第七十五話 アメリアの眠る部屋
ヴァルトシュタイン邸の扉が静かに閉じると、夕陽の余光が廊下にひとすじ流れ込み、ゆっくりと息を止めたような静けさが邸内を満たした。クラウスたちは、奥の広間へと案内される。大きなガラス窓から庭を望む部屋には、黄金と紅が混ざる光が差し、床に長く淡い影を描いていた。ガラス張りの窓辺には、ロッキングチェアが置かれていた。
そこに、ひとりの女性が座っていた。薄い栗色の髪。細く長い指。目元は優しく、微笑みの名残をたたえながら、ただまっすぐに庭を見つめていた。――アメリア。
クラウスの母。生前と変わらぬ姿で。
ロッキングチェアが、かすかに揺れている。静かな音が、室内の空気に溶け込んでいた。髪の先が、夕方の微風にふわりと持ち上がり、頬に触れる。陽だまりのなかに浮かぶようなその姿には、眠りに落ちた子どものような、静けさがあった。庭の風が窓から差し込み、レースのカーテンがほのかに揺れる。まるで世界のすべてが、彼女の呼吸に合わせて鼓動を刻んでいる。
「母さん……」
クラウスが呟き、駆け寄る。足音を立てまいとするように、しかし吸い寄せられるように近づいていく。けれど、アメリアは微動だにせず、まるで絵画の一部のように、静かに座っていた。その様子に、ルミナが一歩、彼女の前へ出る。光の届かぬ目元をのぞき込むようにして、わずかに眉を寄せた。
「……ここに、魂の在処が見えない」
その声は、祈るようで、告げるようで。その囁きに応えるように、背後からそっと毛布を手にグレイフが現れた。静かに、息を吐きながら、妻の肩と膝へそれを掛ける。
「穏やかなものだ。寒くないようにしてやらねば……ね」
その声には、深い慈しみと、どこか遠くを見つめるような諦めがあった。
「君たちも、どうぞ座ってくれ。ちょうど食事にしようとしていたんだ」
そう言うと、グレイフは、キッチンへと姿を消した。
「手伝います」
リナリアがすぐに後を追い、ルミナもそれに続く。二人は静かにダイニング側の扉を抜けていった。リビングには、クラウスとジーク、そして動かぬアメリアだけが残った。クラウスはアメリアの正面に膝をつき、そっとその手を取った。冷たくない――ほんのりとした体温が、彼の指先に触れた。それが、かえって胸を締めつけた。
「ただいま。クラウスだよ」
何の返事もない。アメリアの眼差しは、どこまでも庭の向こうへ向けられたまま。
「魂がないってのは、つまり……」
ジークが言いかける。けれど、言葉を続けられなかった。
「……きっと死んだんだ、母さんは」
クラウスが呟くように言った。
「父が、母を見つけたに違いない。だけど、それで……そのまま戻らなかったんだ」
ジークは立ったまま、アメリアの姿を見つめていた。その肌はなめらかで、肉付きも健康的で、腐敗の影すらない。まるで生者のよう。
「アンデッドがおかしな連中で、無害ってのは、なんとなく分かってきたけどさ。にしても、お前のおふくろさん、ほんとに生きてるみてえだぞ。腐ってねえし。失礼な言い方かもだけど、どういうことだ?」
クラウスはアメリアの手をそっと離し、立ち上がるとジークの隣に腰を下ろした。
「父に、聞くしかないな」
そのとき、ダイニングからルミナとリナリアの明るい声が聞こえてきた。
「お待たせ!」
両手にトレイを持ち、二人が現れた。皿の上には温かそうな蒸気が立ちのぼり、鼻をくすぐる香りが流れ込んできた。
「なんでも揃ってるのね、この家……」
リナリアが驚いたように呟く。木の皿に乗せられたのは、バターとハーブで香ばしく焼かれた根菜のグリルと、素朴な豆のポタージュ、そして胡桃入りの黒パン。それは、どこか懐かしい田舎の家庭料理。続いて、グレイフがワインの瓶を持って戻ってくる。
「今日は特別な日だ。乾杯くらい、いいだろう」
彼はそう言ってテーブルに瓶を置き、全員にグラスを配った。やがて、会話の合間に、クラウスがグレイフに向き直る。
「父さん……母さんが、まるで生きてるみたいに綺麗なのは、なぜ?」
