第七十話 草の道、風の声──黄昏の壁の向こう
高原の空から、風がゆっくりと地に降りていた。
黄昏の壁――その名が示す通り、太陽が落ちる地平を背に築かれた防衛の砦。かつて、自由市民の誇りとともに建てられたその壁は、今では森に飲まれ、苔と草に包まれ、緑の中に溶け込んでいた。
かつてあったはずの関所も、鉄製の門扉も、今はただ蔓草の格子のように絡まりあい、鳥たちのねぐらとなっていた。銘板に刻まれた標語は、風雨にすり減り、読むことさえ叶わない。だが、確かにそこには国を守ろうとした意志の名残があった。
そして、リナリアたちはその境界を越えた。黄昏の壁を抜けた瞬間、風は軽く、空気は澄み、陽光は斜めに頬を撫でた。草の匂いが強くなる。
そこは、ヴェルンハイム共和国の国境地帯。
高原とも低地ともつかぬ、緩やかに波打つ大地が広がっていた。遠くには折り重なる山影が薄く連なり、その谷間に霧のような朝靄が漂っていた。雲は高く、陽光はまだ浅く、風は南から、海の気配を微かに運んでくる。
道は、もうない。
いや、かつてはあった。帝国の進軍に備え、王国との交易を支えた幹線路。その面影を残すかのように、野に埋もれかけた轍の跡が草の合間に顔を覗かせていた。石畳などと呼ぶにはほど遠く、今では草と苔と土が覆い尽くし、踏めば土が鳴く。
獣道のように延びる道の先には、誰もいない村々の廃墟が点在していた。骨組みだけが残った風車、柱だけの家、囲いの崩れた井戸。だが、それらの残骸さえ、自然の手によって覆われ、朽ちるよりも「還った」と言うべき姿をしていた。
人が去って久しい土地。だがそれは、死んだ世界ではなかった。
空には鷹が舞い、草むらでは狐が尾を引きずって走り去る。蝶が舞い、鹿がじっとこちらを見つめ、何も語らぬまま、森へと溶けていく。人の整備が失われてもなお、ここには命が満ちていた。いや、人の手が引いたことで、むしろこの土地は本来の息を取り戻したのだとすら思えるほどに。
リナリアたちは、そうした風景のただなかを歩いていた。背後に王国を置き、前に無数の記憶と、まだ見ぬ答えを抱えながら。
「……」
クラウスが立ち止まり、そよ風に揺れる野花を見つめた。茎が弓なりにしなり、淡黄色の花びらが彼の肩をかすめていく。
「ここが、共和国領内……」
呟きは、ほとんど風に溶けるように小さかった。眼鏡の奥の瞳が、なにか確かめるように地平を追っていた。
この地は彼の故郷ではない。クラウスが育ったのは、もっと奥。山岳地帯に築かれた旧知の学府都市。その風景はここにはない。
けれど、共和国という存在が空気に染み込んでいた。自由と混沌と学知と独立の精神。整備されずとも、道なき道を進むことを恐れない人々の息吹が、風に混じっていた。
「どこか、帰ってきた気がする」
……なのに、懐かしいと感じたのは、記憶ではなく、身体の奥が勝手に反応したせいだ。
その声に、リナリアがふと振り返る。風に髪を揺らしながら、小さく微笑んだ。
「時の流れは残酷ね。でも、思ったより優しい」
リナリアの目は、すでに遠くを見ていた。言葉に重ねるように、ジークが足元の草を踏みしめながら言う。
「魔物の気配もねぇし、骨も腐乱もねぇ。……静かすぎて気持ち悪ぃくらいだ」
「……でも、草はよく育ってる。つまり、栄養はあるってこと。何かが死に、何かが生きてる」
ルミナがさらりと呟く。何気ない口ぶりのなかに、どこか冷静すぎる静けさが宿る。その声は、大地の記憶を読み取るような響きをもっていた。
沈黙ののち、ジークが不意に立ち止まった。
「……なあ、今だから聞くけどよ」
