第六十一話 信仰の狭間で
午後、光の角度が変わり、礼拝場の薄布を越えて落ちる陽光が、静かに色を変え始めていた。天幕の中は湿った砂の匂いと、微かな祈りの声に満ちている。昼を過ぎてもなお、この地に漂う緊張は解けることなく、空気は見えない糸で張りつめていた。リナリアは、祈りを捧げる信徒たちの輪の外れで、肩を小さくすぼめるように座っていた。足元には乾いた砂が溜まり、壁際には布に包まれた小さな祈祷の壇が置かれている。周囲には、希望と信仰に満ちた無数の眼差しが注がれていた。痛みも、疑いもない。ただ、無垢なまでの祈り。希望に満ちた目。自らを投げ出す覚悟を秘めた光。彼らの敬虔な熱が、まるで見えない布のようにリナリアを包み込み、そっと、けれど確かに彼女の心を揺らしていた。
ルミナは音もなく隣に歩み寄り、リナリアの手をしっかりと握った。彼女の眼差しは周囲を鋭く見回し、わずかでも危険の兆しを見逃すまいと警戒していた。小さな体でありながら、そこには確かな覚悟があった。リナリアはルミナの温もりと、掌に込められた無言の誓いを感じながら、今朝、広場で見た破壊の光景を思い返していた。焦げた布、転がった器、泣き叫ぶ子どもたち。あの時、自分には何もできなかった。それでも、この人々は、自分に祈りを捧げている。彼らの視線の中に、リナリアは自身の輪郭を失いそうになる。心の輪郭が、見えない手で押しつぶされるよう。ここにいるべき理由も、応えるべき力も、どこかに置き忘れてきたような気がした。
礼拝場の外では、クラウスとジークが控えていた。布越しに射し込む陽光が、二人の輪郭を朧に照らしている。クラウスは腕を組み、礼拝場の光景を静かに見据えた。その眼差しは、冷徹というより、ただ事実を焼き付けるような静かな熱を帯びていた。彼は信徒たちの祈りの言葉を静かに聞き取りながら、その誠実さが、理屈では説明できない力を持つことを、否応なく認めざるを得なかった。単なる狂信ではない。そこには確かな信仰と、絶望を越えようとする意志があった。
ジークは無言のまま壁に凭れかかり、長く息を吐いた。軽口を叩くでもなく、ただ、広間を満たす静謐な空気に、己の胸の奥を晒すように。
「……あいつら、本気で信じてるんだな」
ぽつりと漏れた声は、驚きでも侮りでもない。どこか、羨望に似た色を帯びていた。クラウスは傍らに立ち、組んだ腕を解かずにゆっくりと答えた。
「ああ……理屈じゃない。たぶん、何百年、何千年もこうして祈りを続けてきた連中なんだろう」
声に微かな迷いが混じる。信仰とは遠い存在だった自分が、今、心のどこかで彼らに引き寄せられているのを否応なく感じていた。ジークはゆっくりと頭を後ろに傾け、低く笑った。けれどそれは嘲りではなく、自嘲に近い響き。
「俺みてぇなもんが言うのもなんだがよ。血にドラゴンを宿した俺も、半ば伝説みたいなもんだ。それでもな、こうして目ェ開いて見てりゃ、思うんだよ。……伝説ってのは、どっかにちゃんと生きてるってな。精霊も、こいつらも、……たぶん、嘘じゃねえ。」
自分の腕に宿る熱を、まるで確かめるかのように、ジークは手を握りしめた。彼の目は広間の奥、祈りを受け止めるリナリアの小さな背中を見つめていた。その背に向ける視線は、もはや疑いではない。祈るように、ただ静かに――。
クラウスもまた、彼女の姿を見つめていた。リナリアはひとり、光の中に座っている。その身に託された願いの重さは、もはや少女一人が抱えるにはあまりにも大きすぎた。
彼女を救いたい。助けたい。そばにありたい――。そう願っていた自分の想いが、今は酷く遠く感じられた。まるで手を伸ばした瞬間、彼女を傷つけてしまうかのような、そんな怖さがあった。
彼女は、ただ守られるべき存在ではない。誰よりも祈られ、誰よりも重い使命を、その背に負っている。自分などでは、その肩に触れることすら許されないのかもしれない。胸の奥で鈍く疼く想いを、クラウスは苦く呑み込んだ。かつて旅路の途中、何気なく交わした微笑みや言葉が、今はまるで手の届かない遠い光景のように思えた。
