第七十七話 芝生のうえの記憶
朝の食卓を終えた室内には、余熱のような静けさが漂っていた。まるで音楽が終わったあとの、旋律の尾が空間に残っているような空気――耳には届かないのに、音楽がまだ部屋のどこかで響いている気がした。カップの縁には斜めの光が宿り、ティースプーンの影が揺れている。時計の音も、呼吸のように深く、静かに壁の向こうへ沈んでいた。
開け放たれた窓から、風がそっと入り込んでくる。薄布のカーテンがふわりと揺れ、椅子の脚元を撫でて通り過ぎていった。ポプラの葉がさらさらと鳴り、小鳥たちが枝を渡ってさえずっていた。リナリア、ルミナ、ジークは言葉を交わさず、並んで椅子に座っていた。温かい茶の香りが、カップのふちに静かに漂っている。彼らの視線は、窓の外――裏庭の芝生へと注がれていた。
芝生の上には、三つの影。クラウスが母アメリアの手を取って歩いている。その手は静かに、だが確かに彼の導きに応じている。アメリアの瞳はただまっすぐ、遠いものを映すように庭を見つめていた。その傍らを、父グレイフがゆっくりと歩いていた。二人から少し離れて、しかし目は一瞬たりとも離さずに。
それは会話のない舞踏のよう。リナリアは息をひそめるようにして、その光景を見つめていた。唇にはなにも乗せず、ただ目だけが、柔らかな揺れを含んでいた。ルミナは頬杖をついたまま、視線を遠くに送り、何かを感じ取るように瞳を細めている。ジークは椅子の背にもたれながらも、どこか居心地悪そうに足を組みかえた。だが、その目の奥には、確かに静かな敬意の光があった。
朝はまだ浅く、裏庭にはしっとりとした気配が満ちていた。風が芝を撫で、花壇の花弁を揺らし、遠くの噴水がひときわ静かな音を響かせていた。その中で、クラウスの声だけが、庭の片隅でそっと生まれていた。芝の端に差し掛かるころ、グレイフはアメリアの背後に歩み寄り、彼女の肩越しにクラウスを見つめた。
「どういう関係なんだ?」
声は低く、風にまぎれるような問い。振り返ることなく、クラウスはアメリアの手を引きながら、緩やかに足を止めた。足元の芝がわずかに沈み、影が三つ、縁を沿って並ぶ。
「リナリアとぼくのこと、ですか?」
返す声もまた、小さい。クラウスは母の手をそっと放し、膝を折り、芝の上に座るようにしてその手を両掌で包み直す。目線はアメリアの顔の高さに合わせられていた。彼女の瞳はただまっすぐ、変わらぬ景色を映していた。
「父さんがいなくなってから、学校で研究室は閉鎖された。僕は、図書館を研究室代わりに使うしかなかった。毎日ね。通ってたんだ。そこにしか、居場所がなかった」
ほんの一瞬、彼は母の手の温もりを感じながら視線を落とした。語ることが、彼女の存在を現実のなかに刻むような気がして、言葉を選ぶのにためらいが生まれる。芝の上に落ちた光が、クラウスの眼鏡のふちを淡く照らす。言葉を選ぶように、彼はゆっくり続けた。
「ある日、図書館で……リナリアに出会ったんだ」
グレイフは腕を組んだまま、視線を逸らすことなく息子を見つめていた。沈黙は咎めではなく、受け止める姿勢そのもの。
「彼女は初めから、アンデッドに強い関心があった。恐れではなく、探究心でね。そして彼女の手にしていた本、父さん、何だったと思う?」
「あの学校では、アンデッドの研究は異端扱いだ。あるとすれば……まさか……」
グレイフの言葉は、風にさらわれるように細くなる。クラウスはわずかに目を細め、頷いた。
「そう。そのまさかだよ。フェリオラの本が、そこにあったんだ」
グレイフの眉が、ほんのわずかに動いた。
「フェリオラの本が、あそこに?」
「うん。フェリオラはあの学校の卒業生だったんだ。しかも……彼女は、エリオーネ・ルヴェリエの著書まで持っていた」
その名が出たとき、グレイフのまなざしがすっと陰を帯びる。顎に手をやり、何か遠い思索に沈むように、彼は一歩下がった。アメリアの横に膝をつき、彼女の裾がわずかに揺れた。
「どこまで、知っている?」
「すべてを」
クラウスの言葉には、もう迷いがなかった。手の中の母のぬくもりは微弱だが、確かにそこにある。
「……彼女は、リナリアは、フェリオラの娘なのか?」
グレイフの問いかけは、庭の空気を震わせることなく静かに響く。クラウスは頷いた。すぐに、そしてはっきりと。風がポプラを鳴らした。葉の影がアメリアの頬に揺れて落ち、また過ぎ去っていった。父と子の間に、沈黙が降りた。
