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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第四章 仮初の女神、偽りの世界
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第六十六話 名もなき気配

 イセリアの夕暮れは、幕の下りた舞台に似た静けさを滲ませている。

 陽が西の森へ沈む頃、石造りの冒険者ギルドには、奇妙なざわめきが生まれていた。扉の内側に、紙一枚――依頼書が掲げられた。それ自体は日常の一風景。その中央に刻まれたUランクの文字は、ひときわ異質だった。艶やかな黒の筆致が、まるで誰かの手によってふざけて記されたかのように浮いていた。


「U? 何だこれ。Bの上がAで、その(うえ)がSって、決まってんだろ」


「ランクの打ち間違いか? いや、でもギルドの奴らが間違えるか?」


「ナツキだってA止まりだったんだぞ。そんなの、数年に一度出るかどうかの化け物だってのに」


「エルガが確かSだったろ。それでも、Uは聞いたことがねぇな」


「で、誰がそのUなんだ?」


「外にいたあの半獣人の男。あいつじゃねぇのか? 背中にでかい槍背負ってたぞ。ドラゴンの血がどうのって噂、聞いたことある」


「なるほど、納得。……いや、ドラゴンっているのか?」


 扉の外、斜陽に照らされた石段の上。ジークは壁に背を預け、片足を軽く引っ掛けていた。腕を組んだままの姿勢は、眠る前の獣のように静かで、周囲のざわめきに興味があるともないともつかない無関心を保っていた。けれど、言葉の一つひとつが、自分を指しているのを、耳は決して聞き漏らしていない。


「目立つ担当ってこと、忘れてなかったのね」


 背後からふと届いた声に、ジークは目だけを横に向けた。視線の先にはルミナ。腰に手を添えたまま、斜めからこちらを見上げるように立っていた。軽やかな口調に含みはなく、それでいて、どこか小さな棘を残すような余韻があった。


「嬢ちゃんのカモフラージュだったな……確かに、そんな話だった」


「そうよ。だから、ちゃんと目立ってくれなきゃ」


「……それにしてもなぁ」


 ジークはため息交じりに腕を組み直し、ギルドの扉に視線を戻した。中からはまだ、ざわつきと疑念と、好奇の混じったざらついた空気が漏れていた。


「Uなんてランク、あるわけねぇのに。まったく…… やっぱり、そういう役回りか、俺は」


「利用されてるって自覚があるだけ、まだマシでしょ?」


「それも役目か」


 言い合いのようで、言い合いではない。互いに背中を預けるような距離で交わされる会話は、静かに築かれた信頼をにじませていた。

 そのとき――風が通り、ルミナの長い髪をひとすじ舞い上げた。ジークの視線が自然とそこへ流れ、一瞬、言葉を失いそうになる。だが、それもすぐに戻ってきた皮肉に変わる。


「ま、退屈しないって意味では、合格点だな」


「嬉しいわ。最高の褒め言葉」


 そう言って、ルミナはひとつだけ、ほんの小さく目を細めた。その笑みは、誰にも見せることのない、ほんのわずかな感情の緩み。ジークはその意味を問おうとはしなかった。ただ、鼻を鳴らしながら再び扉の向こうを見据えた。

 沈みかけた陽が、ギルドの窓に最後の金の光を注いでいた。



「依頼主は、王国正規軍第三中隊。現地駐屯長のダンベルグ少佐です。私が案内します」


 ユルゲンがそう告げると同時に、リナリアたちはイセリアの中心へと向かっていた。霧が引き始めた午後の石畳を踏みしめ、彼らの影が長く伸びていく。村の中心にある駐屯地は、壁面に苔の浮いた質素な石造りの建物。立派ではないが、幾重もの手入れを受けてきた風格を備えている。

 入り口を抜けると、中庭では兵士たちが忙しなく動いていた。槍の手入れをする金属音。磨き込まれた革鎧の擦れる音。無言で整列を繰り返す訓練の様子が、彼らの規律を雄弁に語っていた。

 中庭の一角。ひときわ目を引く壮年の男が、背を伸ばして待っていた。髪は短く刈られ、左頬に斜めに走る古傷が残っている。日に焼けた肌、深く刻まれた眉間の皺、その全てが戦場の記憶を物語っていた。

 リナリアたちに気づくと、彼は腕を組み直し、まっすぐに視線を向けてくる。


「お前たちが……噂のUランクというやつか」


 低く乾いた声。その響きに含まれる懐疑と警戒は、無理もない。この地で命を張る者として、名ばかりの称号など信じる理由がない。


「ランクのことは、紙の上で決められた符号です」


 リナリアが歩み寄りながら応じる。声音は静かだが、語尾に余計な謙遜も誇示もなかった。ただ、受け止める姿勢を示していた。


「なら、実力で証明してみせろ。それで十分だ」


 ダンベルグ少佐は腕を解き、後方の机に手を伸ばす。角がすり減った板の上には、折り重なるように報告書と地図が並んでいた。その一枚――写し取られた依頼書を、無言で差し出す。