グレイフは立ち上がり、ゆっくりと本棚に向かう。手を伸ばし、一冊の古びた本を取り出すと、その背表紙をしばらく見つめ、ようやく静かに息をついた。
「これだ」
渡された本には、確かに、見慣れた名が刻まれていた。《フェリオラ・ウィンスレット》。クラウスは息をのんだ。ページをめくると、そこには――死者の復活に関する研究記録が、細密に綴られていた。
「これを……試したの?」
クラウスが問うと、グレイフは頷いた。
「母さんを見つけたとき、彼女は、変わり果てた姿でいた。死んではいたが、アンデッドとなって歩いていた。フェリオラの本を偶然見つけ、試してみたんだ。最初は、ただ、腐敗を止めようとしただけだが」
グレイフはアメリアの隣に座り、彼女の手をそっと握った。
「結果、肉体はほぼ完全に戻った。心臓も、脈も……動いている。クラウス、母さんの手は、あたたかかっただろう?」
クラウスは静かに頷く。
「けれど……肝心の魂が戻らない。この本にはその方法が記されている、そう仮定されているが、どうしても……最後の段階が分からない。なにかが、足りないんだ」
リビングに静寂が戻る。そのなかで、クラウスの視線がふと、リナリアをとらえる。リナリアはその目を感じ取りながら、そっと首を横に振った。
「……今日は、休みましょう。ね」
その言葉に、誰も反論しなかった。クラウスもまた、わずかに頷き、静かに席を立った。夜が、ヴァルトシュタイン邸をやさしく包み込む。
邸宅は、再び静寂に沈んでいた。廊下を歩く足音すら遠ざかり、噴水の音だけが、夜という深い器の底で静かにこだましていた。
二階。深い眠りに沈んだ館の天蓋の下。小さな寝室には、古い時計の刻む音と、遠くの噴水が響かせる水音がわずかに満ちていた。月光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の奥に二つの影を浮かび上がらせている。並んだベッドに横たわるのは、リナリアとルミナ。ふわりとした薄布の寝巻きが夜気に透けて、静かな吐息だけが生を証す。ルミナが、布団に包まったまま、リナリアの方へ顔を向けた。
「……ねえ、心が、痛む?」
問いはやわらかく、まるで濡れた羽根で触れるような響き。しばらく、リナリアは応えなかった。けれどやがて、静かに目を閉じ、天井の向こうにあるものに語りかけるように、声を落とす。
「……ヴェルンハイムに来てから、ずっと……安らぐの。怖いくらい、なぜだか……あたたかいの」
月が雲を流れ、影が一瞬濃くなる。
「ふわふわがいないんだよ」
ルミナが囁く。いつも彼女にまとわりつく、風のような、小さな精霊たちの気配。それが、ここでは感じられない。
「……でも、なにもいないわけじゃない。ざわざわしてる。すごく、深くて……静かで。うまく言えないけど」
彼女のまぶたの奥にあるのは、視えざるものの輪郭。いつもの「ふわふわ」ではなく、ここには別のなにかが満ちている。死者たちの記憶。夢のような囁き。目を閉じれば、耳の奥でゆりかごのように揺れる。
「それ……」
リナリアが目を開ける。けれど、どこも見ていない。
「私を……祝福している気がするの。ここにいることを。まるで……私が、そうなることを知っていたみたいに」
声は、もう誰かに語るというより、自分の内に沈んでいく祈り。
「私ね、お母さんの気持ち……少しわかってきた気がするの。あの人が、なぜ死の世界を選んだのか。どうして、そこに手を伸ばしたのか」
彼女はもう、恐れていなかった。死を忌避すべきものとしてではなく、ひとつの静かな力として見つめていた。再生ではなく、終わりでもない。満ちたものが、その静けさへ還るということ。ルミナは言葉を返さなかった。ただ、小さく身を丸めて、リナリアの肩に額を寄せた。
窓の外では、月が揺れていた。銀の光が、まるで薄布のように世界を覆い、ヴァルトシュタインの庭の上空に、輪郭のない祝福をそっと降ろしていた。──夜は静かに深まっていく。語られぬままの言葉たちは、リナリアの胸の奥で小さく種を結び、いつか名のつくものへと育ってゆく。その時を、邸宅は呼吸を止めたまま、眠るように待ち続けていた。




