第七話 囁きと遠き風
エリオーネの書斎には、静寂が満ちていた。窓辺に置かれたランプの淡い光が、積み重ねられた本の背表紙を柔らかく照らし、木製の机には開かれたままの魔道書と、インク壺、羽ペンが置かれている。薄く張られたカーテンが春の穏やかな風を受けて揺れ、微かな木の香りと乾いた羊皮紙の匂いが部屋に漂っていた。
窓の外では、リナリアとフェレリエルが庭先の木陰に腰を下ろしていた。フェレリエルが手のひらを上に向けると、淡い光を帯びた小さな精霊がふわりと舞い上がる。それをリナリアがじっと見つめ、試すように指先を動かす。けれど、彼女の周囲には精霊の気配がほとんどなかった。ただ、風に紛れるように何かが揺らいでいる——リナリアの周囲には、時折、見えないものが影のように揺れていた。
——死の精霊。
エリオーネは窓枠に肘をつきながら、静かに目を細める。リナリアが精霊たちと距離を感じているのは、今に始まったことではない。それでも、彼女が何かを試し続ける姿は、あの頃のお姉様の姿と重なってしまう。
お姉様と同じ。リナリアもまた、母と同じ道を辿るのだろうか。エリオーネの胸に、ほのかな痛みが走る。小さな手で彼女のローブを握りしめ、「エリオーネ!」と笑っていたリナリア。今はもう、目の前の世界よりも、どこか遠くを見つめるようになっている。
——私は、お姉様を止められなかった。
もっと強く言葉を尽くせていたら、もっと違う未来があったのだろうか。あの夜、フェリオラは確かに微笑んでいた。燃えるような瞳で、彼女は語った。
「私の研究は、人々を救うためのものよ。すべてを失わないためのね」
その声は揺るぎなく、まるでそれが宿命であるかのように響いた。エリオーネは書斎の棚から、一冊の古びた本を取り出した。革の背表紙には「精霊の理」と刻まれている。彼女は指先でその刻印をなぞる。かつてお姉様とともに学んだ、精霊魔法の基礎を記した本。
——あの頃、私たちは同じ未来を見ていたはず。
ページをめくると、風の精霊、火の精霊、土の精霊、水の精霊の記述が続き、その最後のページには「死の精霊」の章がある。『死の精霊とは、終わりではない。すべての精霊が循環の中にあるように、死もまた、その一部である。』エリオーネはその言葉をなぞりながら、お姉様の面影を思い浮かべた。フェリオラは誰よりも優しく、誰よりも強かった。そして、誰よりも孤独。
——あなたは、どれほどの寂しさを抱えていたの?
死の精霊に惹かれたのは、世界の理を知りたかったから? それとも、抗えぬ運命に抗うため? もしも、あの時もう一歩踏み込んでお姉様を引き止めていたら——
いや、そんなことを考えるのは何度目だろう。お姉様は死の精霊の真理を追い求め、禁忌に踏み込んだ。だが、彼女は間違えた。死の精霊を「操る」ことができると信じた。それが、すべての破滅の始まり。フェリオラは、ただの愚かな人間ではなかった。彼女は確かに何かを成し遂げようとしていた。それを、私は理解できていなかった。私は、お姉様を止められなかった。けれど、私は——今でもお姉様を愛している。
エリオーネはそっと目を閉じる。それは、ただの家族としての愛情ではない。血の繋がりを超えて、魂の深いところで結ばれた、揺るぎないもの。
フェリオラは、私の一部。幼いころから、ずっと一緒。魔術学園で寮生活を共にし、同じ食堂で食事をし、夜には同じ窓から月を眺めた。思春期の悩みも、魔法の習得も、すべてが姉と共にあった。どこへ行くにも隣にいた。寂しさを感じる暇などなかった。
私たちは二人でひとつ。フェリオラは強く、美しく、誰よりも聡明。彼女の横顔を見ているだけで満たされた。誰にも負けない力を持ち、何もかもを手に入れられるはずの人。なのに、彼女はもういない。
——だからこそ、リナリアには同じ道を歩かせたくない。
目を開くと、視界の端にリナリアの姿が映った。
——リナリアもまた、母と同じ道を歩もうとしているのだろうか?
けれど、違う。フェリオラとリナリアは、同じではない。フェリオラは知識を求め、力に溺れた。だが、リナリアは違う。彼女は知りたがっているだけなのだ。母のことを、世界のことを、自分が何者なのかを。
それでも——この森の中だけで、彼女はそれを知ることはできない。
リナリアは、外の世界を知るべき時が来ている。エリオーネは窓の外のリナリアを見つめた。彼女はまだ幼く見える。けれど、フェレリエルと笑い合うその姿は、確かに大人へと近づいている。
——もうすぐ、私の手の届かないところへ行くのね。
喉の奥が詰まるような感覚がした。
「……リナリア」
エリオーネは呟く。窓の外、リナリアはふと顔を上げ、こちらを見た。エリオーネの視線とぶつかると、少し不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げる。エリオーネは静かに微笑んだ。
——あなたはどこへ向かうの?
その答えは、もう決まっているのかもしれない。