第七十一話 霊花の丘《ヴァルメル・レスト》
空の色が褪せていた。風は冷たくはないのに、どこか透明な距離を感じさせる。遠くで雲がちぎれ、光の筋が大地を舐めていた。
その丘陵の向こうに、街が見えた。城壁の外周は蔦に覆われて崩れ、塔の尖端だけが、かろうじて歴史を証明していた。石造りの街並みに混じって、花が咲いていた。紫の、白の、ところどころに紅――人のいない街にしては、不自然なまでに整っていた。
「霊花の丘……」
クラウスが呟く。眼鏡の奥の瞳に、懐かしさと戸惑いが交じっていた。
「昔、ここは国境貿易の中心地。王国から布と香料が運ばれて、港へ抜ける……母が話してた。笑って、泣いて、怒って、また笑って……全部が生きていた街」
彼の声に応えるように、乾いた枝葉の音がした。視線を落とすと、道の脇の草むら――薄紫の野花が揺れるその傍らに、ひときわ白い影が二つ。
一対のスケルトンが、レース編みの敷布を広げ、その上に優雅に腰を下ろしていた。骨でできた細い指先で、花の茎を編み、かすかに揺れるリズムで手を動かしている。
二人とも、なめらかなワンピースドレスのような装いをまとっていた。片方は黒地に銀の刺繍、もう片方は灰のような薄青に藍色のレース。生地はところどころ透けており、骨の輪郭がかすかに浮かび上がる。不思議とその姿には、「女性」と呼ぶべき何か――所作の柔らかさ、気配の洒落、指の留め方の優雅さが、香のように漂っていた。
近づく気配に、彼女たちは顔を上げた。目は無いのに、まるで微笑むような――そんな雰囲気をたたえて。
「旅人さん? お肉つき。まあまあ、めずらしいの来たわね」
声は、からからと笑う風のようで、それでいてどこか潤いを含んでいた。もう一人が、手にした花輪をふらふらと回しながら言葉を重ねる。
「まさか、あなたたち……わたしたちを突然噛みついてくる危険なアンデッドとか思ってる? それ、もし本気ならかなりの田舎者認定よ」
ふたりは骨だけの顔で視線を合わせ、くすくすと笑った。
「襲ったりなんて、失礼すぎる。食欲と本能の区別がつかないのって、あまりに未成熟でしょう? わたしたちの都市では、そういうの獣性残存って呼ばれてるの。やだやだ、品がない」
ジークが眉をひそめる。
「……じゃあ聞くけど、おまえら、普段からそういうもんを……喰ってるわけじゃ、ねえんだな?」
妹が骨の指をぴんと立てて、反撃するように笑う。
「質問返しするけど、ねえ、あなた――そっちの方こそ、ちょっと前足の爪がやたら鋭いのよ。逆に聞くけど、突然噛みつくのってあなたの方じゃない?」
「俺はドラゴンの血が混じってるだけで、別に……」
「ほらー。やっぱり獣性寄りの自覚あるんじゃない。わたしたち、基本は草食よ。香草の香りだけで三晩酔えるわ」
「草で酔える……?」
「記憶の香りにね。舌のかわりに、思い出で味わうの。舌はないけど、知性は残ってるから。あなたたち生者が味を大事にするように、わたしたちは記憶を楽しむの」
「脳がとろけるような記憶に、うっとりするのよ……脳はもうどこかに置いてきたけど」
皮肉混じりの語り口は、毒ではなく、磨かれた軽妙さを帯びていた。まるで長い時を経て、冗談すら文化として熟成されたように。
そして彼女は、手元の小さな木箱を指で弾いた。蓋が開くと、中には緻密に彫り込まれた彫刻用の針やヤスリが、銀と黒で整然と並んでいた。見れば、その肋骨には薄く旋律の譜面が刻まれており、脛骨には葉脈のような紋様が浮かんでいた。指輪の代わりに、中手骨には銀の糸で編まれた文様が巻かれている。
「おしゃれは、装うことじゃなくて、残すことなの。消えない形で、私を私として刻む。ね、妹?」
「ええ。死んでも残るものって、意外と少ないから」
リナリアは、ただ見惚れていた。骸骨でありながら、気品を失わず、滑稽にも傲慢にもならず、静かにただそこにいる。花を編む手元から流れる仕草の自然さに、命の温度を見出してしまうほどに。