その口調はいつになく慎重で、珍しく言葉を選ぶ気配があった。
「ルミナ、おまえとリナリアって、いったいどういう関係なんだ?」
問いかけに、ルミナはきょとんとした表情を見せた。だが、すぐに笑みを浮かべる。
「え、言ってなかった? リナリアは、私のお母さんよ」
あまりにあっさりと告げられた言葉に、ジークの顔から血の気が引いた。
「……え?」
言葉にならない呻きのような声を漏らしながら、ジークがリナリアを振り返る。視線の衝撃を受け止めるように、リナリアはしばし沈黙し──それから、静かに頷いた。
「ルミナは、私の娘」
語尾に揺らぎはなかった。少し遠くを見つめながらも、その声はやわらかで、深い確信を伴っていた。
「いまでも、あなたが生まれた日を覚えている。私がこの世界に迎えた命。何よりも大切な存在。……それ以上の説明なんて、いらないわ」
ルミナがぱっと笑顔になり、リナリアの腕に飛びついた。
「ねっ、やっぱりそうだよね。お母さん」
リナリアは彼女の髪を優しく撫でながら、穏やかに微笑んだ。そこには、つくりものではない、日々を共に過ごした者だけの親愛があった。
ジークは、額に手をやったまま、何かを振り払うように頭を振る。
「 ……いや、待て、ちょっと待て? 今の流れ、おかしくないか? もし、仮に、俺とルミナが……ちょっと、いい感じになったら……ってなると?」
目線を宙に泳がせたまま、ジークはしばし思考の迷路を彷徨い──やがて、ぼそりと呟いた。
「リナリア嬢ちゃんが、俺の義理の母になる……?」
クラウスが咳払いひとつ。動揺をごまかすように眼鏡をかけ直す。
「待てジーク、落ち着け……いや、落ち着いていないのは俺か……。生物学的に……いや、その、倫理的というか……時系列的に……ええと……リナリアが三百年前の存在だとすると……」
言いながら、徐々に自分の理論が恐ろしい方向へ向かっていることに気づいたらしい。声がしぼむ。
「いや……その、つまり俺は再婚も子持ちも受け入れる柔軟な結婚観であって……これは偏見の否定であって……」
「おいおいおい、何言ってんだこいつ!」
ジークが即座に突っ込み、クラウスの肩を叩いた。
「そういう理屈の逃げ方が一番怖ぇよ!」
「わ、私は論理的に説明を――! そういや、お前……最初にリナリアに出会ったとき、盗賊と間違われてルミナに殺されかけたって言ってたな?」
「言うな……!」
ジークは頭を抱え、ルミナは楽しそうにくすくす笑う。
草原に、短く笑いが弾けた。微かな風が草の海を撫で、その音が彼らの間の沈黙をやさしく包んでいく。やがて再び歩き出す彼らの背を、静かな村の廃墟が見下ろしていた。
ひしゃげた柵。苔むした井戸。板張りの扉が、時折、風にきしんで軋む。その音に、禍々しさはない。それは、死ではなく沈黙。忘却ではなく、安らぎ。途絶えた営みの名残ではなく、還った命の匂い。人の声が消えた世界に、確かに命はあった。鳥が空を旋回し、草の間を駆ける獣が、彼らの気配にそっと耳を立てる。
クラウスの視線が、前方の山影へ向けられた。その向こうに、あるはずの場所──グレイフ・ヴァルトシュタイン。かつて彼が「父」と呼んだ男がいる場所。遠い記憶の中にだけ残された家と、そこに息づいていた日々。
次に出会うとき、それが「再会」となるか、「対峙」となるか。その答えを知る者は、まだどこにもいない。ただ風だけが、野を越え、谷を渡り、雲の切れ間から柔らかな光を落としていた。人の名も忘れられた大地に、それでも歩み続ける者たちの影が、風とともに確かに刻まれていた。
— 第四章終 —




