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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第五章 夢に住む人々

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第七十二話 山影に揺れる骨の街

 死者の街には、静けさではなく、息の余韻が満ちていた。まるで誰かが祭りのあとに夢の続きを置いていったかのように。花の匂いが石畳に落ちた露を撫で、誰もいない窓辺には風がカーテンを揺らしていた。月窓亭の前庭には、昨夜の名残のように花の香りが漂っている。朝露の匂いのなかで、クラウスが上着の襟を直した。彼の目は北東――霊花の丘(ヴァルメル・レスト)の城壁の外へと続く山々を見ている。


「朝に出れば、夜には着く。……あの斜面を越えた先だ。俺の家は、グラウヴァルトの東端にある」


 その言葉に、宿の奥から声が飛んできた。


「では馬車を手配しましょうか?」


 現れたのは、昨夜の宿主――美しく磨かれた骨の男。深紺(しんこん)のストールを翻しながら、リナリアたちの方へと歩み寄ってきた。リナリアは目を細め、少し眉を寄せて言った。


「どうして、そこまで親切にしてくれるの? わたしたちは、生者なのよ」


 リナリアの問いは、どこか鋭かった。それは単なる皮肉でも、遠慮でもない。自分という存在が、ここで――この死者たちの街で、どのように「知られている」のか。その不可解さへの直撃。宿主は、まるでそれを待っていたかのように、静かに笑った。顎の骨が小さく揺れる。


「はは。我々があなた様を知らないとでも?」


 その声は、囁くようでいて、リナリアにのみ耳に届いた。微かに、けれど確かに――何かを見透かすような光が、その眼のない顔に宿っていた。リナリアは、わずかに息を飲んだ。そして、自分の手のひらを見つめるように目を伏せた。


「あなたたちの中で、わたしはどう記憶されているの?」


 声は柔らかく、だが問うていた。「恨んでいないのか」と。「誰が私を、どうやって知っているのか」と。それは、もしかしたら――勝手に生成された人格が、(もと)の人間に「再会」したときの感情に似ていたのかもしれない。

 意志とは無関係に復元される記憶。可逆的に構成された魂が、骨格の中に静かに存在している奇妙さ。その違和感と、どこか懐かしい肯定が、彼女の胸を少しだけ締めつけた。しばらくの沈黙ののち、彼女は小さく首を振った。


「……そう。なら、お代は払うわ。ここで通貨があるのかは分からないけれど」


 宿主はわずかに頷き、指をひとつ鳴らした。その仕草には、どこか「人間臭い流儀」が残されていた。


「飲まず食わずでも困りはしませんが、我々もまた、欲しいものは自分で選びます。文化財の修復用薬剤、古書の綴り糸、棺の中で読む詩集――案外、支出は多いものです」


 そして、骨の指で銀のチップを軽やかに受け取った。やがて、門の向こうに馬車が現れた。曳くのは白骨化した四頭の馬たち。御者台には、帽子を目深にかぶったスケルトンが、片手で手綱を操っている。黒の礼装に白の手袋。見た目だけなら、上等な儀礼馬車だ。


「乗っても……大丈夫?」


 リナリアがやや訝しげに訊ねると、御者は軽やかに笑った。


「ハンフリーと申します」


「よろしく、ハンフリー。なるべく、揺れないようにね」


「それは骨馬たちの技量次第で」


 そう言って、馬車の扉が音もなく開かれた。霊花の丘(ヴァルメル・レスト)の通りを馬車が進む。朝の光の中で、街はゆっくりと目覚めの気配を見せていた。街の中心広場に差しかかったとき、空気が変わった。

 そこには、途方もない数のアンデッドがひしめいていた。肌がまだ残り、腐敗が進みきらない者たち。破れた衣服、泥まみれの手足、肉は崩れ、内臓がのぞく者もいる。その多くは、まだ人間の面影を色濃く残していた。何かを訴えるような声。目の焦点は合わず、口は意味を成さぬ言葉を吐く。その仕草のひとつひとつに、かつての生きた痕跡が宿っていた。

