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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第四章 仮初の女神、偽りの世界

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第六十八話 黄昏に灯る声

 森の(へり)には、風が戻っていた。枝葉がひそやかに擦れ合い、忘れられていた呼吸のように、音なき風が苔むす地を撫でてゆく。幾重にも絡み合っていた霧が、ふとした拍子に緩み、夜気の隙間から星のひかりが滲んでいた。

 クラウスは、ひとり森を駆けていた。足元の枯葉が音を立てるたび、胸の奥で何かがきしむ。冷たい夜気が喉を通るたびに、彼の記憶のなかで兵士たちの顔が次々と浮かんでは消えた。名を呼ぶには遅すぎる顔。けれど、遺してはいけない存在。

 誰に言われたわけでもない。誰に頼られたわけでもない。ただ、この重さを、あの森の中に置き去りにしてはならないと思った。その思いだけが、彼の背を押していた。

 やがて、樹々(きぎ)の密度が緩み、入り口の霧が薄れていく。白い帳が裂けるように開けた先、そこに一人の男が立っていた。

 ユルゲン・オステン――オルセリア王国の内政(ないせい)庁に籍を置く高官でありながら、その姿は軍人にも似ていた。濃藍の外套は微かな(かぜ)にたなびき、手綱を握る指先は一分の揺らぎもなく、馬の呼吸に静かに同調している。まるで、この森の変化を察知し、それを迎えるべくそこに立っていたかのよう。

 クラウスの姿を見つけると、ユルゲンの目がわずかに細められる。表情は変わらない。その瞳の奥に、沈んだ鋭さが閃いた。


「クラウス殿?」


 抑えた声。その響きには、何かが過ったのを無理に押し殺した痕跡があった。喉の奥が乾いていたが、それでも彼は前に出て、短く告げた。


「兵士たちを見つけた。全員。リナリアが……浄化した」


 ユルゲンの顔から、一瞬だけ硬直がこぼれ落ちる。


「生きていたのか?」


「いいや。亡くなっていた。でも、安らかだった。あれを見れば誰でも信じる。彼女の力を、彼女の……選択を」


 ユルゲンの喉がわずかに動いた。言葉は出ない。眼差しが、ゆっくりと遠くの森へ向けられる。そこには、彼自身もまだ見ぬ真実があるのだと、悟ったように。


「それは、リナリアの魔法なのか。あの()に、そんな力が?」


 その問いは、驚愕ではなく、すでに芽吹いていた予感を裏づける静かな確信。

 クラウスは頷く。


「俺たちは、たしかに見届けた。彼女が命の終わりに触れ、兵士たちを、帰るべき場所へ導いた」


 言葉にすると、心臓の鼓動がふたたび痛んだ。それでも目を逸らさなかった。


「すぐに増援を頼む。まだ遺体はそのままだ。運べるうちに、故郷へ戻してやりたい」


 ユルゲンは馬の手綱を持ち直した。その仕草には、もはや迷いはない。


「わかった。人を回す。……お前たち、よくやってくれた」


 その声が風に紛れると同時に、彼は鞍へ跳び乗った。ひづめの音が地を強く蹴り、乾いた音とともに霧の向こうへ駆けてゆく。その姿には、王国の将としてではなく、一人の男としての焦燥が浮かんでいた。

 クラウスはその背中を見送ったまま、しばし森の入り口に立ち尽くす。冷たい夜風(よかぜ)が、彼の頬を通り過ぎていく。まるで、遺された者たちの声が、最後に彼の耳元で囁いたように。

 ――ありがとう。

 その言葉が届いた気がして、彼はほんのわずかだけ、まぶたを閉じた。



 イセリアの夜は、湿った風とともに静かに深まっていた。宿屋の酒場には、木の樽から注がれるエールの音、焼き肉の香り、冒険者たちの囁き声が低く交差している。けれど、その空気は、昨日までとは確かに異なっていた。全員が目を逸らし、背を向け、そしてそれでも気配を逸らすことができずにいる。誰もあの四人に言葉をかけない。笑わない。否定もしない。ただ、空気の重さだけが、彼らの卓を中心にゆっくりと渦を巻いていた。

 ジークが椅子の背に腕をかけたまま、傾けたジョッキを無言で飲み干す。琥珀色の液体が喉奥に消えていき、最後の一滴まで喉を鳴らして呑み込むと、ふっと鼻を鳴らして、(から)のジョッキを卓上に置いた。


「昨日まで、あのテーブルじゃ誰もこっちに視線なんて向けなかったのにな。急に背筋が伸びてやがる。まぁ、死人を連れ帰ったなんて噂が広がりゃ、怖気づくのも分からなくもねぇか」