「魂が穏やかなら、姿は問題じゃない。そう思っていたけれど――」
声が漏れたのは、独り言のような呟き。それを、姉妹はきちんと聞き取ったらしい。
「まあ、共鳴者ね」
「嬉しいわ。旅人の中にも、見る目がある方がいるってこと」
そして彼女たちは、そっと手招きをした。シートの隅に腰をずらし、空いた空間を示すように。
「どうぞ。近くで見ると、花の香りも変わるのよ。生者には分かりにくいけど、香りって、ね、振動だから」
「わたしたちにとっては、それが言葉の一部なの」
リナリアはそっと膝を折った。花輪のひとつを手渡されると、指先から小さくしみるような温もりが伝わってきた。
「骨花よ。死者の骨から咲いた花。骨が残した香りと、その者の最後の想いが、かたちになったもの」
「この都市では、生者は時間ではなく、残香で測るの。残る香りが強ければ、死んでも消えない。そういう人が良き死者と呼ばれるのよ」
そのとき、妹がちらりと手を振った。
「あ、もし宿をお探しなら、月窓亭がまだ空いてるはず。南門通り沿いの石橋のたもとよ。静かで、鐘がよく響くわ。カフェも近いし。……死者用だけど、最近は生者も受け入れてるって話」
「あなたたちみたいな肉の付き方、ちょっと懐かしいから。きっと歓迎されるわよ?」
そして、ふたりは再び編み始めた。風に揺れる花、骨の音、柔らかな衣の裾。それらはどれも、死を纏いながら、生者よりも遥かに確かに、そこに在った。
街は整っていた。無人の市場の屋根に枯れ草が規則的に置かれ、誰もいない教会の尖塔からは風に揺れる布が垂れていた。何十体ものローブをまとった死者が、何の音も立てず通りを行く。全員が全身を包み、顔を見せない。そのくせ整列して、誰にもぶつからない。
そして、時折見かける白骨化した者は、陽光を受けて、白く輝いていた。衣を脱ぎ捨てたかのようなその姿は、むしろ一種の神々しさすら帯びていた。骨の輪郭は研がれ、滑らかに整えられ、関節には細い銀線や微細な紋様が巻きつけられていた。まるで、自らの存在そのものが芸術であるかのように。
「どうかしてるかもしれないが、あれは、美しい」
ジークの呟きは、理性を探るような戸惑いと、言葉にできぬ畏れを帯びていた。それに、クラウスがゆっくりと眼鏡を押し上げる。彼の声は、どこか自分に言い聞かせるように静かだった。
「父の記録に、こういう記述があった。死者の骨は、自らを恥じない。骨はむしろ完成された証として磨かれ、飾られる……と。正直、当時は詩的な誇張かと思ってた。けど、今、目の前にしてみると……なるほど、これは確かに、思想だ」
風が通り過ぎる。白骨の歩みが、それに合わせて静かに流れていく。ぶつかることも、急ぐこともなく、ただ穏やかに、軌道をなぞるように。
「ローブで身を覆っている者たちは……もしかすると、まだ願いを手放していないのかもしれない。骨を見せる者は、すでにその先にあるもの――完成に至ったということかも」
彼の言葉には断言の響きはなかった。どこか探るようで、観察の余韻が残っていた。知識が目の前の現実に輪郭を与えたとき、戸惑いはむしろ鮮明になった。
通りの奥に、小さな宿が見えた。《月窓亭》――扉には朽ちかけた木板に、優雅な筆致でその名が記されている。リナリアたちが近づくと、扉はきいとも言わずに静かに開いた。
中は暖かかった。外気よりいくらか空気が濃く、干草の香りと、淡く焦げた香草の名残が漂っている。石の床には絨毯が敷かれ、寝台が五つ、壁際に整然と並んでいた。机には水差しと木製の器が置かれ、窓辺には綿のカーテンがふわりと揺れていた。――まるで誰かが来ることが当然であるかのように。
「……本当に、誰かが住んでるみたい」
ルミナの囁きに、クラウスがゆっくりと歩みを止めた。眼鏡の奥の視線が、部屋の細部を丹念になぞっていく。整った寝具、火の落ちた香炉、わずかに引かれた椅子の位置。
「いや……住んでるというより、ここに誰かがいてほしいという意思が、空間を維持してるのかもしれない」
