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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第五章 夢に住む人々

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第八十三話 血潮の朝

 朝の風が、眠る街路にさざ波のような気配を運ぶ。石畳を鳴らす靴音は三つ。小鳥のさえずりすら遠慮がちなこの時刻、陽光は街角の壁をかすかに染めていた。

 アメリア・ヴァルトシュタイン。その隣には娘のようなリナリア。そして、ふわふわと耳を揺らしながら歩くルミナ。彼女たちは、街外れにある朝市へ向かっていた。もっとも「(いち)」と呼ぶには賑やかさに欠けるこの通りには、陽が昇りきる前からアンデッドや変わり者たちがのそのそと現れ、静かに野菜や塩漬け肉、発酵したパンなどを並べはじめている。

 ちょうど角を曲がったところで、見覚えのある骨の影が姿を現した。頭蓋骨には派手なリボンが巻かれ、肘の骨にはおそろいのブレスレット。散歩紐を握る手には、骨の指が優雅に絡まっている。その先には――チャッピーと呼ばれる骨ばった犬。小刻みに尾を振りながら、こちらをまっすぐに見ていた。


「おやまあ……! あんた、アメリアじゃない! ほんとに動けるようになったってわけ? 話せるのかしら?」


 骸骨の喉奥から、驚きと喜びが()り混じったかすれ声が漏れた。アメリアはぴたりと足を止め、片手で帽子のつばを軽く押さえながら、笑みを浮かべた。


「骨になってしまうと、どなたかしらって迷うのよ。でも……あら、まさか。リィゼル夫人?」


「リィゼルで間違いないわよ! あなた、話せるようになったのねえ!」


 骸骨の眼窩がくいっと笑ったように動き、(くび)の骨が嬉しげにきしんだ。


「まったく、あなた心臓あるの? あったらもう、どくんって跳ねてるところよ。ああ懐かしいわ……あんたの亭主も一度死んだらいいのよ。私がさそっても見向きもしなかったのよ」


「ふふ、彼は私とずっと一緒だったのよ。毎日抱いてくれてたんだから」


「まー! 言うわねぇ。死んでも口の達者なこと!」


 二人の笑い声が、静かな通りにぱらぱらと落ちていく。そのあいだに、チャッピーが音もなくルミナの前へ歩み寄っていた。鼻先をくんくんと動かしながら、彼女の指先にそっと触れる。ルミナが小さく笑って手を差し伸べると、チャッピーはそれに応えるように口をあけ、彼女の指に擦り寄せたあと、ふいにルミナの前に腹を見せて転がった。


「チャッピー、元気そうね」


 リナリアが微笑みながら言うと、ルミナはくすぐったそうに笑い、犬のあばら骨を軽く撫でた。


「やさしい子なんだよ」


「やだもう、慣れすぎじゃない?」


 リナリアが笑う。リィゼル夫人は肩をすくめ、手を腰にあてながら言った。


「ルミナちゃんとは波長が合うのよ。遠くからでもわかるみたい。毎日連れてけってうるさいの」


 チャッピーが立ち上がると、ルミナのローブの裾を鼻でつんつんとつついた。ルミナがぴょんと跳ねると、犬はそれに合わせて一歩、また一歩と足を運び、まるで踊るようにじゃれはじめる。


「じゃ、私は朝の散歩は済ませたし、このへんで。あなたが戻ってきて、なんだか風通しがよくなったわよ」


「ありがとう。変わらないのね」


「ふふ、そりゃどうも。気をつけてね、アメリア」


 スカートのない腰骨を優雅に翻し、リィゼルとチャッピーは朝の通りの向こうへ消えていった。

 残された三人は、薄日を浴びながら、ゆるやかに市場通りへと歩を進めた。朝の光がゆるやかに色を変え、屋台に吊された干し肉や塩漬けのトカゲに淡い影を落としている。通りのあちらこちらで、アンデッドの手がゆっくりと動き出す音が聞こえていた。

