第八十四話 朝陽の中で微笑んで
朝靄が部屋を満たしていた。風も音も、すべてが綿に包まれたように柔らかく、息を呑むたびに空気がゆっくりと喉を撫でる。グレイフは、黙々とパンを焼いていた。卵に火を通し、香草をちぎり、手際よく六人分の皿を整えていく。だがその動きは、いつもより少しだけ速い。いつもより、少しだけ無口。
ちら、と視線を走らせれば、そこにはロッキングチェアに腰掛けるアメリアがいた。目元にかつての年輪の影はなく、髪も肌も――いや、呼吸さえも、少女のように軽やか。クラウスは、彼女を真正面から見ていた。まるで目を逸らしたら、何かが壊れてしまうかのように。彼の瞳は驚きよりも、懐かしさに近いものを宿していた。たぶんそれは、同世代の少女を前にした少年の、ごく自然なまなざし。
ロッキングチェアが、ゆっくりと一往復するたびに、微かな軋みが部屋に残った。アメリア・ヴァルトシュタインは、膝に置いた手を組み直し、ひとつの仮説を繰り返し頭の中で転がしていた。視線の先では誰もいない窓辺が光を散らしている。グレイフが鍋をかき回す音が、どこか遠くに聞こえる。
自分は何なのか――その問いが、今ほど切実だったことがあるだろうか。生者でも死者でもない。魂があるかどうかも定かでないのに、指先に触れる物の質感、喉を通る空気の濃さ、思考の輪郭だけは、まるで精密に復元されていた。
「……若返ったのよ、私は」
小さく呟くと、ロッキングチェアがわずかに速度を増した。身体は軽く、胸の奥に残っていた老いの鈍痛や硬さは、どこにも感じられない。関節の動きは滑らかで、髪には艶が戻っている。――見た目だけなら、十代の終わりか、二十代初め。かつて、夢を語るより理論を組み立てることに熱中していた、あの頃の自分に限りなく近い。
――若さというのは……これほど明確に快楽を伴うのね。
そんなこと、昔は鼻で笑っていた。けれど今、脈打つ血管の内部にまで張りつめるこの快活さは、明確な歓喜として体中を満たしていた。まるで生きていることを、神経の一本一本が賛美しているかのように。けれど――。
『その身体、いずれ不便するぜ』
ゾンビの声が、脳裏にこだました。不便。なんと曖昧で、そしてなんと具体的な警告だったか。血を得なければ、生を保てない。飢えるとは、生きるという現象が損なわれる前触れ。つまり、欲求の渇きが私の存在を定義しはじめているということ。
自然と視線がカウンターの向こうへ流れていく。ルミナの細い肩。血をもらった指先。今は包帯で覆われている。だが、アメリアの肉体はその瞬間の記憶をはっきりと刻んでいた。甘く、温かく、滴るような命の感触。脳の奥がふるえた。私はたしかに、生の悦びに沈んだ。
――それは、ただの栄養ではなかった。
快楽。いや、それ以上に意味があった。欲望の起点にして、存在の縁取り。神秘学者として、それを単なる飢えと呼ぶのは侮辱だ。これは快楽か、呪いか、あるいは進化か? 私は今、自身の欲望によって組み上げられている。理性が、それに従属し始めている。
神秘学の古層にも、その兆しはあった。欲望を原動力とした魔女たち。血に書き換えられた魂の記録。けれど私は、模倣ではない。これは模造された魂ではなく、わたしそのものの欲求。
――それが、怖いのだ。
私のこの肉体は、血を渇望する。ならば、それを供給し続けなければならない――。
「私の存在は、欲求によって構築されている?」
再び独りごちる。神秘学の学徒であった自分が、こんな結論を出すとは。欲望と生命現象の交点。それは魂というものの模造か、あるいは魂が空洞であることを証明しているのか。同時に、思うのだ。もしこの若さが、血によって維持されるのなら。それを得ることで私は老いないのだとしたら。――何が悪いのか。何を恥じる必要がある?
