第八話 影のささやき、光の欠片
森には、春の香りが満ち始めていた。木々の葉は日に日に濃さを増し、雪解け水が小さなせせらぎとなって地を潤す。陽光はやわらかく差し込み、森の隅々まで生命の息吹を伝えている。けれど、リナリアの立つ場所だけは、不思議な静寂が漂っていた。
彼女は、動きやすい練習着に身を包んでいた。長袖の軽いシャツが風をはらみ、ショートパンツがすらりとした脚を際立たせる。冬の間は膝下まで覆うロングブーツを履いていたが、今日はそれを脱ぎ、しなやかな革のサンダルを履いていた。足の甲にひんやりとした大地の感触が伝わる。それはまるで、森の息吹と直接触れ合っているような感覚。
庭の片隅では、フェレリエルが微笑んでいた。彼女は春の若葉を思わせる柔らかな緑のワンピースを纏い、赤銅色の髪を緩く編み込んでいる。その指先には、光を帯びた小さな精霊がふわりと浮かんでいた。
「リナリア、ほら、こうやって……手を広げて、そっと呼びかけるの」
フェレリエルが手をかざすと、精霊は優しく揺れながら彼女の指先に触れるように舞い降りた。リナリアはそれをじっと見つめ、ゆっくりと同じように手を差し出す。
けれど——何も起こらなかった。森の風がそよぎ、リナリアの指先をかすめていく。それでも精霊たちは、彼女には目を向けようとしなかった。フェレリエルの周りで楽しげに舞うばかりで、リナリアにはまるで興味を持たないかのように。リナリアの胸に、冷たい感覚が広がる。
——やっぱり。
それは、前から気づいていたこと。それでも、こうして何度も突きつけられると、その事実が胸に深く染み込む。彼女には、精霊の囁きが聞こえない。加護を受けることができない。精霊たちはリナリアを愛さない。それなのに——。
影が揺らめいた。風もないのに、リナリアの足元に沈んだ影が、ゆっくりと広がる。黒い波紋のように、静かに、けれど確実に。その広がりの中から、何かが息をひそめる気配がする。
——来る。
リナリアは瞬きを忘れ、静かに息をのむ。気づけば、森の空気がひやりと冷えていた。フェレリエルの周囲を舞っていた精霊たちが、一斉に気配を消し、木々の間へと逃げるように消え去る。鳥のさえずりも止んでいた。ただ、リナリアの影の奥から、名もなき囁きが響く。
——呼んでしまった。
リナリアの背筋に冷たいものが這い登る。彼女は精霊を呼ぼうとしていた。けれど、呼び寄せたのは——。
「……リナリア」
その声が響いたのは、エリオーネ。リナリアは、ハッとしたように顔を上げる。エリオーネは庭の端に立っていた。白磁のように透き通る肌を持つ彼女は、ゆったりとした紺碧のドレスを纏い、銀白の髪を高く結い上げている。春の陽光がその髪を淡く照らし、静かな光の輪をつくっていた。その深緑の瞳は、リナリアの影を捉えていた。そして、その揺らめきが何を意味するのかも——。
エリオーネはゆっくりと歩み寄ると、静かに微笑んだ。
「少し、手伝ってほしいことがあるの」
フェレリエルが訝しげに眉をひそめる。
「手伝い? 何を?」
「森の中から、いくつか素材を集めてきてほしいの」
「素材?」
リナリアは戸惑った。エリオーネは、彼女の迷いを包み込むような穏やかな声で続けた。
「生きたもの——あなたが『これだ』と思うものを、直感に従って選んで」
「……生きたもの……?」
リナリアはフェレリエルと視線を交わした。フェレリエルは、「つまり、何かの材料を探せってことね?」と軽く言いながら、興味深そうにエリオーネを見つめる。
「でも、何を作るの?」
フェレリエルが目を輝かせる。エリオーネは、ふっと微笑んだ。
「それはまだ秘密」
フェレリエルは「またそうやってもったいぶるんだから」と、わざと拗ねたように唇を尖らせた。
「まあ、面白そうだしやってみるわ。リナリア、一緒に行く?」
リナリアは、戸惑いながらも、エリオーネの表情をじっと見つめた。その瞳の奥には、どこか彼女の決意が透けて見えた。
——何かを決めている。
そう感じた。けれど、それが何なのかは、まだ分からなかった。
「……うん」
リナリアは、ゆっくりと頷いた。エリオーネはその答えを聞きながら、静かに目を伏せる。これでいい。リナリアがどんな素材を選ぶのか——それが、すべてを決めることになるだろう。そして、その選んだものが、彼女自身の未来を映すことになる。それは、まだ見ぬ「新たな命」の誕生の第一歩。