 露の気配がまだ街角に残る小道を進んでいたとき。ふとアメリアが歩みを緩め、空を見上げるようにして言った。


「ねえ、リナリアさん」


「ん?」


 リナリアが足を止める。アメリアはゆっくりと目を伏せ、その声音に一抹の熱を宿した。


「最近……グレイフやクラウスと一緒にいると、少しだけ……血が、欲しくなるの」


 言葉はそよ風のように小さかったが、その響きに込められた含意は重く、確かな質量を持って落ちた。リナリアは片眉を上げた。


「食欲……って意味で?」


「違う。……もっと、深くて、濃いの。見ていると、肉の下に流れる赤が透けて見えるような感覚。とろりと滴るものが、呼びかけてくるの。抑えてる。でも、ずっと、どこかで飢えてるのよ」


 その声には羞恥でも恐れでもない、ただひたすらに純粋な自覚が滲んでいた。リナリアは少し口元を歪め、淡く笑った。だがその笑みは、どこか獣のようにするどく、目元には光が宿る。


「それなら、私がいちばんおいしそうに見えるんじゃない?」


 瞳が、閃光のようにぎらりと揺れた。その言葉を受け取るようにして、隣で歩いていたルミナが立ち止まり、すっと懐から小さな銀のナイフを取り出す。陽の光に一閃、冷たい刃がきらめいた。ルミナは迷いなく、自分の左手の指先に刃を滑らせる。まるで野菜の皮を剥ぐかのような静けさで。

 赤。瞬く間に浮き出た細い筋が、白磁のような肌を走り、そこから滴り落ちる血の一粒。


「……どうぞ」


 ルミナはそれを、まるで差し入れでもするかのように、無邪気な声で差し出した。その姿には、恐れも痛みもない。ただ純粋な共鳴の感情があった。


「ルミナっ!」


 アメリアが声を震わせる。その瞳は釘付けになったように、その滴る血を見つめていた。喉が、ごくり、と鳴る。空気の密度が変わった。世界の輪郭が一瞬だけ歪んだような錯覚。リナリアが慌ててハンカチを取り出しながら言った。


「痛くないの?」


 ルミナは小さく首を振る。


「コントロールしてる。痛覚も、出血も、必要なぶんだけ。だから大丈夫」


 アメリアの手が、まるで意思とは別に動いた。そっと、ルミナの滴る指先に触れ、流れ落ちる紅をすくい取る。指先に残った血を、静かに唇に運ぶ。


「……これだったのね」


 アメリアの目が見開かれ、何かが決壊するように唇が血に触れた。一度、ちゅ、と音がして、静寂が震えた。唇が血をすする音が、まるで静寂に水を落とすように響いた。ルミナはくすぐったそうに小さく笑う。


「くすぐったい……でも、いいよ。お腹いっぱいになるまで、飲んで」


 アメリアの目には理性が戻ってきていない。まるで魂の奥底にまで満ちてゆく何かに陶酔している。吸うたびに、頬に赤が差し、肩に張りが戻る。肌がしっとりと光を纏い、指先までに生命の色が満ちていく。やがて、ルミナの血が自然と止まり始めると、アメリアは名残惜しそうに口を離した。その唇の端に紅が残り、目には瑞々しい輝きが宿っていた。


「すごい。満たされた感覚。からだの芯が、あたたかい。光に包まれるみたい。ああ、こんなにも、生きているって、実感が……」


 リナリアが、()を見開いて声を上げた。


「ちょっと……アメリア⁉ 顔、変わってる! 若くなってるって……ほんとに、私と同じくらいの顔になってる!」


 アメリアは自分の手を見つめる。皺が消え、関節のかすかな痛みすらなくなっていた。肌は弾力を取り戻し、まるで少女になった質感がそこにあった。リナリアは目を細め、ぽつりと言った。


