まだ髪の先にまとわりついている。夢のような時間。現実感は薄く、けれど確かに、彼の心がそこにあった。それだけは、信じていいと思えた。


 ──夜がすべてを許すなら、明日を求めずにいたかった。


 それは甘えではない。逃げでもない。ただ、自分がここに留まってはいけないと知っているからこそ、せめてもう一秒だけ、彼の隣にいたかった。

 リナリアはもう気づいていた。もうこの世界は、自分の居場所ではない。光も音も、手のひらから少しずつほどけていく。ただそれだけのこと。彼女の未来は、生者の未来ではない。だからクラウスとは、進む道が分かれた。彼は生きる世界に還り、自分はその反対側に向かう。そう決めていた。そう、決めなければならなかった。


「……リナリア」


 ルミナの声が、彼女の輪郭をそっと撫でた。


「……なに?」


「クラウスのこと、後悔してる?」


 優しさと鋭さがまざった声。リナリアは答えなかった。言葉を探しながら、目だけを空に向けた。雲の向こうに、雪をまとったファルム・コラティナの山頂がぼんやりと浮かんでいる。あそこに、父がいる。母が、もしかしたら――。


「後悔は、してない。ただ……」


 言いかけて、口を閉ざす。それ以上の言葉を持たなかったわけじゃない。言えばすべてが崩れてしまうから、言えなかっただけ。まだここにいるような、もうここにいないような――そんな曖昧な自分を、言葉にしてしまえば、何かが取り返しのつかないかたちで壊れてしまう。だから、黙って進む。進むことでしか、いまの自分を支えられない気がしていた。ジークが小さく溜息をついた。


「ほんとにお前ら、似た者同士だよな。気づいてたくせに」


 リナリアは、足を止める。


「……なんて?」


「言ったんだよ、俺に。『起きたら、もういないと思う』ってさ。……やれやれ、置いてかれる覚悟、しっかりしてやがる」


 胸の奥で、何かがきしんだ。彼は、知っていた。何も言わずに、受け止めてくれていた。その夜の沈黙は、言葉よりも多くを語っていた。彼女の決意も、彼の覚悟も、互いにそれ以上踏み込まないことで守られていた。

 風が頬を撫でた。その風が彼の声を運ぶような錯覚があった。笑ったような声。少し震えた声。そして、何も言わずに、ただ見つめていたあの瞳。背中に視線を感じたわけではない。けれど、どこかで彼がこちらを見ているような気がした。


 ──あなたの手を、あと一秒だけでいいから握っていたかった。


 心が、そう呟いた。その一秒は、もう戻らない。だから、行く。彼女の行く先には、名前を知らない祈りがある。忘れたくても忘れられない過去がある。父がいる。母がいる。その奥にあるものが、どんなものかはわからない。でも、彼女は進む。言わなければ、壊れない気がした。伝えなければ、崩れずにいられる気がした。


「……あなたは、よかったの?」


 リナリアの問いは、風の音に紛れるほど小さな声だった。けれど、そのまなざしは真っすぐにジークを見つめていた。何かを置いてきた者だけが問える、静かなまなざし。ジークは一瞬だけ目を細め、それから照れくさそうに肩をすくめた。


「俺は、ルミナと一緒なら、どこへだって行けるさ」


「ほんとに?」


 リナリアの声には、子どものような無垢さと、何かを諦めた人間の深さが同居していた。


「お前が信じないなら誰が信じるんだよ。……ま、信じなくていいけどな」


 そう言って、ジークは空を見上げた。そこには何の色もない、ただ曖昧に薄く流れる雲と、透けるような朝の光だけが広がっていた。

 リナリアは、ルミナを見やる。ルミナの目は、しっかりと彼女をとらえていた。何も聞かず、何も詮索せず、ただ見つめている。その視線の奥にあるものが、リナリアには痛いほどわかる。ルミナは静かに、けれど決意を込めて言った。


「行こう、リナリア。……ちゃんと、終わらせよう」


 その言葉に、リナリアの胸がふっとほどけた気がした。誰かにそう言ってほしかった。誰かに、何も問わずに、ただ一緒に歩いてほしかった。もう、戻れなくても。リナリアは、微かに笑った。


「……うん。ちゃんと、終わらせる」


 そのとき、風が吹いた。塔の方角から流れてきた風。冷たくはなかった。ただ、どこか遠くから、()もなき呼び声のようなものを運んでいた。朝の光が、三人の影を地に溶かしていく。長く、そして薄く。誰も、振り返らなかった。空はまだ完全に晴れてはいない。けれど、そのかすかな光に照らされて、彼らの輪郭は確かに浮かび上がっていた。その先に何があるのかは、誰も知らなかった。けれど、もう振り返らない。振り返れば、きっと、歩けなくなるから。

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