彼女が歩もうとしている道に、自分はどこまで並び立てるのだろうか。それを問うには、クラウス自身があまりにも臆病だ。
白衣を纏った一人の年配の信徒が、静かにリナリアに近づいた。布の擦れるかすかな音。誰もが祈りの声を落とし、静寂が広がる。
男は、リナリアの前に膝を折った。高い身長を縮め、リナリアの目の高さに合わせると、静かに、温かく、しかし決して押しつけではない声で語りかけた。
「あなたは、我らの光です。道標です。あなたがこの地に降り立ったのは、私たちの祈りが、巡りの環を揺らしたからだと、信じています」
リナリアは信徒の言葉を静かに聞きながら、その胸の奥に微かなざわめきを感じていた。彼らの祈り、その純粋さは疑う余地がない。だが、だからこそ、胸に湧き上がる違和感を無視することはできなかった。
リナリアはそっと顔を上げ、まっすぐに男を見た。声は低く、しかしはっきりとした意志を帯びていた。
「……なぜ、あなたたちは、あのような力を持っているのですか?」
問いかけた瞬間、空気が張りつめる。ナツキ・ハルヤの件を問うのではない。彼を討った理由は理解している。信徒たちにとって、それは信仰に対する冒涜への応答だった。リナリアが知りたかったのは、その行使された力の根源。なぜ、この地上に、かくも静かで、だが確かな破壊をもたらす力が彼らに宿っているのか。
男は一度だけ目を伏せ、やがてリナリアの瞳をまっすぐに見つめ返した。答えは、ためらいなく、しかし重みを持って紡がれた。
「我らの血脈は、遥かな古に遡ります。精霊より祝福を受け、この地を蝕む者たちから命を守るために選ばれた一族……それが我らの源です。かつて世界がまだ若く、混沌と秩序が交錯していた時代、我々はドラゴンそのものと対峙しました」
リナリアはその言葉を受け止める。ジークが壁際で微かに身じろぎした。自らの血脈に、否応なく重ねるものがあったのだろう。
「我らはすべてのドラゴンの血を忌み嫌うわけではありません。力は時に、世界を支え、時に世界を壊す。守るために剣を取る者と、欲望のために火を撒く者。違いは明らかだった。我らが斃してきたのは、後者です。暴威に身を染めた竜たち。そして、その爪痕から生まれた災厄を……」
男の声は静かだったが、そこに宿る痛みは隠しようもなかった。リナリアは小さく息を呑んだ。目の前の男は、誇りだけで語っているのではない。長い長い時の中で、背負わざるを得なかった犠牲と贖罪をも、静かにその身に纏っていた。
「精霊は我らを見捨てなかった。幾度も、命を賭して守り抜いた地に、精霊の加護は根を張った。それが、我らの力。精霊術の源流にあるものです。我らの技は、武ではない。命を守るための祈りそのもの……」
リナリアは、そっと目を伏せた。脳裏に浮かぶのは、星霧の森の光景。エリオーネが紡いだ精霊魔法の軌跡、そしてその奥に、師エリュシア・スィリュフェインが佇んでいた姿。あの森で、幾度となく体に染みつかせてきた祈りの感覚――生を守るために力を振るうこと、それが精霊との誓いであり、古より続く信仰の源流。
今、目の前にいる彼らの存在は、まさしくその延長線上。エリュシアが何千年もの時を越えて護り続けてきたもの。それが、この地に脈打っている。
リナリアの胸に、静かな確信が灯る。祈りは、ただ願うだけのものではない。剣にもなりうる。命を、土地を、世界そのものを守るために――。
「……俺も、信じたくなってきたぜ」
誰に向けるでもない独白。クラウスは静かにそれを聞き、ふと目を細めた。信仰とはただの迷信ではない。生きた力。精霊は遠いものではなく、確かにこの世界に在る。リナリアの存在が、何よりもそれを証明している。
そして、クラウス自身もまた、リナリアの背負うものの重さに、気づき始めていた。彼女はただの少女ではない。希望の象徴であり、祈りの結晶であり、この世界に生きる者たちの願いそのものだった。
――自分は、彼女に触れることすら、許されないかもしれない。
その思いは、痛みを伴いながら、静かに胸に根を張り始めていた。




