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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第五章 夢に住む人々

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第八十一話 魂の再構築

 庭には雲ひとつない空が広がっていた。遠くの方で鳥が鳴き、芝生の上を風がゆるやかに撫でていく。木々の間を通り抜けてきた光は、葉を透かして揺れ、まるで地面に水を撒いたように静かな反射を落としていた。午後の空気はどこまでも柔らかく、静けさというよりは、昼寝を誘う、緩慢な眠気を(まと)っていた。


「これ、昼飯のあとにやる儀式じゃないな」


 ジークが手をポケットに突っ込んだまま、草の上に片足を伸ばしながらつぶやいた。


「ん? どうして?」


 クラウスがメモ帳を手にしながら、どこか気の抜けた調子で返す。


「だってよ、気持ちよすぎて。緊張感が湿気で流れ出してんだよ……せめて曇っててほしかったな、もうちょっとこう、厳かな感じ?」


「贅沢だな。天気まで演出に使うなんて、魔法使いってのは随分欲張りらしい」


 クラウスが肩をすくめる。ジークは鼻で笑い、木陰に体重を預け直した。


「緊張しないのか?」


「するに決まってる。でも……それを見せたら、たぶんあの人が失望する」


 そう言って、クラウスは少し離れた場所で、静かに本を読みながら歩いているリナリアに目をやる。その背中は、緩やかな光を撥ね返すように透明で、どこかこの場所だけ別の時間で動いているようにも見えた。庭の中央――グレイフとアメリアが向かい合って立っている。時間の止まった彫像のように、彼らの姿だけが風景から浮き上がっていた。クラウスの目は父の背中を追っていた。

 リナリアはその周囲を、魔術書を片手に歩いていた。一歩(いっぽ)ごとに足元の草がわずかに揺れ、ページの隙間を風が通るたび、古びた語句が午後の光に溶けて消えた。右手の指先で空中に線を描きながら、リナリアは囁くように呟きを続けている。その手に握られているのは、グレイフが渡した――フェリオラの実験記録。

 グレイフはアメリアの傍らに立ったまま、黙ってそれを見つめていた。儀式はすでに、最後の工程を残すのみ。その工程は何度も試された。何十回と繰り返された。そして一度も成されなかった。


「一瞬で終わる」


 彼は誰にも聞こえぬように呟いた。完璧な理論。正確な式。すべてを記したはずの書。けれど「言葉」が魂を編むという最後の一節だけが、どうしても――動かない。彼の声では届かなかった。何かが、欠けていた。アメリアは声を発さなかった。


「なあクラウス、もし今日うまくいったら……あの人、笑うと思うか?」


 ふいにジークが尋ねた。


「……どっちの?」


「アメリアさんでも、リナリアでも。いや、お前でもいいけど」


 クラウスは少し考えて、メモ帳を閉じた。


「誰かが笑って、誰かが泣いて……誰かが呆然として。それで、誰も何も言えなくなる。……そういう日になればいいなって、ちょっと思ってる」


「詩人かよ」


「今日だけな」


 少し離れた場所で、ルミナが風を読むように目を細めていた。風の中に「温度のないもの」が混ざっている。聞こえないはずの音が、足元から昇ってくる。彼女はふと、リナリアを見た。リナリアが目だけをこちらに向けて、静かに告げる。


「グレイフさん。クラウスさんのもとへ、お下がりください」


 グレイフが一瞬だけ迷ったように眉を動かしたが、すぐに頷いた。アメリアの(そば)を離れ、クラウスたちの(がわ)へ向かう。庭の中央には、アメリアひとりが残された。黒髪を陽光にたなびかせ、ただそこに立っていた。瞳の奥に何も映さず、口を動かすことなく、静止する人形のように。

 芝生の庭に、風が止む。空が沈黙する。光の粒子が微細に揺らぎ、時間そのものが張りつめた膜のように、世界の上に薄く、透明に重なっていた。

 リナリアは、歩くのをやめなかった。記録の書は手の中に在りながら、彼女の眼はそこを見てはいない。リナリアが円を描く内側、アメリアの輪郭だけを見つめながら、指先を淡く震わせ、言葉でも音でもない囁きを発していた。空気が、彼女の指の軌跡に追いつけずに揺れ、波打ち、やがて一切の「自然な音」を失った。

 午後の庭が、裏返る。風は吹いているはずなのに葉が揺れず、光は差しているはずなのに影が生まれない。クラウスが思わず筆を止め、ジークが半歩だけ前に出る。けれど、誰も動こうとはしなかった。ルミナだけが、その異変の中を進みリナリアに近づく。

