第六十五話 霧の地、縁を刻む
午後の陽が斜めに差し込みはじめた頃、馬車の車輪が石を弾き、霧に霞む谷底の村が姿を現した。王都オルセリアを発ってから三日。道中には幾つもの河と丘陵があり、馬の歩みに合わせてゆったりとした旅程を刻んでいた。村の名はイセリア。旧ヴェルンハイム共和国との国境に近く、辺境というには規模が大きく、兵士や冒険者たちの往来で不思議な活気が漂っている。
「空気が柔らかい。懐かしい匂いがする」
クラウスが馬車の扉を開け、外の空気を一息吸い込んだ。微かに湿り気を含んだ風が、彼の黒衣の裾を揺らす。見慣れた稜線が遠くに浮かぶ。崩れた柵と段々畑の石垣に、クラウスの記憶がわずかに揺れた。そのすべてが、彼の記憶の奥に、静かに波紋を広げていた。
「前哨地のわりに、随分と落ち着いた村だな」
ジークが馬を降りながら言うと、ユルゲンが軽く頷いた。
「地形と霧が幸いしています。湿地と密林に守られているんですよ、この村は。攻めるには不向きでしてね。王国も以前はこの地を重要視していませんでしたが、アンデッドの出現により状況が変わったのです」
村の外れ、草むした丘の上に立つ石柱が目に入る。そこは崩れた円形の遺跡に、まだ立ち尽くす柱がいくつかあった。苔むした石に刻まれた文様は、精霊信仰の名残をはっきりと伝えていた。
「ドルイドの祭祀跡ね」
リナリアが馬車を降り、真っ直ぐその遺跡へと歩み寄る。風が、彼女の髪をすくように吹き抜けた。
「エルフの……?」
クラウスが追いかけて並び、柱の一つに近づいて刻まれた文字を指差す。
「今じゃ読める者はもういないって、学界では言われてるはずなんだけどな……」
「読むのは簡単よ。文法は少し独特だけど、発音規則は変化が少ないから」
リナリアが、指でなぞりながら口元で静かにその文を読み上げる。優しい響きだった。けれど、言葉に込められた意味は重い。
「霧は眠る精霊の帳。この地に足を踏み入れる者よ、名を告げよ、己が意志と共に」
静かな詠唱に似た声が、遺跡のまわりの空気を振るわせた。風が一度止まり、辺りの鳥たちが、息を潜めたように鳴き声を止める。
「本当に読めるのか?」
ユルゲンが目を見開いてリナリアを見る。彼の知る限り、この地に残るエルフ語を、正確に読み解ける学者などもう残っていない。クラウスもまた、半ばあきれたような息を漏らした。
「専門家でも訳語が割れる文法構造のはずなのに……それを口に出すなんて」
リナリアは笑って応じる。
「森にいた頃、育ててくれた人たちが教えてくれたの。人の言葉じゃない、もっと古い響きとしてね」
風が再び流れ、遺跡の周囲に積もる落ち葉を巻き上げる。その風景のなかに、リナリアの立つ姿が不思議な調和を与えていた。まるで、そこに帰るべき存在が、再び立っているかのように。
「さて――まずは君たちを冒険者ギルドに登録しましょう」
ユルゲンが案内する先には、石造りの建物が建っていた。王国の公的な施設とは異なる、ややくたびれた外観。けれどそこに人の出入りは多く、扉を開ければすぐに、喧騒と煙草の匂いが鼻を打った。
「ローゼン帝国との条約に基づき、オルセリア王国側でも冒険者制度を取り入れています。登録者の数と活動記録はそのまま、帝国の監視対象となります。王国はそれを承知のうえで便宜を図る。つまり、諜報と傭兵契約を兼ねたような存在です」
「へぇ……そういう仕組みね」
ジークが肩をすくめると、ルミナが小さく頷いた。
「帝国らしい……人を測る術に、手間を惜しまない」
カウンターには、鼻にピアスをした中年の受付官が肘をついて書類に目を通していた。ユルゲンが前に出ると、彼はすぐに顔を上げ、慌てて姿勢を正した。
「ユルゲン殿!これはご足労を」
「少々特殊な紹介者を連れてきました。登録は可能ですか?」
「も、もちろん。どのような……?」
「リナリア殿を筆頭に、クラウス・ヴァルトシュタイン殿、ジーク殿、ルミナ殿。いずれも王の勅令を経て特命を帯びています。ローゼン帝国にも記録は残っているはずですよ。例の『蒼の遺跡』の件で」
男の顔色が一瞬で変わった。
「そ、そちらの……!承知いたしました、すぐに適切なランクでの処理をいたします」
「実力を測る尺度が、もう役に立たないのかもしれませんな」
「Sより上は、非公式ですね、さすがに……しかし対応いたします!」
受付の男がそそくさと書類を取りに下がる間、ユルゲンは小声でリナリアに囁く。
「帝国の監視下にあるとはいえ、こちらも情報を得るには好都合。ここでの依頼は、地域の状況を把握する手段にもなります。危険はありますが、選んで受ければ無駄はありません」
リナリアは静かに頷いた。
「選ぶだけの余地があるといいけど。すこし不安定なのよ」
「……揺れている?」
「ええ。森の奥、東のもっと深いところに、強い揺らぎを感じる」
「それが黄昏の壁かもしれませんね」
クラウスが呟いた。彼の視線の先には、地図に記された境界線が浮かんでいた。
黄昏の壁――オルセリア王国とヴェルンハイム共和国の境に築かれた石の砦。かつては国境線であり、今は防衛線として機能するその場所が、崩れかけている。
「強い揺らぎ……それは、アンデッドの侵攻と関係ある?」
ルミナが尋ねると、リナリアは少し考えるように目を伏せた。
「それを確かめましょう。答えは、あの先にある」
受付官が戻り、書類を整えてリナリアたちに提示する。
「登録完了です。特例により、Uランクでの活動が許可されました。報酬も比例して上がりますが、それに見合う責任が伴いますので、ご留意ください」
「異常対象ってわけか」
ジークが笑い、クラウスが真面目な顔で補足する。
「それは不謹慎ですよ。重要監視対象ということでしょう」
「でも……名乗ってもいいだろ?」
「そうね」
リナリアは小さく笑う。
「Uランク。今の私たちに、ぴったりかもしれない」
ギルドの掲示板に、次々と張り出される依頼書が揺れている。陽の光が射し込み、埃の立つ空気を斜めに切り裂いていく。
リナリアは足を止めた。視線が一枚の依頼書に吸い寄せられる。それが何かを告げる前に、彼女の手が、その紙の端に指をかけていた。そこには、東の森で姿を消した巡回兵の捜索依頼。彼女は指でその紙の端をそっとなぞる。まだ、名前は書かれていない。
けれど、その先に続く物語が、すでに始まっていることを、誰もが感じていた。