第七十九話 声なき神託
ダイニングの空気は、火を灯す直前の蝋燭の芯のように静まり返っていた。長いテーブルの表面には、朝の気配がまだ退かぬような、仄かに滞った静けさが漂っていた。光はすでに柔らかさを脱ぎ、窓辺のカーテンをすかしながら、リナリアの額に透きとおる影を落としていた。風はなく、ただ天井に張りついた気配だけが、時をそっと刻んでいる。遠くでポプラの葉がすれる音が聞こえた。まるで昨日の夢の残響のように。
グレイフ・ヴァルトシュタインはテーブルの向こう、ちょうど正面の席にいた。背もたれに寄りかかることもなく、膝の上で手を重ねたまま、リナリアを真っ直ぐに見つめている。そのまなざしには、言葉が尽きたあとに残された沈黙の重みが宿っていた。目元の奥に、かすかな苦悩がかすめた。話せないのではない。語るには、あまりに感情が多すぎるのだ。
目の前にいるその少女――リナリア・ウィンスレット。
フェリオラ・ウィンスレットの、娘。かつて書架の奥で何百回も目にしたはずの名が、今、呼吸をして、まばたきをして、自分を見返している。歴史のなかでしか触れ得なかった名前が、いまは、息づきの熱と、木椅子の重さとともに、目の前に在る。彼女の沈黙は問い。彼女の存在は、過去への反証。
ルミナがリナリアの隣に控え、なにも語らずに彼女の輪郭を守っていた。クラウスはテーブルの端で頬杖をつき、ジークが背中ごと少し斜めにずらして、それを隣から静かに支えている。アメリアのロッキングチェアがときおりわずかにきしむ音がする。微かに上下するその音だけが、時のなかに小さな波紋を投げ続けていた。
グレイフはその波紋のひとつひとつに感情の名をつけたくなるのをこらえながら、自問していた。何から話す?何を最初に、この娘に差し出せばいい? 彼女は自分の人生を変えた者の血を引く――ヴェルンハイム共和国が崩れ、アメリアが死に、息子を帝都に置いて背を向けた、あの日の起点。すべてが崩れた瞬間を運命づけた存在。それなのに、なぜこの少女に、ここまで強く心を掴まれているのか。
それは彼女が答えを持っているから。神に最も近い問いを、形として宿している存在。死者と対話する力。死の精霊との交信。彼が長い年月を費やしながら届かなかったもの。リナリアは、神だ。けれど、彼女は同時に娘にもなり得る。クラウスがその名を呼ぶなら、自分は、彼女にどんな言葉を向けるのか。未来のために語るのか、過去の償いとして語るのか。わからなかった。わからないまま、喉の奥だけが乾いていく。
リナリアは長い睫毛の影の奥から、グレイフの視線を静かに受けとめていた。彼女の中で何かがほどけ、何かがかたちを成す。そのとき、指先がわずかに揺れる。彼女は、少しだけ背筋を伸ばし、まっすぐに言葉を発した。言葉というより、それは祈りにも似た、儀式のような呼吸。
「私は、フェリオラ・ウィンスレットとノクティス・ウィンスレットの娘、リナリア・ウィンスレットです」
その名乗りには、装飾も揺らぎもない。ただ在るべき形で在るという、絶対の静けさ。誰も言葉を挟まなかった。グレイフの瞳がかすかに揺れた。その指先がわずかに動いたのを、リナリアは見逃さなかった。
「星霧の森で、叔母のエリオーネ・ルヴェリエに育てられました。父と母のことは、エリオーネに聞かされて、ずっと会いたいと願ってきました。でも、会えなかった。どこにいるのかさえ、知らなかったから。だから、探しました。旅をして、母の本を探して、遠い記憶に触れながら……ようやく、クラウスに出会って、あなたにたどり着いたのです」
言葉を編むたびに、空気が澄んでいく。室内にあるすべてが、リナリアの声を聴いていた。
「私は、母のことを知りたい。フェリオラ・ウィンスレットという魔法使いが、何を見て、何を成し遂げようとして、そして、何を失ったのか。あなたは、私の母にいちばん近づいた人です」
その声は細くも鋭く、やわらかな刃のようにグレイフの胸に降りてきた。彼は息を吸ったが、すぐには言葉を返せなかった。リナリアは問いを続ける。
「ひとつ、どうしても聞きたいことがあります」
その前置きのあとで、彼女の声音はわずかに沈んだ。決して非難するようではなく、どこまでも痛みをわかち合いたいという意志で。
「あなたは、母が、このアンデッド禍の始まりに関わっていたと――そう、気づいていたのではありませんか?」
椅子がきしむ。誰のものでもない音が、部屋の隅でかすかに鳴った。けれどグレイフは姿勢を崩さなかった。ただ、掌を伏せたまま、沈黙の奥に沈んでいた。
「私が調べた限り、母の名が記録に残っているのは三百年前までです。そして、母の理論は、まるで最初から存在しなかったかのように、すべてが……世界から消されていました。名も、痕跡も、ただの一行さえも」
リナリアは、その全てがグレイフによるものだと言いたかったわけではなかった。ただ、誰もが避けて通ったその核心に、彼だけが沈黙で向き合っていたことを、彼女は感じ取っていた。
「なのに、あなたは、その名を告げなかった。あなたほどの人なら、母の名を世界に告げることができたはずです。共和国が崩れる前に。それを止められるだけの力があった。それでも、なぜ――沈黙を選んだのですか? 私は訊かずにはいられないのです。それとも、誰も辿り着けていない真実だったのか。あなたの言葉で、教えてください」
問いかけの語尾は、あくまで穏やか。責める意図も、押しつける力も、そこにはなかった。ただ、知りたかったのだ。なぜ、母の名が、この世界から消されたのか。なぜ、彼はその名を口にせず、自らを語らずにいたのか。それは彼女の存在そのものが背負い続けた、名も持たぬ問いのかたち。




