第六十四話 光と灰のはざまへ
王都オルセリアの空が、うっすらと薄明に染まり始める。
まだ陽は地平線の向こうで、風には夜の名残が混じる。中庭には誰の足音も響かず、石畳を撫でる風だけが、衣の裾をかすかに揺らしていた。目に見えぬ決意が地面の下から滲み出し、旅立ちの気配を告げていた。
リナリアは中庭の一角に佇み、じっと空を見つめている。旅支度は整えたはずなのに、手は腰のあたりで止まり、視線は遠くの雲を追っていた。夜と朝の境にあるその色は、街の輪郭と混ざり、どこか別れの気配を含んでいた。
クラウスは黙々と馬車の荷を整え、無言のまま木箱を縛っている。眼差しは中庭の隅々に向けられ、全てが整うまで手を止めようとしない。思考を封じるように、動きだけが意志を語っていた。
ユルゲンは門を見つめている。口を閉ざし、姿勢を正し、政治家としての威厳と覚悟が静かに背中に宿っていた。
ジークは壁に背を預け、槍の刃先を太陽にかざしている。彼の視線は中庭の隅に佇む者たちに移り、わずかに息を吐いた。
白衣の信徒たちが城の壁の陰に集まっていた。整った隊列のまま立ち尽くし、沈黙を破ることはない。祈る者たちは、その身振りひとつに意味を持たせる。彼らの肩にかかる緊張は、誰の言葉を待つでもなく、すでに選び取った者たちのもの。守る意志が形になり、その場に宿っている。
ルミナがリナリアの外套の紐を結ぶ手を止め、信徒たちの方を何度も振り返った。呼びかけたい気持ちが喉元まで来ていたが、言葉にならない。
その代わりに、リナリアが先に声をかける。
「来てくれたのね」
一歩踏み出した年配の信徒が、深く頭を垂れる。整った声音で言葉を贈る。
「あなたの歩む先に、精霊の加護が宿りますように」
祈りは簡潔にして深い。不要な飾りを削ぎ落とし、心の核だけを言葉に込めている。リナリアは柔らかく微笑み、眼差しを向けた。穏やかで、けれどそこに迷いの気配はなく、すでに選び取った決意の輪郭が浮かんでいた。
「お願い、ひとつだけ聞いて」
彼女はゆっくりと歩み寄り、信徒たちの前に立つ。
「この王都の人々を守ってほしい。もし、ここに闇が迫ったなら、みんなを連れて北へ逃れて。誰にも誇らなくていい、生きるために逃げて」
その声は指示ではなく、願い。けれど、そこには抗えぬほどの力が宿る。沈黙のあと、若い信徒が口を開く。
「それも精霊の意志なら逆らうことはいたしません。我々はずっとここにいましたから」
声に無駄な抑揚はなく、忠誠を滲ませるでもなく、ただ一つの事実を述べるように響く。そこには感情より先に、責任があった。リナリアは、信徒たちの視線を正面から受け止めた。
「アンデッドは私にも止められないかもしれない。そして私も戻らないかもしれない。でも、確かめたいの。なぜそれが生まれ、どうして動いているのか」
ルミナがその言葉に静かに頷く。リナリアの手を取る指が、しっかりと彼女の指を包み込んでいた。揺れがない。細い肩に、はっきりとした意志が宿っていた。
信徒たちは誰も騒がず、表情を動かさなかった。けれどその無表情こそが、内なる感情の重さを物語っている。受け入れると決めた者の覚悟だけが、そこに立ち続けていた。
リナリアは城壁の向こうを見上げる。灰色の空の裂け目に、一条の光が差し込んでいた。星霧の森で見た夜明けの記憶が脳裏に浮かぶ。精霊たちのささやき。かすかに震える木々の声。彼女の胸の奥に宿ったあの揺らぎが、今また静かに目を覚ます。
「そうね。運命に抗うんじゃない。ただ、向き合うの。歩き続ける。それが私の選んだ道」
誰も返事をしなかった。祈りの場に言葉は不要。けれど、そこにいた全員が、その言葉のひとつひとつを、心の深くまで受け止めていた。
リナリアの外套が風に揺れる。旅立ちの音が石畳の上を転がる。空はすでに、朝の色へと移ろっていた。