 その声は低く、皮肉めいているのにどこかしら冷静で、むしろそう振る舞うことで場を崩さずにいようとする、彼なりの気遣いのようでもあった。リナリア、クラウス、ルミナ、そしてジークは、宿の片隅に据えられた丸い木のテーブルに腰を落ち着けていた。中央には、ダンベルグ少佐から受け取った金貨の袋が、まるで封印のように据えられていたが、誰もそれには触れようとしない。酒場のざわめきが遠のくなか、ジークだけが表情を変えずに空気の舵を取っていた。


「……さてと。おしゃべりの時間だな。俺でもわかるように、ちゃんと話してくれよ」


 肘をついたまま、ジークはそう言い、視線だけをテーブル越しにリナリアへ向ける。だが、その言葉の矛先は、誰よりもクラウスの背を押していた。彼もまた、酒の一滴も喉を通さぬまま、深く息を吐いてリナリアに視線を投げる。その眼差しは、痛々しいほど真っ直ぐだった。


「君は……フェリオラの娘なのか?」


 その名が落ちると、空気がわずかに震えた。伝説としてしか語られない魔法使いの名。それが、目の前の少女と繋がるなどと、誰が想像しただろうか。リナリアは、ただ黙ってその言葉を受け止めていた。肯定も、否定もせず。ただ目を伏せるだけで、答えがすべてそこに宿っていた。


「けれど……フェリオラは三百年前の人物だ。君が今ここにいるのはどういうことだ? 星霧(せいむ)の森の象徴と呼ばれ、その正体がフェリオラの娘だと言われて、そして……今の君の様子から察するに、まだ何かを隠している。君は一体、何者なんだ。何を知っている。そして──何を追っている?」


 問いは、(いか)りではない。傷つける意図もなかった。ただ、求めていた。リナリアの沈黙の向こうにあるすべてを。クラウスの言葉は確かだが、彼の内側で何かがひとつずつ崩れていく音がした。リナリアが口を開くまでの数秒が、永遠のように長く感じられた。


「……三百年前、ヴェルンハイム共和国の山深い村で、ある事件が起きた。そこにいたのが、母……フェリオラ。そして、アンデッドの災厄が初めて生まれたのも、そのとき」


 声は静かで、決して感情的ではなかった。ただ、すべてを抱えて語る者の、それだけで胸を打つ強さがあった。


「私は、その場にいた。けれど私は三歳でうっすらとしか記憶にないの。 星霧(せいむ)の森の奥には銀樹の聖域と呼ばれる、エルフたちの隔絶された領域がある。そこでは、時間の流れが違う。中の一年が、外では二十年。私はその森で、十五年を過ごしていたわ。エリオーネに育てられて」


 彼女の指が、手首のブレスレットにそっと触れる。


「母は、私をエリオーネに託して姿を消した。父──ノクティスとともに。彼らは、今もアンデッドの中心にいる。だから私は、二人を探しているの。家族を、もう失わないために」


 クラウスの喉が音を立てずに動いた。ルミナが、わずかに身を起こしてリナリアの隣に座り直す。リナリアに寄り添うように。何も言わない。ただ、彼女の(かたわら)に在るために。


「クラウス……あなたの家族も、故郷も、アンデッドの災厄に巻き込まれた。それは、私の家族が起こしたことと無関係じゃない。だから……黙っていて、ごめんなさい。図書館で出会ったとき、本当のことを言ったら、あなたに受け入れてもらえないと思った。拒絶されるのが、何より怖かったから」


 リナリアの言葉は、苦しみのようで、それでいて祈りのようでもあった。クラウスの手が、無意識に指先でテーブルを撫でる。その爪の先が震えていることを、彼は自分で気づいていなかった。


「俺は……ずっと君を信じてた。あの日、本を閉じた君の横顔を、信じてた。だから信じていた(ぶん)、今、どうしていいか分からない」


 言葉が、涙になりそうだった。けれど、男の声はかろうじて保たれていた。


「君の言うとおりだ。俺は、きっと受け入れなかった。あのとき真実を聞いていたら……君を拒絶していた。俺は、そんな人間だったよな」


「違う……違うわ」


 ルミナが、小さく息を吐いて言葉を落とした。彼女は静かに、リナリアの手を取る。


「あなたは、優しかった。だから彼女は、信じたのよ。いつか話せる日が来るって」


 その手の温かさが、わずかにリナリアの肩を震わせた。ジークが再び、ジョッキを手に取ると、今度は喉を鳴らすように、一口ずつゆっくりと飲み下す。

 沈黙が一巡し、ジョッキの底で揺れる琥珀色の泡が静かに消えた。誰もが言葉を探していた。そのなかで、クラウスのまなざしだけが、ずっとリナリアに向けられたまま。


「……ひとつだけ、まだ答えてもらってない」


 ジークとルミナが、その声に目を向ける。リナリアは微かに眉を動かしたが、逃げるような素振りはなかった。


「家族を見つけて、君はどうするつもりなんだ?」


 その問いは、刃のように鋭くはなかった。ただ、あまりにも率直すぎて、逆に胸に深く食い込んだ。問いかけたのは、憎しみでも疑いでもなく、ただ知りたかったから。その先にある彼女の「意志」を。


