第六十七話 偽りの魂
黄昏の壁は、かつて自由を掲げた者たちの意志が石のかたちとなって積み上げられたもの。今は、まるで長い眠りについた巨人の骨のように苔むし、誰の記憶からも滑り落ちた廃墟となって森に沈んでいる。だが、その沈黙は死ではない。いつか語られなかった歴史が、ひそやかに目を覚ますような気配があった。
ヴェルンハイム共和国が独裁政を敷く帝国の干渉を拒み、自由市民の意志を貫くために築いた防衛の砦。その名が示すとおり、日が沈む場所に立ちはだかり、侵略を拒絶する象徴。だが今は、その壁も、刻まれた標も、苔と風に覆われ、森の一部として風化しつつあった。
空は狭く、枝葉が頭上に複雑な影を落とし、陽光はほとんど届かない。足元の腐葉土はわずかに熱を含んで柔らかく、踏むたびに沈む感覚がある。音はない。風も鳥も虫すら、この一帯には入り込んでこない。静けさではなく、拒絶に近い沈黙。森が何かを押し隠していると、誰の胸にも直感が走っていた。
その沈黙を破ったのは、ジークの声。彼が一歩前に出て、枯葉を踏みしめたとき、乾いた音が異様なほど大きく響いた。
「いるな」
低く抑えた声。鼻先がほんのわずかに動く。腐臭ではない。むしろ、血の気を奪うような冷たい気配が、地面を這いながら四肢の末端に忍び込んでくる。言葉にならない圧力が空間全体に満ちていた。ルミナはそのまま一歩も引かず、風を読むように手を掲げ、霧の揺れをなぞる。
「六体。揺れてるけど、完全じゃない。ひとつ、中心にあるのは……均衡を崩してる核。強い。死の痕跡に、意志がある」
ルミナの声が空気に溶けていくと、風が止まり、周囲の木々がまるで呼吸を止めるように沈黙に閉ざされた。葉は動かず、霧の膜がぴたりと張り詰め、森そのものが何かを吐き出すような圧を孕む。
霧の奥から、音もなく現れたのは人の影。
輪郭が滲みながら、地を這うように近づいてくるその姿は、確かに王国正規軍の軍装を纏っていた。けれど、その身はもはや生者のものではなかった。
一人。二人。三人──
姿を現すごとに、空気が凍るような重みを増していく。
布地は生々しく湿り、どこか異様に丁寧に整えられた軍装が、不気味な整然さを生んでいた。皮膚は青黒く変色し、血色のない唇は閉じられたまま、だがどこか笑っているように見える。眼窩の空洞からは何も見えず、それでも彼らは、誰かの命令を待つように、リナリアたちへまっすぐ歩みを進めていた。その歩幅は狂いなく──まるで生前の記憶そのままに。
クラウスの背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。人間が持つ本能が、目の前の存在を拒絶している。
彼らの歩みは遅い。けれど、止まらない。
剣を下げたまま、だがその動きはかつての兵士そのもので、全身に染み込んだ訓練が、命令を待たずに体を動かしている。顔は無表情。だが、それがかえって残酷だった。生前の記憶が身体にこびりついている証にしか見えない。
「……最悪な展開だ」
ジークが低く呟いた。喉の奥から出たその声には、珍しく迷いが滲んでいた。彼はゆっくりと背から槍を外す。けれど、その手にはいつもの軽さがなかった。
クラウスは一歩も動けず、思考の奥が鈍く軋んでいた。ほんの数日前まで、家族に手紙を書いていたはずの兵士たち。国に命じられ、森に入っただけの者たち。どうしてこんなかたちで帰ってきたのか。誰が、彼らを──。
「待って」
リナリアの声が風よりも早く、静かに空気を貫いた。ジークの手が止まる。ルミナの動きがわずかにずれ、彼女の横顔が兵士たちの列を注視する。
リナリアは前へ出る。顔には表情がなかった。まるで、すでに答えを知っている者のように。
ジークは息を詰めたまま、リナリアの背中を睨む。肩がわずかに震えていたのは、寒さではなかった。殺意ではない。けれど、その背に漂う異質なものに、彼の野生の本能が反応している。
「連れて帰りたいの」
その言葉が、誰に向けられたものか――もう理解している者はいなかった。
クラウスは、己の理性を盾にしてきたはずの思考が、この場ではまったく通用しないことに気づいていた。何かを読み解こうとする意識があった。だが、目の前に広がるのはただの異常ではなく、彼がいまだ言葉にできぬ感情の風景そのもの。彼は、リナリアの後ろ姿を通して、その風景の中心をのぞき見てしまったような気がした。皮膚の下にじわりと冷たいものが走る。前触れのない重圧が森の奥からゆっくりと迫ってくる。
ジークは半身を引き、槍を構えかけたまま動けなかった。腕が重い。呼吸が、喉の奥で空転する。敵意でも、殺意でもない。それ以上のなにか──生命そのものを退かせるような威圧。
森の奥、薄闇がひときわ深い場所で、霧が静かに裂けていく。裂け目から、ゆっくりと影が現れる。法衣の裾が地をすらず、骨ばった足元が木の根を踏みしめている。法衣は王国軍の意匠ではない。もっと古く、もっと禍々しい装飾。かつてヴェルンハイムで使われた祭文の欠片が見える。
頭部に肉はない。白骨の頭蓋に刻まれた印。眼窩の奥に灯る青白い光。あらゆる意味で生と切り離されたその存在が、音を立てず、まっすぐにリナリアを見ていた。