独り言のように、けれど深く考える口調で続ける。
「空間そのものが、意志に従ってかたちを保っている。そんな気がしてきた。まだ役目がある、まだ迎えたいという想念が、場の形を保ってる。物理的な因果じゃなくて、記憶と願いの重なりの方が、強く残ってるんだ……」
そこまで言ったとき、ふいに――奥の壁際、厚布のかかった扉の向こうから、かすかな衣ずれの音が聞こえた。音はひどく静かで、だが確かに――「誰かの所作」を感じさせた。
やがて、扉が音もなく開く。現れたのは、白く磨かれた骨の宿主。ローブではなく、深い紺色のベストとストールに身を包み、額には小さな銀の飾り。まるで古き紳士のような装いと振る舞い。
「おやおや、推論から始まって現実へと至るとは、なかなか洒落たご登場ですね」
骨の宿主は、穏やかな声音でそう言った。顎がわずかに揺れ、関節が品のある節を打つ。
「ようこそ月窓亭へ。準備していた甲斐がありました。ええ、そろそろだと思っていたのです、今日の風の香りがね、どこか旅の気配を運んでいた」
その口ぶりには、飾らぬ誠実さと、不思議なほどの優しさがあった。語る言葉の端々に、時間の積み重ねを一切感じさせない、静止した優雅さが滲んでいる。
「ここは、いつでも整えておくのが信条でしてね。いつか生者が訪れる。いつか、我らが世界が認められる日が来る。……そう信じているのです。そして私は、待てる者です。百年でも、千年でも。待つことが、私にとっての生き方ですから」
その言葉に、しばし空気が揺れた。リナリアが、静かに息を吸い込み、微笑んで言った。
「……誰かのために用意された場所。そういう場所って、なぜか、安心するのね」
クラウスは驚きと納得の交じった目で主人を見つめながら、ぽつりと口にした。
「この構造自体が、研究対象だったのかもしれない。父が残した資料に、意志が空間を成形する都市という仮説があった。けれど、これほど自然に、それが現れているとは……」
「生者は時間で証明しようとしますが、われらは待つことで証明します」
宿主の声は、凛とした静けさのなかで響いた。死を超えてもなお続く信念が、彼の在り方そのものに宿っていた。リナリアたちは寝台に腰を下ろした。窓の外では、黒いローブを纏った死者たちの行列が、街の奥へと静かに歩いていく。どこへ向かっているのかは、誰も知らない。部屋の静けさを切るように、ルミナがぽつりと呟いた。
「もし、こうして歩き続けられるなら――死んでも、それで終わりじゃないってこと?」
その声には、希望というより、混乱が滲んでいた。この街の在り様が、彼女の持つ死の輪郭を壊していた。目の前で、骨たちが美しく、秩序だって、願いを携えて生きている。
けれど、それは何かを奪った者たち、奪われた者たちの姿でもあった。リナリアは、その問いにすぐには応えなかった。黙ってルミナの手をとり、しばし、夜の帳に沈む街を見つめた。
「歩き続けることが許されても、すべてが赦されるわけじゃない。母が誰かの歩みを止めたことは、きっと、どこかに刻まれてる」
「それでも、止まれないの。生きているかたちのままでも、骨になっても……それを選ばなかった者もいる。選べなかった者も。……わたしには、それを越えて笑う資格なんて、ないわ」
クラウスは何も言わない。彼の肩越しに見えた拳は、知らず握られていた。この地が、彼の家族を、学び舎を、友を奪った都市であることを、リナリアもまた知っている。
窓の外を、黒いローブの死者たちが静かに行進していく。その行列は、誰も泣かず、誰も語らず、それでいて何かを確かに伝えていた。名のない祈りのように、夜を染めていた。
月の光が降りる。風が壁の隙間をなぞり、遠くで、小さな鐘の音が鳴った。それは、死者の街に響く、夢の始まりの合図。
窓辺に飾られた骨花の輪が、ふわりと揺れる。紫の花びらが、光に浮かび上がりながら、どこか遠くを見ているよう。それは、終わりではなく、歩き続ける者のなかに芽吹いた、もうひとつの「生」のかたち。