「……フェリオラの書いた、死者の復活の書には……死の精霊の力が不可欠と記されていた」
グレイフがふいに口を開いた。その声は、喉の奥で何かを崩しながら出すように、かすれていた。
「私はどうしても精霊と会話することができなかった。死の精霊……あれはエルフでさえ、交信できなかったという記録が残っている精霊だ。フェリオラしかたどり着けなかった場所。彼女だけが至った領域……」
クラウスはグレイフの言葉を黙って聞いていた。アメリアの両手を軽く包みながら、視線だけを父に向ける。
「リナリアは……精霊と、会話できるのか?」
問いかける声は、呪文のようにささやかれる。クラウスはしっかりと、頷いた。
「僕は、見たんだ。彼女が、死者と……精霊と交信するところを」
グレイフの目が細められた。
「でも、父さん。彼女は、リナリアは、このアンデッド禍そのものに、ひどく怯えている。僕や父さん、そして世界から拒絶されることを、心から恐れてる。だから……」
「当然だ」
グレイフの声が、はっきりと割って入った。
「フェリオラが起こした事変で、どれだけの命が消えたと思っている。三百年経った今も、未だ世界はその呪いの中にある。それを責めずにいられるか」
その言葉は重かった。だが、クラウスは受け止める。
「リナリアがいなかったら、僕は父さんに見捨てられたまま、帝都で飢え死してたよ」
まっすぐな声。父のほうを向きながら、微かに肩を震わせていた。
「彼女が僕を救ってくれた。父さんの残した手紙を探せたのも、彼女がいてくれたから。そして、彼女は父さんに会うために、ここまで来た。フェリオラについて、父さんと話したがってるんだ」
グレイフは何も言わない。唇がひとつ、きつく結ばれた。
「お前を置いてきてしまったことは、本当に後悔している、クラウス」
それは、わずかに震える声。グレイフは顔を上げ、アメリアの頬に手を添えた。
「お前が私を恨む気持ちも、痛いほどわかる」
「恨んじゃいないさ。母さんを助けるには、これしかなかったんだろ? 父さんは、僕が来るって信じたんだ。そして、僕は、成し遂げたよ」
クラウスは、言葉を吐ききるようにして微笑んだ。笑みの奥に、強い静けさがあった。
「だから、お願いだ。リナリアと話してみてほしいんだ」
クラウスの言葉が芝の上に落ちた。風はすでに止み、葉音さえもどこか遠くに感じられた。グレイフはすぐには返事をしなかった。ただその場に立ち尽くし、アメリアの肩に手を置いたまま、微動だにしなかった。彼の視線は遠く、どこでもない場所に注がれていた。まるで、過去のどこか一点を見つめるように。
沈黙は長かった。それは言葉を選んでいる時間ではなかった。ただ、グレイフという人間のなかで、積もり重なったものが静かに溶けていく時間。彼は己の内に、ふたつの像を思い描いていた。
一方は――フェリオラ・ウィンスレット。死を超えて精霊の領域に触れ、世界を変えてしまった異端の天才。そしてもう一方は――グレイフ・ヴァルトシュタイン自身。家族を救うためにすべてを捨て、息子さえも残して逝った、一介の父。その両者のあいだにある違いは、果たしてどれほどのものだっただろうか。あの時、自分が手放したのは、家族ではなかったのか。死んだアメリアを求めるあまり、息子の声も、息子の痛みも置き去りにしてきたのではないか。そう思ったとき、フェリオラへの怒りが、自分自身への問いかけに変わった。
その考えが胸を満たしたとき、グレイフはそっと目を閉じた。芝の香りが風に乗って鼻腔をかすめた。それは過去と未来のあいだにある、わずかな今の匂いだった。グレイフはそれを吸い込みながら、父としての最初の責任を、ようやく胸の内に受け入れようとしていた。額にわずかな皺を寄せ、まぶたの奥で誰かの名を呼ぶように、静かに息を吸った。アメリアの髪を撫でる手が、一瞬だけ止まる。そして、やがて――彼はゆっくりと、重たく口を開いた。
「……アメリアを、リナリアに託してみよう。それが、条件だ」
その言葉はまるで、自身への赦しを願うかのように感じられた。芝の上で、クラウスが深く頷く。沈黙が、ようやく温度を持って満ちていく。彼らの足元には、草の葉がわずかに揺れていた。誰の歩みにも乱されず、ただ静かに、陽の光を映していた。