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馬車は王都の石畳を滑り、門をくぐると、そのまま東へ向かって緩やかな坂道を進んでいた。車輪が軋む音と馬の足音が、まだ薄く靄のかかる街道に溶けていく。遠くの空には朝陽が昇りかけ、木々の葉の影を淡く染めていた。外の世界は静かだった。ひとつの都が、音を立てずに背後へ遠ざかっていく。
馬車の中には三人。クラウスは進行方向を向いて、窓際に身を寄せていた。ユルゲンは向かいの座席に腰を据え、背筋を正したまま手を膝に重ねている。リナリアはクラウスの隣、少し斜めに身体を傾けながら、揺れに合わせて小さく揺れる天幕の影を見上げていた。
視線の先にあったのは、ユルゲンの手の動き。静止しているはずの指が、ごくかすかに動いていた。指先を揃え、再び開く。その癖に、意味のない仕草ではないとリナリアは感じ取っていた。唇の端の緊張がゆるまず、まばたきの間隔がいつもよりわずかに狭い。たぶん、彼は何かを飲み込んだまま、それを言葉にする機会を待っている。
「ご家族は、心配されなかったのでしょうか?」
唐突ではなかった。けれど、誰も予期していない問いでもあった。ユルゲンのまぶたがわずかに揺れた。表情は崩れない。けれど、微細な影がその奥に生まれる。
「娘がひとり。十八になります。神聖国の学院に預けています。妻は王宮に仕えているので、こうして旅に出ることも、都合はつけやすいほうです」
淡々とした声に、リナリアは言葉を返さず、まなざしを落とした。彼女の掌がわずかに握られる。頬にかかる髪を指で払うようにして、そっと目を閉じる。
ユルゲンが遠くを見るように、淡い声をつけ足す。
「クラウス君。君は、彼に会いに行くのか?」
その問いに、クラウスは目を逸らさなかった。ユルゲンの目をまっすぐに見て、静かに首を縦に振る。
「はい。それが僕の旅の理由です」
たった一言で、彼の姿勢は固まったように見えた。もはや誰に止められても、踏みとどまる気配はない。ユルゲンは短くうなずき、それ以上は何も言わなかった。
それを聞いたリナリアは、じっとクラウスを見つめていた。その横顔には、迷いがない。だがそれは、どこか胸を締めつける硬さでもあった。
ユルゲンが再び、問いを向ける。
「リナリア様。あなたにも、ご家族がおられるのでは?」
リナリアはすぐには答えなかった。窓の外を見つめる視線が一度、遠くに伸びる。朝露の降りた草が、風に触れて揺れている。その小さなざわめきが、返事の代わりに心を揺らした。
「……母と、父を探しています」
馬車の中に、微かな沈黙が生まれた。
クラウスはすぐに顔を上げなかった。目だけがリナリアに向いていた。彼女の横顔は、いつものように真っ直ぐだった。ただ、言い終えた直後――ほんの一瞬、彼女のまつ毛がかすかに揺れた。それは、誰にも悟られないほどに小さく、それでも、何かが不意にこぼれそうになる直前の震えだった。
彼女が『母と父』と口にしたことに、クラウスの胸がわずかにざわつく。
母。そして、父。
リナリアの旅の理由は、これまで彼のなかで「フェリオラという存在に関心を抱き、その行方を追っているのだろう」という推論で成り立っていた。フェリオラ――かつて死の精霊に触れたという伝説の魔女。その軌跡を求めることは、魂の構造や死の可逆性に執着を持つリナリアの性格と噛み合うはずだった。
けれど、今、その前提がかすかに崩れはじめた。
フェリオラがただの研究対象ではなく、彼女にとって『母』である可能性が浮かんだ瞬間、クラウスの思考はひとつの点を中心に静かに広がっていく。
なぜ、彼女はこれまでフェリオラの名前を直接語らなかったのか。なぜ死の話になると、彼女はときどきわざと別の方向に興味を向けたように話を逸らしたのか。無邪気な探究心のふりをして、その裏に何かを隠すように、軽さを演出してきたのではないか――。
それが今、『母と父』というひとことのなかで、糸のほころびのように滲み出た。彼女は、それを自覚していたのだろうか。