 羊皮紙の上に記された名は三つ。いずれも、王国正規軍所属の巡回兵。日付は三日前。最後に確認されたのは、村から北東へ三里ほど進んだ森の奥。


「二日前、巡回部隊が森へ入った。だが戻らない。連絡もない。追跡を試みたが、再び人を失う可能性を考えて、引き返した。生存の可能性は……低い」


 言葉を選ぶように、少佐が一度視線を落とす。


「だが、遺体が見つからぬまま、帰還報告をせねばならない現実もある。家族には、帰ってこなかったという事実だけでは済まされん。頼みたいのは……確認だ」


 リナリアは一拍、地図の座標を目でなぞり、それからまっすぐに少佐の目を見る。


「わかりました。私たちが確認に向かいます」


 その応答に、ダンベルグはわずかに目を細める。言葉に迷いはない。むしろ、それが早すぎるほどだった。数秒の沈黙ののち、彼は無言で地図を差し出した。


「黄昏の壁の手前……旧ヴェルンハイム共和国との境界線近くだ。東の森は霧が濃く、日が落ちると一気に視界が失われる。道もない。無茶は、するな」


「任せてください。最悪の事態も想定しています」


 ジークが横から口を挟む。腕を組み、顔を上げたまま、()だけを鋭く細めていた。


「三日経って戻らないなら、あんたらの兵隊はもう……生きちゃいねぇ」


 ルミナが制するように、軽くジークの腕に手を添える。その手の感触に、ジークは不機嫌そうに目を伏せた。


「……まあ、確認だけならいい。嬢ちゃんの気が済むまで付き合うさ」


 リナリアは二人の様子を見て、わずかに微笑む。けれどその視線の先――地図に示された森の奥へと向けられた意識には、確かな緊張が宿っていた。


「出発の準備はできている。徒歩で行くのですね?」


「はい。馬では森に(はい)れません。踏みならされた道もないようですし、静かに進む方がいい」


「なら、私も入口まで同行します」


 ユルゲンの言葉に、誰も()を唱えなかった。そして彼らは、黄昏の森へ向かって歩を進めていく。



 森に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。

 陽の光が葉の濃緑を透かしながら地表に届くまでに幾度も歪み、あらゆる輪郭がぼんやりと滲んでいく。頭上に広がる枝葉は、まるで音を閉ざす天蓋のように重く絡み合い、空と地を切り離している。風の通り道は細く、湿った空気が肌に纏わりつく。地面には苔が密に張り、腐葉の香りと古い雨の気配が入り混じる。

 鳥の声は聞こえない。虫の羽音も、葉擦れのささやきも、なぜか森の奥へ吸い込まれていく。

 リナリアが歩みを止め、目を細める。指先で風をなぞろうとするが、そこに感じるはずのものが、あまりに希薄で手応えがない。


「……やっぱり、何もつかめない。風にも、水にも、触れられない」


 その声に、ルミナが隣から答える。歩幅を合わせたまま、手を掲げて空間のわずかな渦をなぞっている。


「死の精霊の領域です。……リナリアの存在が、他の精霊を遠ざけてる」


 声は囁きに近く、森の音と溶け合うように響いた。けれど彼女の瞳だけが、周囲の空間を鋭く読み取っていた。視線は絶えず揺れ、風の断層を視ている。


「風が……裂けてる。流れが交差して、逆巻いて……」


「複数の属性?」


「ええ。水、火、土、風――全部がここに集まって、互いに拮抗してる。まるで喧嘩してるみたい」


 リナリアの眉がわずかに寄る。足元の落ち葉に、注意深く指先を伸ばす。


「精霊が、怒ってる……?」


「違う。怖がってる。ここにある何かを、拒んでるの」


 ルミナの声は、ほんのかすかな震えを含んでいた。そう告げた瞬間、ジークが立ち止まる。鼻先を上げ、呼吸を浅くしたまま森の奥へ向ける。


「……獣じゃねぇな。けど、いる。この先の空気、動いてる。人のものでも、獣のものでもねぇ」


 湿った風が、背中を押すように流れていく。ルミナが目を細め、ジークと同じ方向へ視線を送った。


「まだ遠い。でも……確実に、こちらへ向かってきてる」


 木々の間を抜ける小道が、やがて一つの空間へと続いている気配がある。何かが息を潜めて待つような、不自然な沈黙。その先で揺らいでいる存在に、森全体が硬直していた。

 それでも、リナリアの歩みは止まらない。

 むしろ、彼女は一歩、足を進める。迷いのない動き。まるで自分のなかの揺らぎと、この森の揺らぎが共鳴しているかのように、導かれるように前へ進んでいく。


「……この森が、何を怖れてるのか。確かめる必要がある」


 その声に、誰も反論しなかった。ジークは腰の剣に手を添え、ルミナは軽く目を閉じて気配を感じ取りながら、リナリアの左側へ位置を移す。クラウスは言葉を持たなかった。けれど、彼の視線はリナリアの背中をしっかりと捉えていた。

 夕暮れの光が、森の(ふち)にそっと沈みかけている。

 背後の木々が微かに震え、葉の重なりの間を風が抜ける。その音は、耳に届くものではなく、どこか胸の奥を鳴らす囁きのよう。精霊たちが、何かを訴えようとしていた。名もなき震えが、彼らの輪郭を呼び起こし、沈黙の奥で何かが目を覚まそうとしている。

 霧の先には、まだ見えない何かが潜んでいる。けれど、そこに触れなければ物語は動かない。霧の向こう、未だ名もなき恐れの深淵に、リナリアの影が吸い込まれていく。


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