第七十四話 門をたたく音
馬車の揺れが、ゆるやかに止まった。御者台の上から、ハンフリーの声が静かに降りてくる。
「ヴァルトシュタイン邸でございます」
クラウスが顔を上げる。馬車の窓越しに広がるのは、沈む陽に照らされた山間の街、グラウヴァルト。急峻な地形に沿って築かれたこの街は、戦火や変革の爪痕を感じさせることなく、まるで時間が凍ったように、静かに息をしていた。
その静けさは死ではない。夕暮れの風が草木を撫で、家々の屋根に落ちる影が濃くなるなか、ひとつだけ明かりの灯った邸宅があった。窓から漏れる橙の光が、石畳に長い影を落としている。どの家も黒く静まり返る中で、その邸だけが、まるで誰かを待っているかのように、やさしく光を放っていた。
ヴァルトシュタイン邸。かつてこの土地の学術と秩序を支えた一族の屋敷。白い壁と黒い屋根。高い鉄の門の内側には、広く整えられた前庭があり、小さな噴水と花壇がその静けさを保っている。庭の石畳は曲線を描き、枝垂れた銀葉の樹が夕暮れの残光に照らされ、その葉が影を揺らしていた。その光景を前に、ジークがぼそりと呟いた。
「なあ、クラウス。こんな綺麗な屋敷で育ったんなら、もっと貴族然としててもよかったんじゃねえの?」
言葉は皮肉のようでいて、どこか照れを隠すような響きがあった。リナリアがその横で静かに微笑み、そっと言葉を添える。
「選択肢なんてなかったのよ。それでもクラウスは、知ることをやめなかった。寒い夜も、誰にも頼れない朝も……ずっと、前を|向《》む》いてた」
「へっ、さすが。いちばん高貴な道ってやつだな」
ジークが肩をすくめながら笑うと、横でルミナが無言でにらんだ。ジークは「なんだよ……」とぼやきつつも、視線を逸らして頬をかくようにごまかす。
クラウスはそのやり取りに何も言わず、ただ、微かに目を伏せると、ゆっくりと馬車から降りた。門の前に立つと、一瞬だけためらい、しかしすぐに鍵のかかっていない門扉を押し開いた。金属の軋む音が、胸の奥で錆びついていた記憶を、そっと軋ませた。
「私は、これにて」
ハンフリーが帽子をとって一礼する。リナリアはそっと小さな袋を取り出し、チップを渡した。
「ありがとう、ハンフリー。あなたのおかげでここまで来られたわ」
「また必要があれば、お呼びください。次は、街の外れに新しくできた『劇場』の前でお会いできるかもしれませんね」
軽やかな冗談めかした言葉を残し、ハンフリーは馬車をくるりと回転させ、夕闇の道へと静かに消えていった。門を越えたクラウスの足取りは、徐々にゆっくりになっていく。石畳の模様。踏みしめるたびに、その一つ一つが記憶を蘇らせた。庭の草木。噴水の水音。少年時代の彼が父と手入れをしていた記憶が、そのまま空気に染み込んでいる。……何年ぶりだろう。もう二度と戻れないと思っていた。
足元の石はすべて覚えていた。あの一つひとつが、昔と同じ位置に、同じ沈黙で並んでいた。懐かしさと、静かな緊張が心を満たしていた。邸宅の前にたどり着いた時、クラウスはふと立ち止まり、肩と胸元の埃を軽く払った。ふいに、背後からリナリアの声がした。
「ちょっと待って」
クラウスが振り向くと、リナリアが彼の襟元にそっと手を添えて、歪んだ布の端を整える。
「よし、これでいいわ」
クラウスが小さく頷くと、彼の背後で、ルミナ、ジーク、リナリアの三人が静かに一列に並んだ。親友の実家に挨拶するように、姿勢を正し、クラウスが扉を叩くのを待った。クラウスは、深く息を吸った。そして、コン、コン──木の扉に指の関節が触れ、控えめに、けれど確かな音を奏でた。
数秒の静寂。次第に内部から足音が近づいてくる気配がした。古びた鍵が回され、静かに、扉が開いた。そこに立っていたのは、ひとりの男。年齢を感じさせる顔に、険しさよりも安堵が浮かんでいた。
「父さん。ただいま」
クラウスが静かに言った。男は目を見開き、しばし声を失ったまま、手をわずかに伸ばす。そして、
「クラウス!」
その声は割れるように響き、次の瞬間、彼はクラウスを強く、強く抱きしめていた。
「お前を、置いてきてしまったことをずっと悔やんでいた。すまなかった。あの時、お前を連れてくるべきだった」
父グレイフ・ヴァルトシュタインの声は震えていた。年老いた学者の体が、こんなにも強く息子を抱きしめるとは、誰も想像できなかっただろう。クラウスは、静かに、言った。
「時間はかかったけど、研究室で父さんの手紙を見たんだ。ここで待つって。だから来たよ。……友達と一緒に。彼らがいなかったら、俺は……来られなかった」
グレイフは息を整え、三人に目をやる。その目には、感謝と、驚きと、ほんの少しの涙が宿っていた。
「ありがとう。本当にありがとう。クラウスを連れてきてくれて。──どうぞ、お入りください」
扉の内側からこぼれた灯りが、四人の影を包んで伸ばしていく。その影が、ヴァルトシュタインの名に再び連なるように、邸の奥へと溶け込んでいった。




