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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第五章 夢に住む人々
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第七十八話 声なき声、魂の輪郭

 ダイニングの奥、磨かれたガラス越しに、風が芝の緑を静かに撫でていた。雲の切れ間からこぼれた陽が、庭に斑を描き、三つの影――クラウス、グレイフ、アメリアの影を芝の上に長く落としていた。リナリアは湯気の立つ紅茶を唇に運び、ひと息で喉の奥に滑らせた。一切の音が、遠く沈んでいた。彼女の眼差しは、旋律が途絶えたあとの静けさのように、窓の外の光景にそっと寄り添っていた。

 カーテンが、開け放たれた窓から吹き込む風に揺れ、淡く舞った。ティーカップの縁がほのかに鳴る。ポプラの葉擦れが、どこか遠くでさやさやと笑い、小鳥のさえずりがそのリズムに重なる。まるで、世界が呼吸しているよう。

 ルミナが膝を抱えて座り、カップに触れることなく、裏庭を見つめる。その目はアメリアに注がれていた。芝生の上をゆっくりと歩く女性――アメリア。その動きは正確で、整っていたが、まるで誰かが操る人形。


「……魂って、何なんだろうね?」


 その声は、水面に小石を落としたように、静かに空間を波立たせた。リナリアは、すぐには答えなかった。芝の上を進むアメリアの足取りを見つめ、ゆっくりとまぶたを伏せる。芝を踏む音は聞こえず、声も、呼吸すらも感じない。けれど――彼女は生きている。たしかに、歩いている。だが、その「動き」は、(せい)ではない。

 生きているとは、何か。リナリアは考えていた。魚にも、虫にも、鳥にも、生命はある。それは疑いようがない。けれど、魂は? 魚を見て、「そこに魂がある」と感じることは稀だ。なぜだろう。条件反射の塊に見えるから。外からの刺激に応じて動くだけ。人間の身体(からだ)ですら、手足は反射で動く。火に触れれば熱くて引っ込める。痛ければ叫ぶ。だが――。

 声だけは、違う。「声」は、自分の中から出そうとしなければ、出ない。呼吸から生まれた振動が、やがて音になり、音程とリズムを得て、言葉になる。言葉は、伝えたいと思う意思がなければ、生まれない。

 魂とは――言葉の源ではないか。アメリアには、その「声」がない。ただ、体だけがある。言葉は発されず、目の奥には空虚が横たわっていた。一方、街で出会ったゾンビやスケルトンたちは言葉を交わしていた。「こんにちは」と言えば、「こんにちは」と返してくる。でもそれは……本当に会話だろうか?

 挨拶を返されたとき、私たちは無意識に通じ合えたと感じる。でもそれは、本当に魂が触れ合ったの? もしかしたらそれは――誰かの真似にすぎないのかもしれない。機械のような反応。心も、思考も、そこにはないかもしれない。それでも、言葉があるだけで、私たちは「魂がある」と錯覚する。


「魂ってね……きっと、自分の声が誰かに届いたとき、そこに初めて生まれるものだと思うの。息が音になって、音が意味になって、誰かに伝わって……そのとき、魂は形になるのよ」


 リナリアは視線を窓の外から外さぬまま、呟くように言った。


「……そう思わない?」


 問いではなかった。ただの響き。誰に向けたものでもない――けれど、それはテーブルの上に小さく置かれた疑念の結晶。ジークがカップを手に取り、少し考え込むように肩をすくめた。


「スケルトンの嬢ちゃんたちのほうが……魂を感じたな。あいつらの方が、よっぽど生者だな」


 リナリアは、かすかに笑った。それは安堵ではなく、肯定でもなく、どこか痛みを含んだ微笑。


「……でしょ?」


 そして彼女は、思考の深みに、さらに静かに潜っていった。


「魂って、目には見えないけれど、いくつもの層を持ってる気がするの。声であり、意志であり、誰かのまなざしに触れて初めて、形を持つもの。どれも全部、ばらばらなようで、でもどれが欠けても魂とは呼べないの」


 その言葉は、波紋のように広がる。誰かに語るというよりも、自分自身の奥深くから引き出された独白。リナリアの視線は、静かにアメリアの姿へと向いていた。芝の上をゆっくり歩くその姿。声を持たず、ただ歩くだけのその背に、リナリアは不思議な温度を感じていた。


「たとえばね……生きていた頃のアメリアさんの声を、記憶のなかから集めていくの。記録でも、言葉でも、誰かの耳の奥に残っているものでもいい。ばらばらになった言葉の欠片を――ひとつずつ、巻き戻すようにして、彼女の中に戻していく」


 それは、詩のような幻想にも聞こえる。けれど、ルミナの瞳が微かに揺れ、リナリアの言葉に感応する。


「もしも――彼女がそれを受け取って、声を返すことができたなら……それは、アメリアさんが生きてるってことになると思うの」


 リナリアは、カップの縁に指を添えながら、ほとんど囁くように続けた。


「だって、彼女だけが知っていることを、彼女が答える。それはもう、反射でも模倣でもない。魂の反応……そうでしょ?」


 風がカーテンを膨らませ、紅茶の表面がかすかに震えた。静けさは、深まるほどに感情を掬いあげていく。


「……心って、自分であるって、いつ感じると思う?」


 その問いは、誰にともなく宙へ溶けた。彼女の目は開いていたが、視線は内側に向いていた。


「私はね……他人に言われて、初めて気づくものだと思ってる。『あなたには心がある』って言われて、はじめて、『そうなんだ』って思うの。魂も、きっとそう。自分で見えるものじゃない。他人の目を通して、ようやく形を持つのよ」


 その声に、ジークもルミナも、何も返さなかった。けれど、応えるように、空間がわずかに深くなった。


「死ぬって、肉体が終わること。でも、それだけじゃない。言葉が終わることなの。最後に吐く息と一緒に、言葉も終わる。名前も、祈りも、嘆きも、もう届かないところへ溶けていく。声のない世界で、誰にも届かぬ想いは、やがて小さくなって……消える寸前(すんぜん)に、誰かを探して待っているのよ。だから、魂も、たぶん……そのときに、いちばん小さくなる。でも、小さくなっただけで、きっと消えてはいない。触れてくれる誰かを、待ってるのよ。息を、言葉を、もう一度、宿してくれる誰かを」


 リナリアの言葉が、紅茶の表面を撫でるように、静かに空間を横切った。アメリアはその外側にいて、けれど決して「いない」わけではなかった。


「ねえ……いまのアメリアさんって、生きているって言えると思う?」


 その声は、風よりも細く、けれど確か。しばらくの沈黙。ジークが肩を持ち上げ、ぽつりと呟いた。


「あの骨の嬢ちゃん、俺に後で手紙くれたんだ。骨だけなのに、あんなに寂しそうな目をしてた。少ししか話してないのにさ……だから、わかるんだ。あれは、魂だって」


「わかるよ」


 リナリアは頷いた。窓の外では、クラウスがアメリアの手を握り直していた。その横で、グレイフがそっと立ち止まり、何かを見つめていた。


「私たち……気づき始めてるんだと思う。魂って何か。言葉がなぜ生まれたのか。それを知っていたのが――お母さん。フェリオラなのよ」


 彼女の声は、低く、やわらかく、祈りのように流れていった。芝の上で風がひとすじ駆け抜け、アメリアの髪を揺らす。それは言葉ではない、けれど確かに伝えられた気配。リナリアの胸に宿ったその確信は、まだ言葉にならない想いのまま、音のない声として脈打っていた。

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