第六十九話 静かなる幕引き
夜明けの気配が、静かに村へと滲み始めていた。
目覚めの鐘が鳴るよりも前に、陽はまだらに石畳を染め、屋根の上で鳴く鳥が空の変化を告げていた。イセリアの村はすでに日常を取り戻していた。市場に人の声が戻り、教会には祈りの光が灯り、兵舎に交じる冒険者たちの姿も、いつしか違和感のない風景となっていた。
その静かな旋律の中心にいたのが、焔牙の咆哮団。
──名付け親は当のジークである。脳筋が考えそうな響きだが、町の誰もがすでにその名を噂していた。
ジーク・焔牙の右腕──竜の炎を操り、忠義に生きる傭兵戦士。
名乗りのたびに意味は増え、姿は神格化され、今ではイセリアを歩けば子供が真似をするほどの知名度を持っていた。
死者の森から生還し、六十体のアンデッドを一昼夜で屠った。
Uランクの冒険者として、異常な速度で次々と難度の高い依頼をこなしては、静かに帰還する。あまりの手際と突進力に、戦場の者たちはこう呟いた――畏れを込めて。
──「あの焔牙の右腕が本気出したら、街中の依頼が一晩でなくなるって話だ」
宿屋のカウンターに名前を書けば、その日じゅうに依頼の看板が消える。
討伐、輸送、防衛、調査、護衛、潜入……依頼種別は問わず、すべてが完遂された。それも恐ろしいほどの正確さで。
気づけば、記録に刻まれるのはジークの名ばかりになっていた。
どれほどの支援を受けていたかは不明のまま。リナリアやルミナの名は公的な記録に一切登場せず、まるで存在していなかったかのように曖昧に処理された。あらゆる武勲は、ひとつの影に収束していった。
クラウスの戦術、リナリアの魔術、ルミナの補佐。それらの歯車がいかに正確に回っていようとも、人々の耳目は、ただひとりの「咆哮」だけを聞いていた。
すべてが、あまりにも順調。
……まるで何かが終わりに向かって、自然に、確実に収束していくかのような静けさを孕んで。
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「というわけでだ、ユルゲン」
革椅子の背に深く腰を沈めたジークが、靴を机に乗せかねない勢いで足を組み直す。無遠慮な口調、けれどその背後にただの戯れでないものを宿した声音。
ユルゲン・オステンは、羽根ペンの動きを止め、黙って視線だけを向ける。王都派遣軍の執務室は、文書とインクの香りに満ちていた。真鍮の窓枠から差す陽光が、静かに机の上の報告書を照らしている。その空気を破るように、ひときわ大きな声が落ちた。
「俺たちはこれまで、十分すぎるほど働いてきた。金も稼いだし、貢献もした。おかげさまでな……イセリアの連中は、依頼板の前で肩をすくめてこう言う始末だよ」
ジークは口元を歪めた。
「焔牙の右腕がいれば、一人で十分ってな」
静かに、しかしはっきりと苦笑を含んだその声に、ユルゲンは目を細めた。確かに、近頃は討伐依頼も魔獣の調査も、ほとんどが受けられないまま打ち切られる始末。依頼主がわざわざこう言い残すのだ――「どうせ焔牙の咆哮団が来て片づけてしまう」と。
「で、だ。そろそろ俺たち自身の目的に立ち返る頃合いだと思うんだよ」
ユルゲンは、手元の報告書からペンを離し、額に手を当ててしばし目を伏せた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「……つまり、お暇をいただきたいというわけか」
「話が早くて助かるぜ」
ジークはにやりと笑う。
「俺たちがいなくなったら、多少は街の経済も回るだろ? 仕事も増える。冒険者たちもやる気を取り戻す。そう思わねえか?」
「ずいぶんと利他的な理屈だな」
「おっと、それは建前だ。本音はこっち――」
ジークは机に肘をつき、ひとつひとつ指を折ってみせる。
「帝国の諜報部に、俺たちがどれだけ名を上げたか見せつけた。王都にも顔が効く。Uランクの仕事は全部片付けた。それでもって、今じゃ名前だけが先に歩いていく始末だ」
ユルゲンの瞳が、ふっと揺れる。
「つまり、姿を消すということか。……ドロン、と?」
「そう。ドロン、ってやつだ。いまのタイミングでだ。だから頼む。王様にはこう報告してくれ」
ジークは身を乗り出すようにして笑った。
「焔牙の咆哮団は、任を果たし、王国内で悠々自適に暮らしていると。……それで、めでたしめでたし、ってな」
机の向こう、ユルゲンの表情は変わらなかった。ただ、肘をつき、腕を組み、しばし沈黙の間を置いていた。
彼は知っていた。この軽口の背後にある、真の目的を。
クラウスの父――グレイフ・ヴァルトシュタインの行方。かつてヴェルンハイム共和国の魔導審議を担った男。そして、今なおフェリオラの謎を追い続ける男。
クラウスはそれを知りながら、口にしてこなかった。ジークはそれを理解し、時間を稼ぎ、すべての準備を整えてきた。だからこそ。
「……わかった」
ユルゲンはようやく口を開く。
「私からギルドには、君たちが王都へ帰還することになったと通達を出しておこう。君たちのおかげで、この地に溢れていた難民も減った。治安も、ようやく戻りつつある」
「だからって泣かれちゃ困るぜ?」
「心配するな。私のような官吏は、感情を見せる訓練を受けていないのでな」
ジークがふっと鼻を鳴らした。
「帝国も深追いはしないだろうさ。俺たちがわざわざ黄昏の壁を越えるなんて思ってもみないだろう。それに――」
そのとき、執務室の扉が静かに開かれた。
「準備は整った」
クラウスの低い声。その背後には、リナリアとルミナの姿。ジークは椅子から立ち上がり、窓の外に視線を投げた。朝日が、遠く山の端をゆっくりと照らしていた。黄金の吐息が空を撫でるなか、リナリアがそっと一歩、ユルゲンの前に進み出た。
「巻き込んでしまい、ご家族に心配させてしまいました。ほんとうにありがとう」
その言葉には、誇張も脚色もなかった。多くを語らぬ彼女が、ただ一言だけ残した――けれど、それがユルゲンには重く届いていた。
少女ではない。英雄でもない。この者は、歴史そのものになる。
ユルゲンのなかで、静かな確信が芽吹いていた。
「……次に会うとき、君たちがどんな名で呼ばれているか、楽しみにしているよ」
リナリアは静かに身を引き、ジークは窓の外を一度だけ振り返った。
朝陽がゆっくりと山際を照らし出し、扉が静かに閉まる。 残されたのは書類の香りと微かな余熱、そして誰もいない部屋に滲む、確かにそこに在ったという気配だけ。
――それは、新たなる旅の始まりを告げる、音なき鐘の余韻。