――私はまだ、知りたいことがある。
理論は未完成だ。未踏の仮説がある。未整理の文献がある。まだ語っていない言葉が、山ほどある。老いという限界を乗り越えられたなら、そこにこそ、真理へ至る第二の生があるのではないか。
――でも、代償として、欲望に身を任せなければならないなら。
それは、研究と同じだ。快楽とは、何かを知るときに必ず伴うもの。であれば。
――私は、それを恐れてはいけない。
アメリアはそう結論づけた。少しだけ目を閉じ、再び深く息を吸う。欲望を否定することは、自分を否定すること。私は、存在している。すでに死んだ身でありながら、いま確かに生を生きている。
――その答えに向き合うのは、これからだ。そして唐突に、笑みを含んだ声で言った。
「ねえ、リナリア。クラウスと……いつ結婚するの?」
その声が空気を裂いた。誰もが飲みかけた紅茶をそのままに、視線がテーブルの一点に集まる。クラウスが、ほとんど反射のように背筋を伸ばして椅子の背から浮き上がった。
「な、なに言ってるの、母さん!? ちがっ……いや、違うよ、それは……!」
言葉がどこかで絡まり、言い切る前に息がつかえる。彼はリナリアを見た。その彼女は、ただ一度、肩を小さく上げて、ふっと目を逸らした。否定もしなければ肯定もしない。その沈黙が、かえって彼を追い詰める。
「リナリア……? ちがうって言ってよ、僕たちは、ただ……!」
そのとき、グレイフが皿を二枚抱えてキッチンから戻ってきた。湯気のたったプレートがテーブルに並べられる。
「おいおい、クラウス。初めてガールフレンドを家に招いたってのに、その取り乱し方はいただけないな」
さりげない声色に、アメリアがいたずらっぽく微笑む。
「まあ、家族に紹介されるなら、それなりの覚悟が必要よ。そうね……あなたのご両親にも、ぜひお会いしてみたいわ」
そのひと言に、グレイフの手が一瞬だけ止まる。何かを思い出しかけたように、顔が翳った。しかしすぐに、彼はランチョンマットの位置を直すふりをして視線をそらした。空気がふたたび、そっと動く。リナリアが、声の調子を落として言った。
「ファルム・コラティナ」
全員の手が止まり、静けさが降りた。名前の響きが、朝の光の中で異質な冷たさを帯びる。「知ってる?」と、リナリアがアメリアに向けて尋ねる。アメリアは椅子を引き直し、座り直してから、ゆっくりと答える。
「ええ。山の向こうに聳える、あの白い塔でしょう?」
目がグレイフを捉える。
「あなた、リナリアのご両親があそこにいるってこと?」
問い詰める声に、グレイフの眉がわずかに寄る。答えるまでに、数拍の沈黙が挟まった。
「……私にも、確証はない。死の王がそこにいるという話は、本当だ。塔に人が出入りする気配はないが、時折、塔に明かりが灯っているのを見かける」
リナリアはナイフとフォークに触れながら、視線を上げた。
「……私、行くわ。ファルム・コラティナへ」
静かな声。その静けさは波紋のように食卓の空気を変えた。誰も言葉を挟まず、ただ耳だけがその短い言葉を受け止めた。クラウスは、フォークを中空で止めたまま動けなかった。手先に力が入らず、皿の上の卵を前にして、まるでそれが異国の食べ物でもあるかのように思えていた。リナリアの視線は正面ではなく、遠くを見ていた。どこか、この部屋ではない場所――山の霧、冷たい石の塔、その向こうにいるはずの「父」を見ていた。
――ああ、そうだ。これで、終わったんだ。
胸の中に、カチリと音がした。それは「失望」でも「諦め」でもなかった。むしろ――完了の音。リナリアにとって自分の役目が終わった、ただそれだけの確証。だけど、なぜだろう。その音を聞いた瞬間、息がうまく吸えなかった。自分という存在の居場所が、スッと彼女の視界から消えた。
彼女の横顔は相変わらず美しい。……美しいという言葉が、なぜかとても遠い。それは鑑賞の対象であって、隣にいるものじゃなかった。彼女はもう、「自分の世界」へ戻っていくんだ。そこに、自分がいる余地はない。約束は果たされた。リナリアにとって、自分は「導き手」でしかなかった。案内役。それ以上でも、それ以下でもない。
――俺は、彼女の何?
問いが、心の中に沈んでいく。その問いは痛みではなく、ただ静かに空虚を掘り下げる。名前をつけられない感情が、クラウスの中で形を変えていく。あれは憧れか。保護欲か。あるいは、それよりもっと――近いもの? でも、リナリアの言葉には、そこを踏み越えさせない壁がある。彼女があえて一線を引いてきたことを、クラウスはずっと気づいていた。
そして今、その壁がはっきりと見えてしまった。リナリアは、クラウスの沈黙を見ていた。見て、理解し、そして――何も言わなかった。言葉は時に誠実さを示すが、黙っていることもまた、痛いほど誠実を示す。彼女の中にも揺れるものはあった。ただ、それを伝える術が、わからなかった。
――クラウスは、もう自分の場所に戻れた。家族のもとへ。なら、私は――。
彼女の指先が、無意識にナイフの柄を撫でていた。刃は窓から射す陽の光を受け、かすかにきらめいた。リナリアはその光のように、今まさに、ここではない場所へ自分を引き寄せようとしている。遠く、けれど確かに「孤独」という名前の土地へ。
――私は、彼を使った。ここまで来るために。
その事実に、言い訳の余地はない。けれど、彼の側にいた時間すべてが、目的だけかと問われれば、リナリアにもまた答えられなかった。彼の言葉。沈黙。観察するような目。ふとした優しさ。くすぐるような冗談。それらが積み重なって、心に何も残っていないとしたら――そんなことは、ありえなかった。
――ほんとうは、離れたくない。
けれど言えなかった。……違う、言えない。「行かないで」なんて。あなたが幸せに向かって歩き出せるなら、私は踏み台でいい。でも――。もし、この気持ちに名前があるのなら。あなたの手を、あと一秒だけでいいから握っていたかった。
その一秒は、もう遅すぎた。二人の間には、朝の光が注いでいた。穏やかで、何一つ乱れていない。食卓の上には焼き立てのパン、ミルク、香りのよいスープ。そして卵の黄身が、皿の中央でふるふると震えている。崩す者のないまま。その光景は、あまりにも美しく、静かで――ふたりの心だけが、その中心で音を立てていた。
— 第五章終 —




