第八十二話 魂の輪郭
窓辺のレースが揺れていた。午後の風はわずかに涼しさを帯び、ダイニングの木の床に淡く影を落としていた。ガラス越しに届く陽光は、かつてグレイフが毎朝座っていた席の背を照らしている。その席に、アメリア・ヴァルトシュタインが座っていた。きょとん、とした表情。椅子に腰掛けたまま、両手を膝に置き、周囲を順に眺めている。その目はよく澄んでいた。どこか無垢で、けれど遠いところから世界を覗いているような、そんな不思議な奥行きがあった。
彼女の視線は、部屋の隅々に触れていた。天井の梁、窓際に置かれた紫陽花の鉢、壁にかかる時計の針の遅れ。それぞれを見つめるたび、何かを確認するようにまばたきする。まるでこの場所の一切が、彼女にとっては懐かしい夢の残滓であり、それをひとつひとつ拾い集める行為が、己を再び輪郭づける儀式であるかみたいに。
「……お茶、まだかしら?」
唐突に発せられたその言葉に、沈黙していた空気がわずかに弾けた。誰もがその声音に懐かしさを覚えながらも、すぐには言葉を返せなかった。
「アメリア」
声を発したのは、グレイフ。テーブル越しに、まっすぐ彼女を見つめている。
「君は、今……どういう状態か、わかるか?」
「ええ。お茶を待っている状態ね」
あっけらかんとした返事に、ジークが小さく吹き出し、ルミナが伏せたままピクリと片耳だけ動かした。クラウスは頬杖をついたまま目を細め、母の表情を探っていた。アメリアはふと彼の顔を見つめ、少しだけ首を傾げた。
「……さっきから、あなたたち皆、私を誰だって聞いてくるけど……」
そこで一呼吸、わずかに唇を吊り上げた。
「……ねえ、そっちはどうなの? あなた、本当にクラウスなの? だって……うーん、随分大きくなったし、少し……顔が、伸びた?」
「……俺への、最初の言葉がそれか」
クラウスは目を細めたまま、喉奥で小さく笑った。その苦笑には、ほんの少しだけ涙の味が滲んでいた。
「じゃあ、少しだけ話そうか。神秘学の試問みたいなものだと思って。いい?」
「お好きにどうぞ」
アメリアは両手を組み、すっと背筋を伸ばした。グレイフとクラウスは短く目配せを交わすと、最初の問いを投げかけた。
「魂とは何か……この問いに、君ならどう答える?」
アメリアは首をかしげる。
「それは難しい問いではなく、愚かな問いね。魂は、それを定義する者の数だけ形がある。問いという形式を取った瞬間に、答えは失われる」
クラウスが眉を上げた。記憶の中の母らしい。思考の骨組みは変わっていない。
「私が私である根拠は、どこにある?」
アメリアは即座に返した。
「それは、あなたが私ではないという感覚の中にしかないわ。違いを知ることで、自分という輪郭が浮かぶのだから」
クラウスがメモに何かを走らせ、グレイフがわずかに身を乗り出す。
「君は、君自身をアメリア・ヴァルトシュタインだと思っている?」
アメリアは少し目を細めた。微笑みのなかに、微かに戸惑いが混じった。
「なぜ……当然でしょう? あなたはグレイフで、あなたがクラウスで、そこに、初めましてのお嬢さんがいて、兎のかわいい子がいて……ワイルドなお兄さんがいる。それを知っている私がアメリア以外であるはずがないわ」
その言い回しのあまりの自然さに、クラウスが返事に詰まった。沈黙のなか、グレイフが問いかけた。
「それなら……生きていた時、最後に記憶しているものは?」
「……ええと」
アメリアは視線を天井へ向け、ゆっくり思い出そうとするように言葉を探した。
「冬だった気がする……書斎にあなたがいて。私は南の塔にいたの。本を読んでいて――」
そこで言葉を止めた。眉根が少し寄る。
「……それから……あれ? 妙ね。続きを探そうとしても、少し霞がかかっているみたい」
クラウスが口を開く。
「記憶が部分的に失われている。あるいは、再生された記憶に抜けがある。だけど、会話は完全だ。思考の跳躍も、倫理の整合性も……まったく揺らぎがない」