「これ、ルミナの血の、力?」


「それとも、私の体が、何かおかしいのかも」


 二人の言葉は交錯しながら宙を彷徨う。ルミナは手を見つめながら、血の跡を指先でぬぐった。やわらかな微笑みを浮かべて。

 朝市のさらに奥、硝子の破片のように陽を散らす路地を抜けた一角。そこは、地面にひび割れた黒曜石を敷き詰めたような区画で、屋台が骨と鉄で組み上げられていた。

 干からびたゾンビが営む、食材屋。腐った葡萄のようにくすんだ目は、妙な清潔感がある。リナリアを見つけると、ゾンビは顔の皮を吊り上げて笑った。


「よう嬢ちゃん、今日もいい顔してんな。あいかわらずピチピチじゃねぇか」


「いつものお願い。あと、トカゲのスモークもね」


 リナリアは笑顔で応じたが、ゾンビの目はその背後に立つアメリアに止まった。干からびた喉が、ごろりと音を立てる。


「ほほう。こりゃまた、奇怪な」


「ゾンビのあなたに言われたくないわ。あなたこそ奇怪でしょう?」


 アメリアは涼しげに応じる。「奇怪」などという語がまるで香水のように空を舞う。


「そりゃそうさ。俺らは奇怪そのもの、皮膚の下の滑稽さをぶら下げて歩いてるようなもんさ」


 ゾンビは肩を揺らして笑ったが、次の言葉は低く、湿った声。


「お前さん、グレイフのワイフだろ。あいつ、よくまあ、あんな肉体をここまで元通りにできたもんだぜ」


 アメリアの目がすっと細くなった。


「……元通り?」


「おっと、今のは――忘れてくれ」


「言いなさい」


 その声音は、風の流れさえ止めるほど冷ややかだった。ゾンビはしばらく固まり、わずかに天を仰いだ。


「まあ、いいか。お前さん、最初はな、もう完全に腐ってたんだよ。皮膚なんてジャーキー以下、内臓もところどころ干からびて、骨もところどころ黒ずんでやがった。元通りにするには足りない部位が多すぎた。だから俺が、街じゅう駆けずり回って集めたのさ。墳墓から、泥棒の死体から、古い友達から……同質の素材を、な」


「集めた……」


 アメリアは、思わず自分の腕を見る。真っ白でなめらかな肌。その奥に、見知らぬ死者たちの記憶が眠っているかもしれない。


「お前さん、若返っただろ? それが問題なんだよ」


「血を飲んだら……」


 アメリアは無意識に舌先で唇をぬぐった。


「だろうよ。死人が肉体を維持するのは、不浄なんだ。俺らの社会じゃ、肉体を脱ぎ捨てて、骨になることが完成なんだよ。あんたみたいな奴は半端者だ。どっちつかず。欲を持った死者ほど、危険なもんはない」


「なぜ? なぜそれが危険なの?」


 アメリアの問いは、思考というよりも祈りに近かった。ゾンビは空を仰ぎながら、ゆっくりと首を左右に振る。


「肉体がある限り、欲は死なない。 欲のある死者は、生者より厄介さ。境の向こうに留まれぬ奴は、いずれ、世界の縁を削り取る」


 沈黙が降りた。ルミナがそっと、アメリアの手を握った。アメリアは応えるように握り返す。震えはなかった。ただ、深く思考が旋回している気配だけがあった。

 ゾンビはため息をつき、黙々とトカゲのスモークを紙袋に入れていく。干し肉、漬け豆、白菜、パプリカ…。それらをかごに詰め終えると、ルミナへと差し出した。


「ま、いいさ。あんたが何でできてようが、動いて笑ってるならそれでいい。……ただ、その身体(からだ)、いずれ不便するぜ」


 アメリアは、ふっと笑みを浮かべた。真紅の唇がわずかに持ち上がる。


「それなら、あなたも骨になりなさいな。あなたも私と同じに見えるわよ」


 ゾンビは乾いた喉で笑った。ひとつ、かつんと足元の石を蹴るように。


「それも、悪くねぇ」


 三人は再び歩き出す。背を向けると同時に、朝市の喧騒がすっと背後へ遠のいていく。買い物かごを抱えたルミナが、後ろを振り返って笑った。


「ゾンビのおじさん、なんだかんだ優しいよね」


「腐った口にしては、説得力があったわ」


 アメリアが肩をすくめるように答えた。そのとき。リナリアがふと立ち止まり、遥か前方の崖上に目を凝らした。空に突き出るようにして聳える、白銀の塔――。ファルム・コラティナ。濃い霧に包まれ、輪郭がかすかに揺れていた。

 風がリナリアの頬を撫で、髪をひと筋ゆるやかに揺らした。小さな震えのように、朝の光が彼女の輪郭を透かす。朝は静かに、けれど確かに、蠢き始めた世界の輪郭をなぞるように歩き出す。

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