第七十三話 廃都の影、灯る道
馬車の車輪が、瓦礫のなかをやわらかに軋ませながら進む。陽の高い午後の光が、崩れた煉瓦の上にやわらかく降り注ぎ、かつての傷跡を包むように照らしていた。風は乾いて静かで、廃墟に咲いた花々をわずかに揺らしている。
窓の外に広がるのは、ヴェルンハイム旧都――かつてこの国の誇りとされていた中心都市。その広がりは今、焼け落ちた記憶の名残に沈んでいる。かつて議会が開かれ、劇場が賑わい、学舎の塔が星を仰いでいたこの地に、いまは石造りの基礎と折れた円柱だけが、かつての繁栄をかすかに語っていた。見ようによっては、それはかつて歩いていた巨人の骸のようにも思える。
それでも、全てが朽ちたわけではなかった。崩れた塔の根元には花が咲き、瓦礫の間からは草が芽吹いていた。廃墟の列柱の傍らには、スケルトンの庭師が剪定ばさみを握り、几帳面に垣根を整えていた。誰もいないはずの街に、小鳥たちが舞い、風が音楽のように草を揺らしていた。
「ヴェルンハイムが、こんな風になるなんて。想像もしていなかったよ」
クラウスが低く呟いた。眼鏡の奥の瞳は、すでに遠い過去を見つめていた。あの夜の光景が、じわりと脳裏に滲んできた。燃え上がる図書館の塔。噴き出す火の粉。鳴り止まない鐘と、断ち切られるような母の声。
「クラウス、こっち! ここから逃げるのよ!」
「アメリア、君は先に行け! 俺はクラウスを……!」
母は振り返らず、炎の中へと消えていった。父の腕に抱かれた幼い彼は、振り返ることすら赦されなかった。
やがて馬車が緩やかに止まる。そこは、かつて市の中央広場だった場所。半壊した噴水の周りに、白いパラソルが静かに広がっている。丸テーブルと椅子が等間隔に置かれ、簡素だが丁寧に整えられた昼のカフェ。廃墟の都に、ふいに現れた祝祭の空間。
「このあたりで、一度お食事としましょうか」
御者台の上から、ハンフリーの軽やかな声。骨の指が手綱を緩め、骨馬たちが律義に並んだまま蹄を静止させた。カフェに現れたのは、白骨の店主。言葉ひとつ発せず、黒板のメニューを卓上にそっと置いた。白墨で書かれた品々は、どれも生者に配慮されたものばかり。
・オリーブと燻製レモンの冷製パスタ
・アボカドとキクイモの根菜サラダ
・香草チーズとドライフルーツのサンド
・きのこスープ
・葡萄水とセージの微炭酸飲料
「このメニュー……ほんもの?」
ルミナが目を輝かせる。「生者に対応するレシピかと」とクラウスの眼鏡が光る。
「じゃあ私はパスタで」
「同じものをもう一つ」
「俺はサンドとスープ」
「わたしはサラダと葡萄水でいいわ」
注文が終わると、店主は骨の手で一礼し、無音の所作で立ち去った。しばしのち、皿に盛られた料理が運ばれ、風の中にハーブと香草の香りが広がる。誰かがこの都市を生きていた記憶が、静かに食卓に咲いていた。
クラウスは、無言のままフォークを手に取った。オリーブと燻製レモンの冷製パスタ。シンプルな皿。けれど、その香りが、喉の奥に突き刺さるように懐かしかった。ひと口、口に運ぶ。オリーブの塩気と、淡く焦げた柑橘の香り。冷えたパスタが舌に触れた瞬間、それは記憶の奥にあった夏の風景を、正確に――痛々しいほどに呼び起こした。
母の声が、台所の奥から届いてくる。
「パスタは冷やしすぎないのがコツなのよ。クラウス、お皿並べてちょうだい」
麦わら帽子の影に、母の声が重なる。レモン水のグラスに浮かぶ光。小さなラジオからは古びた音楽が流れ、窓辺のゼラニウムが風に揺れていた――ただの、何でもない夏の日の昼下がり。窓辺のゼラニウム。夕立の予感。蚊取り線香のにおい。そこにあったのは、なにげない、ただの夏の昼下がり。どこにも記録されていない、けれど確かに心に残っていた一日。
――そのすべてが、いま舌の上に蘇った。
最初の涙は、不意だった。頬をすっと流れるまで、自分でも気づかなかった。けれど、二滴目ははっきりとわかった。もう止まらなかった。クラウスは、まるで誰にも見られていないかのように、子どものように泣いた。顔を伏せ、涙が止まらないまま、ただひたすら皿のパスタを口に運び続けた。食べることだけが、記憶と向き合う手段だった。ただ、涙が、こぼれ、止まず、皿の上のパスタを濡らした。
それでも、彼は手を止めなかった。次のひと口を運び、またひと口を食べた。涙を飲み込みながら、懸命に、味を確かめるように、噛みしめるように、ただ食べた。リナリアは、その姿を黙って見ていた。目を伏せ、サラダにフォークを差し入れながら、そっと呟くように言った。
「忘れない味って、こういうのを言うのかしらね」
クラウスは、答えなかった。いや、答えられなかった。顔を伏せたまま、微かに頷いた。カフェの店主がふたたび現れ、白骨の手が、クラウスの前にそっと――真っ白なナプキンを一枚、置いた。音もなく、何も言わず。クラウスは、顔を拭い、鼻を押さえ、深く息を吐いた。眼鏡を外し、ナプキンの内側で丁寧に曇りを拭い、再びそっとかけなおす。
クラウスは、水をひと口飲む。喉を潤したあと、静かに息を吐いて言った。
「父はここまで来ていた。調査のために。そして、いずれ俺も、ここに来ていたと思う。でも……一人だったら、何十年も先になってたかもしれない」
窓の向こう。崩れた屋根の向こうに、誰かが植えた白い花が咲いていた。
「きっかけをくれて、感謝してる。君たちと出会ってなかったら、父にも会えなかったかもしれない。……ありがとう」
リナリアは黙ってクラウスの横顔を見つめた。まなざしには複雑な色が宿る。
「……本当に、そう思ってるの?」
「思ってる。俺は、恨んでないよ」
そう言ったクラウスの声には、少しの震えと、それでも乗り越えようとする意志が混じっていた。
「最近思うんだ。アンデッドって、自然災害に近いのかもしれない。止められない。なぜなら、人は死ぬから」
「死は避けられない。だから、彼らもまた、避けられない」
ジークが小さく頷いた。
「光が強ければ、影も濃くなるってか」
「そう。人が増えれば、死もまた増える。これは、必然なんだ」
昼の風がパラソルを揺らす。噴水が、水音の代わりに思考の余白を与えていた。やがて、骨の店主が、静かに皿を片付ける。その丁寧な仕草は、生者以上に礼儀正しく、時間の流れすら止めるような静謐さを湛えていた。
馬車は再び進み出す。通りを抜け、廃墟を越え、ヴェルンハイム旧都の外縁へ。瓦礫の影から立ち現れるのは、山々の濃い緑と、峠を越えた先に広がる雲の裂け目。そこに、クラウスの故郷――グラウヴァルトの姿が、かすかな輪郭となって現れ始めていた。馬車の車輪が、記憶の上を静かになぞるように回り出す。空は高く、そして、これから向かう家には、まだ灯が残っているような気がした。