「……会話として成立している」
グレイフが低く呟いた。
「いや……それどころか、たぶん俺よりもハッキリしている」
クラウスの声には、どこか皮肉のような、羨望のような響きがあった。
「グレイフさん」
リナリアが口を開いた。長いあいだ黙っていた彼女が、テーブルの端から顔を上げる。
「人って、そういうものじゃないよね?」
グレイフは少しだけ驚いたように彼女を見て、そして苦笑した。
「すまない。これは自分を納得させるための儀式だ。たとえアメリアじゃなくても……確かめようがない」
ルミナがわずかに顔をあげ、ゆるく瞬きをした。
「……誰なのか、じゃないよ。ここにいるって、ちゃんと感じた。それで、もういいんだよ、たぶん」
その言葉を聞いたグレイフが、ゆっくりと椅子を引き、アメリアの方へ身体を向け直した。目に見えないものを、目の前に置かれた感覚に、彼は再び問いを投げる。
「何か、体に異常はないか?」
アメリアは、視線を宙に漂わせたあと、ゆっくりとグレイフを見た。その眼差しは、彼女自身の内部を探るような沈思の色をしていた。そして――口元が、微かに引き結ばれる。笑うような、困惑するような、あるいはまだその正体を自分でも見定めかねているというような表情。
「……ええ。実はずっと、喉の奥に渇きがあるの」
喉の奥から湧き上がるその渇きは、ただ水分を欲するという単純な渇きではなかった。粘膜が焼けるような乾き――それは何か特定の成分を求める本能的な訴えのようでもあり、時折その刺激が、視界の縁を赤く滲ませるような錯覚すら引き起こす。アメリアは掌を胸に当てた。「心臓が……別の場所にある気がする」と呟いた。それは物理的な錯覚というより、命の発信源が別の次元にずれているような感覚。言葉を選びながら、慎重に語る彼女の声は、淡く揺らいでいた。
「渇きの質は? 痛み? 不快感? それとも衝動に近いか?」
グレイフの声が低く、観測者としての問いに変わる。
「……衝動かしら。でも、いまは抑えられる。感情を鎮めていれば、意識の深くに沈めることができる。……けれど、体が、別の律動を欲しがるような……そんな感じ」
クラウスが膝の上のメモ帳を開き、何かを記しながら、父に目を向けた。
「父さん、母さんに何をしたんだ? 組織そのものが再構成されてる。母さんの体は……もはや生身のものじゃない。再生してるけど、これは不死に近い。 今の母さんの状態を表現する、言葉がないんだ」
クラウスが言い切る。リナリアは、ルミナの背をさすりながらその言葉を聞いていた。ジークがふと、ルミナの髪に落ちた埃を払うような仕草をして、言った。
「おいおい。せっかく奥さんが帰ってきたんだぜ? なんでみんな、死人みたいな顔してんだよ」
その一言が空気の緊張を少しだけ緩めた。けれど、グレイフの視線はアメリアの手元に注がれたまま。彼女は、静かに指先を見つめていた。白く透き通った肌。爪の先に、ほんのわずかな紅が差していた。まるで、血そのものが意識を持って、外に現れようとしているような色。
「私、アメリア・ヴァルトシュタインよ」
アメリアは、まっすぐに言った。その声音は穏やかだったが、そこには揺らぎがなかった。
「……ねえ、あなた、私が私であること、疑ってるの?」
問いかけは鋭さのない、柔らかな刃のよう。けれどそれは、長い時間をかけて知り尽くされた声の調子。グレイフの記憶の底に残る、幾千の夜をともにした在り方そのもの。グレイフは返事ができなかった。答える言葉が、なかったのではない。答えなど、必要なかったのかもしれなかった。その一瞬、彼は世界から孤立した。ただそこに、アメリアが在る――という事実だけが、問いを打ち消していた。
「……いや、疑ってなどいない」
声が、かすかに震えていた。アメリアがふっと、口元を緩めた。その微笑には、説明も理屈もいらないものが宿っていた。
「なら、いいじゃない」
それだけを言って、彼女はもう一度、自分の手を見つめた。




