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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第五章 夢に住む人々

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第七十六話 グラウヴァルトの朝市

 朝は、(つゆ)が瓦をなぞる音のなかに、ひそやかに忍び込んでいた。屋根の上で冷えた水滴がしずくとなり、石畳の隙間には淡い苔が光を含んでいた。グラウヴァルトの街は、夜の夢の続きに包まれたまま、目覚めと眠りの狭間にとどまるような、不思議なまどろみの中にあった。

 リナリアがキッチンの扉をそっと開けると、そこにはもう、グレイフがあった。朝の光を背に、昨日の食器を片付け、朝食の支度をしている。鍋の中からはハーブと麦粥の優しい匂いが漂っていた。


「おはようございます……もう起きてたんですね」


「日課でね。もうこの年になると、夜明けより先に目が覚める」


 グレイフは振り返らず、笑った。手の動きは止まらず、湯気を含んだタオルで器を拭いていく。


「ただ、ちょっとばかり……食材が足りなくてね。済まないが、これを持って市場まで行ってきてもらえないか?」


 そう言って渡されたのは、口の広い編み袋と、数枚のコインが入った小さな革の巾着。リナリアはそれを受け取りながら、ふと眉を寄せた。


「あの、泊めていただいてるのに、食事代まで出してもらうなんて。せめて、買い物くらいは私が……」


「そう思って、君に頼んでるんだよ」


 グレイフはおどけたように笑い、タオルで器を拭きながら軽く肩をすくめた。その手の動きは、長年の癖のように迷いがない。


「でも、市場って生きてるの?」


 リナリアは小さく息を飲んだ。まるで、子どもの頃に聞いた昔話をなぞるような声。グレイフは「さて、どうかな」と冗談めかして肩をすくめた。

 それからしばらくして。石畳の道に、二つの影が並んで伸びていた。朝の冷たい風がリナリアの髪を撫で、ルミナはときおり鼻をひくつかせながら足元の草を踏みしめていた。静かな街。誰もいないのに、どこか生活の気配が漂っている。まだ温もりを保つ窓枠、軋んだままの看板、閉じた扉の向こうに、誰かがいるような――そんな気配が、空気の中に編み込まれていた。

 角を曲がった先に、荷馬車が一台、ぽつねんと停まっていた。荷台には野菜が整然と並び、麦わら帽をかぶった一人のゾンビが無言でそれを見守っていた。


「……あれ?」


「……市場、あれだけ?」


 リナリアとルミナが顔を見合わせていると、ゾンビがくぐもった声で口を開いた。


「おう、めずらしい顔だな。……グレイフのとこから来たのかい?」


「ええ。クラウスの……息子の友達よ」


「なんだい、親孝行じゃないか。……っと、こりゃ余計なお世話かもしれんが、もしかして――これかい?」


 ゾンビは小指を立てて、にやりと笑う。帽子の下からのぞく白濁した目が、リナリアをおどけたように見つめていた。


「嫁っこ連れてくるとは、大した息子だ。うちのバカ息子なんて、遊び惚けて顔も見せやしねぇ……ま、どこかで元気にやってくれてりゃ、それでいいんだがな」


「……そうね、きっとどこかで元気にしてるわ」


 リナリアは苦笑しながら、整然と並んだ野菜に視線を落とす。けれど、ふとその手が止まった。カボチャの影から覗く干しニンニクに目を留めながら、ぽつりと問いを漏らす。


「ねぇ。死んでも、家族のことって、覚えてるものなの?」


 ゾンビは、選び取ったニンジンを片手に一瞬だけ黙った。が、すぐににやりと笑う。


「子どもを忘れる親がいるかい。親ってのはな、死んでもしつこく見張ってるもんさ。……あんたが朝寝坊したら、天井から覗いてるかもしれねぇぞ?」


 リナリアは思わず吹き出しそうになり、肩をすくめて笑った。


「それはちょっと……困るかも」


「ハハハ、親心ってのはそういうもんさ」


 ゾンビは荷台の奥からトマトを取り出すと、ひょいっとリナリアの編み袋に放った。(きのこ)、根菜、ジャーキー用の干肉(ほしにく)。ゾンビは手際よく、それらを編み袋に入れていく。動きには衰えがあったが、不思議なほど丁寧。


「……毎日ここに?」


「天気が()けりゃね。畑いじりが趣味でさ、こうして余った分を並べてるのよ。ま、こういう朝も、(わる)かないだろ?」


 リナリアが巾着から支払いを渡すと、ゾンビは「まいど!」と元気よく応じた。その声が通りに跳ね、朝の空気にゆるく溶ける。リナリアは、手にした袋を見つめながらふと首を傾げた。


「……牛乳って、手に入るかしら?」


「おう、そいつなら心配ない。牛飼いのバルドンが届けてくれるさ。あいつ、律儀だからな。グレイフのとこに客が来てるって言っといてやるよ。きっと多めに搾って持ってくるだろうさ」


