第六十二話 導く者
礼拝場を覆う布越しに、午後の陽光が緩やかに滲んでいた。だが、その光は、もはや救いではない。空気は乾ききり、外では押し殺した怒声が時折吹き荒れる。冒険者たちの甲高い罵声と、王国兵の感情を欠いた命令の声が、広場を覆う薄布越しに伝わってくる。
彼らは次々に難民たちの粗末なテントを引き剥がし、慌ただしく広場の中央へ追い立てていた。叫び、泣き叫ぶ子供たち。取り乱す母親。逃げ惑う老人。王国兵は一切の情けを見せず、木の棒で叩き、押しやる。炊き出しの鍋は蹴倒され、まだ温もりの残るパンや食材も無残に踏み潰されていた。
信徒たちも例外ではなかった。白衣を着た者たちは暴力でねじ伏せられ、祈りの声は嘲笑と罵倒に掻き消された。抵抗する者には容赦なく鎖がかけられ、無理やり広場の隅に押し込められていく。その光景を目の当たりにすることなく、耳に触れる音だけで、何が起きているか、痛いほどに伝わってきた。
薄暗い礼拝場の中、リナリアは静かに座りながら、目を閉じていた。
胸の奥を満たすものは、ただ重い沈黙だけではない。今もなお、王国兵と冒険者たちは難民たちを威圧し、信徒たちを踏みつけ、力で屈服させようとしている。このまま自分が隠れていたところで、何一つ変わらない。むしろ、自分の存在が彼らを危険に晒している――その思いは、鋭い刃のように彼女の心を抉った。
リナリアはぎゅっと拳を握る。自分がここにいるせいで、彼らが傷つけられている。その事実に、耐え難い痛みを覚えた。
そのとき、布をかき分けて白衣の若い信徒が飛び込んできた。顔には埃がつき、息を切らしている。彼は短く、だが絶望を滲ませた声で告げた。
「冒険者のやつら、やりたい放題です。このままでは、ここの礼拝場も……時間の問題です」
室内の空気が凍りつく。ルミナが即座にリナリアの前に立つように動き、クラウスとジークも静かに身構えた。だが、リナリアは顔を上げ、静かに立ち上がった。
「……私が、ここにいるから」
リナリアはそっとルミナの手を取り、力を込めた。小さな手がきゅっと応え、ルミナは一瞬だけためらうようにリナリアを見上げたが、すぐに頷いた。彼女の中でも覚悟が決まったのだろう。何も言わず、ただリナリアの隣にぴたりと寄り添った。
リナリアは砂を巻き上げないように慎重に動きながら、迷いのない目で布の向こうに広がる騒乱を見据えた。白衣の信徒たちが彼女の動きに気づき、ざわめきが広がる。年配の信徒が慌てて近寄り、声を低くして呼びかけた。
「リナリア様、どうかお待ちください。我々が対処いたします。危険な真似をなさらずとも……」
リナリアは振り返り、静かに首を振った。その声は、穏やかでありながら、一片の揺らぎもなかった。
「大丈夫。戦いに行くわけではありません。交渉をするだけです。私は和解の使者になります」
その声の確かさに、誰もそれ以上は言葉を続けられなかった。重い沈黙が礼拝場を満たす。その中で、数人の信徒が一歩、また一歩とリナリアのそばに立った。頭を垂れ、静かに申し出た。
「せめて……護衛だけは、させてください」
リナリアは優しく頷き、応えた。
「はい、お願いします」
白衣の信徒たちに守られるようにして、リナリアは礼拝場の布を押し開け、外へと歩み出た。砂塵が舞い、乾いた熱気が顔に当たる。傾きかけた太陽が広場を照らし、王国兵と冒険者たちが仮設の陣を築き、難民たちを睨みつけている。その中心、勅令を伝えていた高官が、なおも威圧的な態度を崩していなかった。
リナリアはためらわずに進み出た。信徒たちが息を呑み、王国兵たちが一斉にこちらを注視する中、彼女は凛とした声で宣言した。
「私が、この者たちを導く者です」
広場に、静寂が落ちた。
高官が驚きに目を見開き、対応していた年配の白衣の信徒も、息を呑んでリナリアを見つめた。広場には一瞬、波紋のようなざわめきが広がる。だがリナリアは怯まず、まっすぐに高官を見据えていた。信徒たちが制止の声を上げかけたが、リナリアは片手を静かに上げ、ぴたりと沈めた。
「条件があります」
静かでありながら、凛と響く声。リナリアは一歩、前へと進み出た。陽光を浴び、薄紅の髪が風に揺れる。
「私を王に合わせてください。私は和解の使者として出頭します。その間、ここにいる者たちには一切手を出さないこと」
堂々たる言葉に、高官はしばし唖然とし、顔を引き締めた。だが反論の声を上げる前に、緊張の糸が切れたように、一部の冒険者たちが動き出した。
「小娘が……!」
叫びと共に、屈強な男がリナリアに掴みかかろうとする。けれど、その腕が届くよりも早く、周囲に控えていた白衣の信徒が一歩踏み出し、掌を掲げた。空気が一瞬震え、目に見えぬ力が放たれる。冒険者の体は弾かれるように宙を舞い、石畳に叩きつけられた。呻き声と共に広場に緊張が走り、他の冒険者たちも恐れに顔を引きつらせて後ずさった。
リナリアは一度だけ深く息を吸い、冷たく告げた。
「ここで争えば、あなたたち全員が死ぬことになります。私は、それを望まない」
息を呑んだような静けさが広がった。高官の額に冷たい汗が滲み、指先がかすかに震えていた。リナリアの背後に並び立つ白衣の信徒たち――ただの祈り手ではない、精霊と契りを結んだ守護者たち。その気配が、王国兵や冒険者たちを圧倒していた。
リナリアは一歩も引かず、再び問いかける。
「どうしますか?」
高官は震える唇を引き結び、苦しげに息を呑んだ末、搾り出すように答えた。
「……わ、わかった。……言うとおりにしよう」
硬直していた空気が、わずかに緩んだ。だが、リナリアの瞳に油断はなかった。彼女は一歩高官に近づき、静かな声で告げる。
「妙な行動は慎むように。王城まで、私たちと同行してください」
高官は目を見開き、狼狽えながらも、拒むことはできなかった。王国兵たちは殺気を露わにしていたが、誰ひとり剣を抜く者はいない。今ここで刃を交えれば、彼ら自身が死地に足を踏み入れることを本能で悟っていた。
リナリアは静かに振り返った。ルミナが、しっかりと彼女の後ろに立っている。クラウスが無言で頷き、ジークは腰の剣に手をかけながらも、わずかに微笑んだ。白衣の信徒たちが、彼女を囲むように進み出る。
リナリアは、小さく息を整えた。逃げる道ではない。自ら歩み出すための一歩。
静かなる覚悟を胸に――リナリアは王城への道を歩き始めた。