 彼女は、自身の体がわずかに震え始めているのを感じていた。骨の奥が光を帯び、皮膚の下を魔力が巡る。それは痛みでも痺れでもなく――「目覚め」。リナリアの魔法が、世界の法則を裏返し、魂と魔力の接続点をこの庭に定めた瞬間。リナリアの唇が動いた。


「……帰声(Vaelyan)


 その語は、世界を切り裂いた。空間がねじれ、音が逆流する。耳で聞く音ではない。肌で刺さる音でもない。重力波のような、あらゆる振動が逆流し、空間の記憶が解凍されていく。芝生のひとしずく、アメリアが歩いた過去の風、衣擦れの音。すべてが今、この瞬間に巻き戻される。音と記憶が合流する場所。そこに、リナリアが立っている。

 彼女の足元から、振動が立ち上がる。それは、何千もの消えていった声の残響――。


 ――「冷えてるから、着なさい」

 ――「今夜はもう少しだけ、そばにいて」

 ――「あなたの声が、好き」


 それはアメリアがかつて世界に語りかけ、世界が受け止めた記憶たち。誰かの記憶ではなく、空気ではなく、時間そのものがそれを覚えていた。

 リナリアの左手がわずかに浮かび、宙に咲いたひとつの「結晶」に触れる。その指先に応じるように、ルミナの瞳が輝いた。彼女は静かに、無言で手を差し出す。触れたわけでもないのに、その掌から、さらに数十、数百の音が発光するように現れていく。

 ルミナという存在――。それは、魔法生物であり、死の精霊と四大精霊の構造を複層的に編み上げられた、フェリオラの理論の結晶体。今、その理論が「創造者の娘」と共鳴した。

 空間が再度反転する。世界が、自らの記憶を呼び起こす。アメリアが生きた、わずか数十年。その波紋が、星霧(せいむ)の森を超え、塔の司書の筆を止めさせるほどの力を持っていた。言葉ではない、ただの気配。けれどそれが、世界の繊維を震わせるとき、音が生まれる。音は、記憶の型をなぞり始める。

 言葉の一粒が、質量を持ち始める。言葉にならない「まーまー」が、振動し、次の「あーぶー」を呼び、それがさらに「ねんね」の声を再生し、世界に散っていた微細な魂の破片が、音として、自重で落ちていく。

 それは、魂の再構築。


「言葉とは、魂が世界と交わる現象であるならば。言葉は、魂と世界の間に橋をかけるもの。ならば私は、言葉から魂を呼ぶ」


 それはリナリアの新しい解釈。そして今、それが成された。空に浮かぶ結晶たちが、一点に収束していく。すべての記憶が、音の奔流となり、アメリアの胸元に集まる。彼女の黒髪がそよぎ、瞼がかすかに動いた。次の瞬間――彼女の胸が、震えるように上下した。声が、出る。


「アーーーーーーーーーーーーッ!」


 言葉ではない。意思でもない。ただ、魂が初めて空気に触れた「産声」。世界が、彼女の存在をもう一度許した音。空間が共鳴し、アメリアの身体(からだ)が微かに震える。グレイフが震える手でペンを握り、クラウスが記録の頁を濡らすまいと無言で涙をこらえながら、筆を走らせる。

 ジークは、ルミナの背中を見て立ち止まる。彼女の体からは、光と共にかすかな音が溢れていた。ルミナは、触媒であり、祝詞でもあった。誰かの声になれなかった声。生まれるために創られたものではなく、呼ぶために在った存在。今、その名もなき祈りが、アメリアの輪郭を照らしていた。

 リナリアは、そっとアメリアの手に触れた。触れたとき、世界が凍ったように静止した。彼女の中に、溢れるように流れ込む声。誰かが歌った子守唄。朝の光で繕われた笑顔。薄紅(うすべに)色の布の手触り。それは、リナリアの記憶ではない。けれど、彼女が確かに覚えている記憶。


「……お帰りなさい」


 それは祈りではなかった。呼びかけでもなかった。ただ、そこに還ってきた(もの)に与えられるべき唯一の言葉。アメリアの瞳が、ゆっくりと揺れる。その奥に、途方もない時間を経た問いの回廊が映った。そして彼女は、微かに微笑んだ。


「……ただいま」


 言葉が、空気を震わせた。世界が、ふたたび時間を動かした。クラウスはペンを握ったまま、しばらく紙に触れなかった。ジークは吸い込んだ息を喉に止め、ただ立ち尽くしていた。リナリアの手の中で、アメリアの指がかすかに動いた。何の意味もない動き――それなのに、彼女たちは同時に、微笑んだ。風が吹いた。緑が色を取り戻し、芝生が撫でられる音だけが、空を渡った。遠くの空で、名前を呼ぶように鳥が鳴いた。世界が、その音に「在る」ことを、もう一度思い出した。

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