リナリアはふと目を閉じて、そっと息を吐いた。何かを整えるように、まつ毛が小さく伏せられ、唇の端がほんのわずかだけ沈んだ。あらかじめ用意していた言葉ではなかった――そうクラウスにはわかった。彼女は、つい言ってしまったのだ。そのことに気づき、そして、押し返した。
ほんの一瞬の感情を、何事もなかったように流すために。
クラウスは口を閉ざしたまま、視線だけで彼女の横顔を見つめていた。リナリアがそのまま窓の外へと目を移したのを見届けると、自分もまた目を伏せる。彼女の秘密に気づきかけていることを、表に出すべきではないと、そう思った。何かを知ろうとするよりも、いまは隣にいることを選ぶ――彼は、自分にそう言い聞かせていた。
ユルゲンが、静かに目を伏せる。
「親というものは、手を伸ばしても届かぬ距離にいるときほど、強く心に残るものです。たとえ姿が見えなくても、子の心の中では、いつまでも在り続ける」
リナリアは、瞼を閉じた。目尻の奥に痛みのような熱が浮かんでいた。けれど涙ではない。言葉にすれば壊れてしまいそうな何かが、胸の奥にずっと張り詰めていた。
ユルゲンの言葉は、クラウスにも届いていた。父を探す旅。それがたとえどれほど過酷なものであっても、やがて答えに辿り着くと信じた自分の選択を、今ここで改めて胸に刻む。沈黙が訪れた。けれどそれは、交わされた言葉を否定するものではない。言葉の余白に、それぞれが自分の思いを重ねていた。
朝日が、馬車の天幕に淡く滲んでいた。
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午後の光が丘陵を越え、ゆっくりと街道を照らしていた。馬車は傾斜のゆるやかな坂道を、きしむ車輪を響かせながら進む。王都の輪郭はすでに遠ざかり、煙に包まれた塔の先端が、霞の中に微かに浮かんでいた。
ジークは御者台の端に腰を下ろし、手綱を軽く握ったまま、何かを言うでもなく前を見据えている。隣にはルミナが座っていた。風に揺れる長い耳が、午後の光に淡く光る。
「……お前さんは、ああいうのに疲れないのか」
ジークの声は低かった。唐突に聞こえたそれに、ルミナが少しだけ眉を動かす。
「ああいうのって?」
ジークは口の端を上げる。
「決まってんだろ。あの嬢ちゃんだよ。朝から夜まで理屈と感情と運命の塊みてぇな顔してる。俺なんか、見てるだけで息が詰まる」
ルミナはふっと小さく笑う。けれどその笑みには、どこか慈しむような光があった。
「息が詰まるほど、本気ってことよ」
「お前、そういうのが好きなのか?」
「そうね、好きよ」
ジークがちらりと横目で彼女を見る。ルミナの目は、まっすぐに前を向いていた。迷いのない静かな眼差しだった。
「嬢ちゃんのためだけに、生きてるって顔してるな。不思議だよ、お前みたいなの。俺にはそういうの、ちょっと怖い」
「怖い?」
「ああ。どこにも行けなさそうに見える」
ルミナは黙って、手袋をはめた指先で膝をなぞるように撫でた。
「そう見えるだけよ。行くときは、行く」
「どこに?」
「それが分かったら、たぶん、私はもうここにいない」
ジークは答えを聞きながら、言葉にできないものを受け取ったような気がしていた。だから、黙って頷いた。それ以上は何も聞かず、代わりに視線を空へ向ける。
風が、二人の間を静かに通り抜ける。
「まあ、あの嬢ちゃん見てると、心が動く。おかげで、俺も少しだけ、生きてるって気がする」
「なら、よかった」
ルミナの声は小さかった。けれど、それを聞いたジークは、ほんのわずかに肩を揺らした。
静かな午後。馬の蹄が乾いた道を踏みしめる音だけが、一定のリズムで続いている。陽は傾きはじめ、森の影が東へと傾いていく。王都はもう見えない。けれど、その向こうに残した何かが、彼らをじっと見送っている気がした。
ふたりは言葉を交わさなかった。言葉がないことで、逆に交わされたものが、そこにはあった。