 黒いローブの者たちがそれらを誘導している。腕を振り、杖を振り、足元に印を刻んで指示を送る。動きは滑らかではなく、反応にも知性は感じられなかった。それでも、従順に、整然と列をなすその姿には、どこか恐ろしさがあった。クラウスが身を乗り出す。拳がわなわなと震えていた。


「これは……っ」


 ジークも目を見開き、唇を引き結んだ。リナリアは静かに息を吸い込んでから、馬車の天井に向かって声を上げた。


「ハンフリー、説明して。これは何? 彼らは、最近まで生きていた人たちよ」


 馬車の速度がわずかに緩む。御者台から、穏やかで揺るぎのない声が返ってきた。


「揃い立ての連中です。死の直後、意識が定まらぬうちに、まず労働力として運用されます。感情も記憶もまだ戻らない。動く肉体だけが……この街の手足となる」


「そんな……あなたたち、死者を集めて軍隊でも作ってるの?」


 リナリアの声に、怒気が混じる。クラウスも口を開く。


「おい、ハンフリー。お前たちがやったのか? 彼らを殺したのか? まさか、この都市が……」


 その問いに、ハンフリーはすぐには答えなかった。少しの沈黙ののち、まるで曇りのない晴天のような声が降りてきた。


「私たちは選ばない。死は訪れる。そして、その後に何を成すかは、彼ら自身の内にある」


 その言葉には、冷淡さも、悪意もなかった。むしろ、無垢に近い諦観すらあった。


「知性は、すぐには戻らない。肉は先に動く。けれど、いつか、ある者たちは芽吹くのです。我々のように。……その理屈を、我々は持ちません。腐敗の果てにしか、生き方を選ぶ自由は生まれない。ここでは、そうなのです」


 リナリアは、答えられなかった。その言葉に、どこか真理のようなものを感じながらも、どうしても受け入れきれないものが、喉の奥に突っかかっていた。


「……でも、それでも」


 クラウスが言った。声はかすれ、歯を食いしばっていた。


「彼らには、生きた時間があった。顔も、名前も、家族も。俺たちと同じだったんだ。……お前たちは、それをどう思ってる?」


「……尊いことです。だからこそ、忘れずに残している。誰ひとり、骨になるまでは終わらないのです。未熟なままでは、還れない」


 その言葉が広場に重なるように落ちた。馬車は再び動き始めた。死臭と熱気が遠ざかり、空が広がる。


「そう。命が抜けて、知が戻ってくるまでには時間が必要なんです。いつか、ある日ふと、知性が芽生える。我々のように、ね」


 そして一呼吸置いて、彼は静かに続けた。


「なぜそうなるのかは……正直、我々にもわからない。ただ、いつか誰もが(じゅく)す。腐ることで、生まれ直す。不思議なものです」


 リナリアは、しばし目を伏せた。あの混沌の中から、ハンフリーのような存在が生まれるという事実が、どこか現実を突き崩す。馬車は街の広場を抜け、坂を下り、川沿いの道へと出た。そこには、まったく異なる光景が広がっていた。

 水辺にひっそりと腰を下ろしたスケルトンが、釣竿を手にしていた。水面をじっと見つめながら、微動だにせず糸の先を眺めている。まるで禅僧のような静けさ。少し先の露店には、異形の男がいた。白骨の指で古びた楽器を丁寧に調律し、音叉を鳴らしながら、顔のない表情で「満足げ」な気配を纏っている。その脇では、ふたりのスケルトンが小さな劇の台本を読み合い、互いの発声を試していた。台詞の合間に、骨がコツコツと打つ音が、奇妙に軽やかに響く。

 黒いローブを纏った者たちも、まばらに歩いていた。けれど、その歩みには明確な意思がなく、ただ動いているだけのように見えた。生きた匂いはなく、まるで風が服を運んでいるだけのような存在感。それに比べて、骨だけの存在は――なぜか、あまりに。健康的に見えた。


「……生きていた頃より、元気そうに見える奴もいるな」


 ジークの呟きに、リナリアが小さく頷く。


「時間を重ねるだけで、(ひと)は変わる。でも、何かを失ったことで、ようやく生き方を選べることもあるのかもね」


 馬車は静かに、山の方角へと進んでいく。その先に、クラウスの記憶が待っている。風は朝を押し上げながら、ひとつの過去をめくろうとしていた。

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