クラウスが動けない。ジークも沈黙の中で足をわずかに引いた。
「……っ、何だ……こいつは」
かすれた声が喉奥から漏れる。クラウスの背に冷たい汗が伝う。リナリアは──目の前の怪異と対等に、むしろ迎え入れるような眼差し。
「よく……戻られましたね」
その声は、霧の奥から押し寄せるように届いた。音ではなく、肌をかすめる風の震えに似た波動。呼びかけというには静かすぎ、だが確かに、誰かがリナリアを名指している。
クラウスは言葉の意味よりも先に、その声の質に恐怖を感じていた。喉の奥で何かが引っかかり、思考の速度が遅くなる。振り返れば、リナリアはただ、まっすぐに前を見ていた。少しも驚かず、まるで知っていたかのように。
「リナリア……誰と話してる?」
クラウスの声は、自分でも気づかぬほど小さく震えていた。だが彼女は答えなかった。ただその気配に向けて、わずかに目を細める。
「死とは、あまりに唐突で、理不尽で、不公平だ……そう思いませんか? 命ある者が、誰かを思った瞬間に、それはもう別れの予感と隣り合わせになる。私は、それをどうしても受け入れられなかった。ならば、終わらなければいいと、そう思ったのです……」
その囁きが続くと同時に、ルミナの肩が震えた。目を伏せ、静かに言う。
「……フェリオラ?」
「違うわ」
リナリアが短く、首を振った。声は冷静で、それでいて、どこかに痛みを含んでいる。
「彼女じゃない。ノクティスでもない。模倣された存在。失われた魔力の残響によって、かつての魂をなぞった……それだけ」
クラウスが目を上げる。ノクティス――リナリアが初めて口にした、フェリオラ以外の名。そしてその名にこそ、彼女が今まで隠してきた何かが染みついていると、彼は直感した。
「けれど私は感じています。あなたの中に、同じ意志があることを。終わりなき循環を越え、魂に永遠の形を与えようとした理想。それは、いまもあなたの奥底に息づいている」
異形の声は狂気ではなく、どこか祈りに近い響きを持っていた。魂が魂に語りかけるような、深く静かな響きだった。
リナリアは視線を落とし、目を閉じる。長いまつ毛が頬に影を落とす。
「私も、そう信じる。別れのない世界こそが、最も優しい答えだと」
言葉は淡く、重い。誰に向けたものでもない。けれど、クラウスの胸にその意味が刺さる。彼女は、否定していない。むしろ、共鳴している。
ルミナがそっと彼女の隣に立つ。
「リナリア……」
リナリアは深く息を吐き、再び顔を上げた。
「でも、あなたは彼らの命を奪った。意思を問うことなく、永遠という名の檻に閉じ込めた。あなたは待てるはずだった」
異形の存在はゆっくりと手を広げる。その骨の指先から、微かに青白い光が零れ落ちる。
「私は与えたのです。終わらぬ存在として。苦しみの環から解放するために」
「あなたの望みは理解できる。痛いほど。でも、だからこそわかる。あなたのしたことは贈り物なんかじゃない。選ばれなかった者たちの、祈りを踏みにじっただけ」
リナリアが両手を胸の前に掲げる。掌から、淡い銀の光が広がる。水面のように、深く、柔らかく、冷たく。そして、限りなく静かに──それは周囲の空間を包み込んだ。
兵士たちの身体が動きを止めた。剣を落とすこともなく、ただその場に立ち尽くす。胸の奥から、ふっと青い炎が漏れ出す。歪んでいた魂の輪郭がほどけていく。
「あなたの言葉を否定はしない。でも、私は彼らを返してもらう。家族の元へ、帰るために」
その言葉に、異形の肩がわずかに震える。
「……ならば、私はどうすればよかったのか。ここで、こうして、ただ消えるだけの存在なのか。私は、いまも誰かであると思っていた」
「あなたが残したものが、誰かの祈りに触れたのなら……その証が、きっとどこかに残る。でも、あなた自身がそれを信じられないのなら──私が終わらせる。彼らを、祈りの形として、家に返すために」
異形の姿が、霧のなかでかすかに滲んでいく。骨の手がふっと浮き上がり、空に解けるように崩れていく。その最後の瞬間、わずかに首を垂れた。
「……お美しい」
その声を残して、霧が彼を吸い込む。風が流れ、森に再び音が戻ってくる。まるで長い夢が覚めたように、鳥の鳴き声が遠くでこだました。
クラウスは、リナリアの横顔をじっと見つめていた。何かを捨て、何かを選んだ者の顔。そこに宿る決意の光は、あまりにも静かで、誰も触れられないほどに遠かった。
地に残された兵士たちの遺体は、穏やかな顔をしていた。まるで、ようやく帰る場所が見えた者たちのように。
ジークが問いかける。
「……運ぶのか?」
リナリアは頷いた。
「ええ。帰る場所に、連れて帰るの。……これ以上、誰にも奪わせない」
彼女は、ひとりの兵士のもとに膝をつく。泥に濡れた頬に、そっと掌を重ねる。
「帰ろう……家族の元へ」
その言葉に、遠くで一羽の鳥が鳴いた。
森に初めて風が吹いたような、その声は、静かで澄んでいて。まるで、祈りそのものが形を持ったかのように、夕闇の中へ溶けていった。