 そう言ってゾンビはニヤリと笑い、帽子のつばを軽く持ち上げる。


「バルドンの牛はいい乳出すぞ。ちょっと濃いめでな、朝のパンにぴったりさ」


 リナリアは笑みを浮かべてうなずいた。


「……助かるわ。ありがと、おじさん」


「へへ、気にすんな。俺の分まで飲んでってもらわなきゃな」


 リナリアが手にした袋を受け取ると、彼女の足元で野菜に見入って座っていたルミナが、ひとつ息を吐くように目を閉じた。次の瞬間――空気がわずかに澱み、光が軋むような感触が走る。ふわりと、白い毛並みが空間に広がった。二足の身体(からだ)が柔らかくたわみ、背をしならせながら静かに四つ足へと変わっていく。たてがみのように肩から流れる銀の毛が、朝の(かぜ)にたゆたう。淡い光の粒子がその身をかすめ、(つゆ)が生まれては消えるような繊細な変化。

 一陣の風が、ルミナの足元から湧き立つ。まるで、眠っていた何かが目覚めるように。神獣(しんじゅう)の姿になったルミナは、首をゆっくりと回し、リナリアを見上げてうなずいた。まるで「載せていいよ」と言わんばかりに。リナリアは微笑み、ゾンビから受け取った袋を、ルミナの背へ丁寧に載せる。毛並みに干渉しないよう、負荷のかからない位置を慎重に選び、二つの袋をバランスよく振り分けた。ルミナは鼻を鳴らし、一歩(いっぽ)、石畳の上に足を踏み出す。


「便利なもんだねぇ。長いこと、ここにいるけど……あんたみたいなもんは、生まれて初めてだ」


 ゾンビが言ったのは、四つ足の姿に変化したルミナの背に、器用に袋を載せてバランスよく固定する様子を見てのこと。


「おじさん、ここは長いの?」


 リナリアが問いかけると、ゾンビはくぐもった喉を鳴らして笑った。肩が崩れるように揺れる。


「はは、死んでからずっと、ここさ。もう、いつからかも思い出せねぇくらいだ」


 顔を上げたその眼窩は、遠く過ぎ去った時を見ていた。


「昔はな、よく王様が来てくれたんだ。洒落た人でな、俺のトマトを気に入ってくれてよ、毎週来てたよ。護衛なんか連れずに、ただの散歩みたいな顔してさ」


 リナリアは思わず眉をひそめる。


「……王様? でも、この国に王はいないはずよ。共和国でしょう?」


 ゾンビは「はっ」と短く息を吐き、首を傾げた。


「ああ、共和国だろ? でも俺たちの王様は、死の王ってやつでさ。ノクティス王だよ。知らねぇか?」


 その名が、リナリアの鼓膜にふわりと触れた瞬間、世界の音が一瞬だけ遠のいた。


「ノクティス……?」


「ほら、見てみな。あの山の上の断崖――尖塔がにょきにょき並んでるだろ? ファルム・コラティナって言うんだ。あそこに王がおわすんだよ。最近じゃすっかり見かけなくなったがな」


 ゾンビは、陽の昇りかけた山のほうを顎でしゃくる。そこには、雲の流れの奥に、幾本もの鋭い岩塔(がんとう)が天を突いていた。リナリアはその方角に目を向ける。赤みがかった光が断崖に差し込み、まるでその地に触れることを拒むように、あの岩塔(がんとう)が父の記憶を封じる墓標のようにも思えた。彼女は目を逸らさなかった。

 ――ノクティス。それは、探し求めていたもう一つの名前。リナリアの父の名。その音の響きに、忘れていた痛みすら蘇る気がした。何かが――静かに、確かに――動き出そうとしていた。


「そういえば王様も娘がいるとかいってたな。いやグレイフは幸せもんだ」


 ゾンビが再びそう言ったとき、リナリアは微笑んだ。だがその視線は、もうファルム・コラティナの彼方を見つめていた。


「……そうね。ありがとう」


 ルミナが軽く鼻を鳴らす。リナリアはその背に手を添え、歩き出す。袋が静かに揺れ、朝の空気に光の粒をまきながら、二人は街路をあとにした。

 帰り道――朝の光が次第に高くなり、影が短くなってゆく中、彼女たちは犬を連れて歩くスケルトンとすれ違った。犬は毛も肉もない骨犬だが、尾をぴこぴこと振っていた。リナリアが通りすがりに手を振ると、スケルトンはわずかに頭を下げ、静かに挨拶を返した。

 道の脇には小さな花が咲いていた。死の街に咲いたその花は、まるで朝の祈り。静かで、やさしく、ゆっくりとした……死者たちの、()を閉じぬ日常のひとつ。リナリアとルミナは、光のなかを静かに戻っていった。ヴァルトシュタイン邸の白い壁が、少しずつ見えてくる。その白い壁の向こうに、今日という日が、またひとつ編まれていく――そんな気配がした。

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