「君は……あの異形の言葉に、反論できなかった。アンデッドの永遠を、否定しきれなかったように見えた。君の中にも、彼らへの同調があるように感じた。……もし、母君と父君が、アンデッドの在り方を選んでいたとしたら、君はそれを、否定できるのか?」


 リナリアのまつ毛がわずかに震えた。その問いが、心の奥底の柔らかな場所を真っ直ぐに射抜いたのだと、誰の目にもわかった。ルミナの指がそっとリナリアの袖を握る。だがリナリアは、静かにルミナの手を包み込み、それからクラウスへとまっすぐに視線を返した。


「……できない。私は、彼らを否定できない」


 その言葉に、クラウスの喉が静かに動いた。


「母も、父も、命を喰らうような人じゃない。あの時、彼らがどんな選択をしたのか、私はまだすべてを知らない。それでも……私は彼らを受け入れたい。愛することをやめたくない。たとえ世界中がその在り方を忌むとしても」


 リナリアの言葉は、どこまでも(しず)か。泣いていない。叫んでもいない。ただ、言葉のひとつひとつが胸を裂くように、真実だけで構成されていた。


「だからこそ、私は彼らを止めなきゃいけないとも思ってる。誰かを奪うことでしか永遠を得られないなら、それは違う。私が知っている母は、父は、そんなかたちで命を繋げる人じゃない。私は、あのときの彼らを、もう一度……思い出させたい」


「……救うんじゃなくて?」


「ううん、救われたいの。私が。あの頃の母に。あの頃の父に。そうじゃなければ、私はずっと……自分を赦せない」


 クラウスは俯いたまま、ぎゅっと両手を握った。爪が皮膚に食い込み、赤くなっていた。リナリアの言葉が重くのしかかる。そして、それが真っ直ぐであるがゆえに、重く、美しかった。

 その時、ルミナがわずかに顔を傾け、リナリアの頬に触れるような仕草をした。言葉はない。ただ、そばにいること。それだけで、彼女のすべてを肯定していた。


 「……正直に言ってくれて、ありがとう」


 クラウスの声は掠れていた。だが、どこにも(いか)りはなかった。あるのは、彼自身のなかに芽生えた覚悟と、それを飲み込もうとする恐怖。


 「君の選ぶ道が、どんなに険しくても、俺は……見届けたいと思う」


 リナリアがゆっくりと頷いた。光の届かぬ夜の底で、静かに交わされたその約束は、誰よりも強く、優しいもの。

 けれど、クラウスの胸の奥には、まだ言葉にならない想いが、静かに渦を巻いていた。

 リナリアの力を信じていた。魂を鎮め、死に意味を与えるその力に、祖国を救う希望を見ていた。そして、どこかで思っていた。彼女なら――自分すら救ってくれるのではないかと。

 その思いが、憧れなのか、依存なのか、それともただの願いなのか、今はまだはっきりしない。ただ確かなのは、その姿に惹かれた自分がいて、心の奥底で、その名を呼び続けているということ。

 もし、この想いが「救ってくれるから」だというのなら、それは愛と呼んでいいのだろうか?

 ただ(そば)にいたいと願うだけで足りないのか?

 もし君が、俺を救ってくれるから愛したのだとしたら、それはただの依存かもしれない。だけど、君のすべてを知ってなお、そばにいたいと思った今――ようやく、本当の意味で、愛したいと思える。

 今夜――この静けさのなかで、彼女の痛みと真実が、自分の胸の深い場所にしっかりと届いた。それがすべての始まりになる気がした。

 ジョッキの底に残ったわずかな泡が、音もなく(はじ)けた。夜は深まっていたが、四人の影は確かに、同じ方向を見ていた。霧はまだ晴れていない。それでも、その向こうにあるものを信じようとする眼差しが、そこにはあった。

 この想いが救われたいだけの憧れだったとしても、君を前にしてそれを超えたいと願う。それだけは、揺るがぬ俺の真実であり――これから始まる道の、たったひとつの灯火。

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