第八十話 封じられた名の重み
ダイニングに立ちこめる静寂は、言葉に手を伸ばす者すら退けるほど深い。重ねた掌の上に落ちる光は冷たく、まるで過去そのものがそこに沈んでいるかのよう。グレイフ・ヴァルトシュタインは、ずっと俯いたまま、沈黙の深さを測っていた。ようやく、喉の奥から掬い上げるように、ひとつ目の声が生まれる。
「私は、フェリオラ・ウィンスレットの理論を知っていた」
音はかすかで、けれど鋭い。その言葉だけで、空気がわずかに震える。
「あの理論に触れたとき、最初に駆け抜けたのは、歓喜だった。発見だ。真理だ。世界を覆す叡智だと、そう思った」
目を閉じるでもなく、彼はかすかに眉を寄せる。呼吸が浅くなる。
「だが、そのすぐ後に――私は、戦慄した。人間として、心底、震えた」
膝の上で重ねられた手が、かすかに震えていた。それを自覚していないかのように、グレイフは話を継ぐ。
「取り憑かれ、誰にも渡したくないと思った。書を見つけては、私の手元に封じ、解析し、独りで読んだ。フェリオラの理論は、あまりに滑らかで、あまりに美しかった。構造が……完璧すぎた」
リナリアは一言も挟まなかった。ただその眼差しが、淡い光のように彼を貫いていた。
「君の母の理論は、魂を再構築するもの。死を超える体系。だが私は……その体系の起点に何があるのかを考えなかった。共和国の上層部にも告げなかった。なぜか? 理由はひとつ。私が、試したかったからだ」
グレイフの唇がわずかに震えた。
「共和国を守るより、真理に触れていたかった。理論を示せば抑止になったかもしれない――けれど私は、知りたかった。自分の目で、届くかどうかを。あの時の私は、世界を変える責を引き受ける覚悟すら、問おうとしなかった」
それは懺悔であり、独白。
「共和国が崩れたとき……私は悟った。あの理論は、成功していた。フェリオラは――成し遂げたんだ。別れのない世界を」
彼の目にかすかな陰が射した。
「私は、後に発表することもできた。彼女の成し遂げたことを世に出し、その名を歴史に刻むことも、できた。帝都で地位を得て、研究所を築き……クラウスと再び暮らすことも、不可能ではなかった」
彼の声が少しだけ低くなる。誰にも届かない場所で、長く独白していた者の響き。
「だが、私はそれを選ばなかった」
沈黙の縁で、リナリアの視線が揺れる。問いかけるような、しかし押しつけないまなざし。グレイフはその視線に応えるように、初めて顔をしっかりと上げた。
「フェリオラが成し遂げたことは……あまりにも、美しすぎた。誰にも止めることができないと悟った」
指先がわずかに強張ったまま、彼の声は続く。
「それが、最善の選択か……私には、わからない。だが、私はそれに気づいて、恐れた。心の底から」
言葉の継ぎ目に、彼のなかでいまだ燻る恐怖の色が滲んでいた。
「だから、私は……隠した。焼却しようとさえ思った。だが、それもできなかった。なぜなら――あれは希望でもあったからだ」
一瞬、声に熱がこもる。
「私は矛盾したまま、アメリアを救おうとした。それだけだ」
言葉が終わると、ダイニングの空気がひときわ静まった。どこかでロッキングチェアが軋んだ。窓の外で、ポプラの葉がそっと揺れた。
「それが、私の選んだ道だ」
その言葉には、潔さでも誇りでもない、ただ純粋な真実だけがあった。
「お前の母を、世界に知らせないこと。理論を封じ、自分も語る資格を失うこと。……それが、私が背負った選択」
グレイフは、リナリアの方をしっかりと見つめる。
「クラウスを置いてきたことも、その報いだと思っている。アメリアを選び、研究にすべてを賭けた私は……正しかったとは、一度も思っていない」
声が低く沈む。その言葉の奥には、悔恨よりも深い、自覚があった。沈黙。誰も言葉を発さない時間のなかで、グレイフは最後の言葉を口にする。
「君は、彼女の娘だ。血を分けた者として、想いを継いだ者として……君の方が、私よりきっと知っている。彼女が何を願っていたのか、何を捨て、何を選んだのか」
その声には、懇願でも命令でもない、ただただ透明な問いがあった。
「私は、あの場所から逃げた。名を語る資格も、志を伝える資格も、もうない。けれど――」
静かに、はっきりと続けた。
「もし君が、フェリオラの真意を追い求めるなら。それは私ではなく――君自身が向き合うものだ。世界に、かつてひとりの魔法使いが遺した問いがあるとすれば、その答えは……きっと、君の中にある」
そのとき、窓の外で鳥が一声鳴いた。ダイニングの光がひとすじ傾き、銀のティーポットが僅かに反射を揺らした。沈黙の中、誰もがその言葉の落ちる音を聴いていた。そしてリナリアは、胸の奥で何かが微かに音を立てて、動き出したのを感じていた。名前も形もない、けれど確かにそこに在る何かが、眠りから目を覚まそうとしていた。
長い沈黙があった。グレイフの最後の言葉は、まるで時間の奥底に沈めた石のように、部屋の空気に重たく染み込んでいた。窓辺で揺れていたカーテンが、風もないのにゆるやかに波を打つ。それは、彼の言葉が空間に届いた証。リナリアは、両手を膝の上でそっと重ねたまま、静かに口を開いた。
「母は、夢のような記憶のなかで、確かに別れのない世界を語っていました。まだ私が幼い頃。日差しの入る部屋で、本を閉じて……ときどき、ため息混じりに、ぽつりと言っていたんです」
彼女は遠い目で記憶を辿っていた。クラウスも、ジークも、ルミナも、誰一人言葉を挟まない。ロッキングチェアのきしむ音だけが、場をつなぐ橋のように鳴っていた。
「あなたは、母の世界を信じた。そして、その世界の中でアメリアさんと生きてきた。……それは、あなたが母の問いに自らの答えで応じたという、確かな証です」
それは、優しさと厳しさが入り交じった言葉。同時に、リナリア自身がこれまで心の底で整理できなかった感情――母を信じた人間がこの世にいて、そしてその信じた先に生きている誰かがいるという事実を、ようやく受け入れられるようになった瞬間でもあった。グレイフは、なにかを堪えるように瞼を閉じた。肩がわずかに震えていた。そして、グレイフは口を開いた。声が微かに掠れていた。
「君に、お願いがある」
リナリアは頷いた。グレイフは目の前の少女を、初めて「救いの対象」ではなく、「等しい者」として見つめていた。
「アメリアの心を……取り戻してほしい。彼女が最後に見ていた世界を、もう一度、声にしてほしい」
リナリアは、ふっと微笑んだ。希望の気配だけをその瞳に宿しながら。
「あなたは、私の母を信じた。ならば、私が母を信じないはずがない。母の問いかけの続きを――私の答えとして、この世界に織り直してみせます」
その言葉はまるで、何かを終わらせ、何かを始める合図。部屋の中央に置かれた銀のティーポットが、陽の傾きにきらりと淡く光を返す。その光に、ふと目を細めるリナリアの瞳が、静かに揺れる。誰もが言葉を飲み込んだまま、その時を見つめていた。けれど、その沈黙はもはや絶望ではなかった。それは、物語の頁が新たにめくられる、その直前にしか訪れない静寂。




