第六話 囁きの届かぬ耳
春の兆しが、森の空気に柔らかな温もりを運んでいた。外の風はまだ肌寒く、枝の先には名残惜しげな雪がかすかに残っている。それでも、エリオーネの家の中には、冬の冷たさはすっかり消え去っていた。
リビングの暖炉には火が灯され、天井から吊るされた乾燥ハーブがかすかに香る。窓辺には淡い光が差し込み、繊細な妖精たちが戯れるように舞っていた。小さな羽根を震わせながら、カーテンの縁にしがみついたり、棚の上の瓶をちょんちょんと突いて遊んでいる。
ソファに腰をかけ、フェレリエルはふわふわのクッションに埋もれて伸びをした。彼女の足元にはモフモフのルームスリッパが転がっている。いつもの森歩き用のローブではなく、ゆるやかなコットンの部屋着を纏い、赤銅色の髪は肩の少し上で緩く結われていた。頬にかかるカールを指でくるくると弄びながら、隣に座るリナリアに目を向ける。
「ねぇリナリア、もう少しリラックスしたら?」
リナリアはソファの端にちょこんと座り、フェレリエルの言葉に反応することなく、ぼんやりと妖精の姿を眺めていた。彼女の格好も、普段の冒険者めいた装いとは違う。ピンク色のモフモフのショートパンツに、半袖のルームウェア。くせのある髪をポニーテールにまとめ、普段よりも幼く見えた。
妖精たちは無邪気にリビングを飛び回っている。テーブルの上をふわりと横切るたび、そこに微かなきらめきが残る。しかし、リナリアにはそれがただの光のちらつきにしか見えなかった。
——聞こえない。
彼女は膝を抱え、唇を噛んだ。
エリオーネには、妖精の囁きが聞こえる。フェレリエルにも、それは当たり前のように感じ取れるらしい。けれど、リナリアには、ただの風のざわめきにしか思えなかった。
「……リナリア?」
フェレリエルが怪訝そうに顔を覗き込むと、リナリアは小さく肩を竦めた。「別に……」と呟くものの、表情にはどこか不安が滲んでいる。その様子を見て、フェレリエルは少し考え込む素振りを見せた。そして、突然「わかった!」と手を叩き、得意げな顔になる。
「なるほどね〜、これはきっとあれだわ!」
「……何が?」
「リナリアが妖精たちと仲良くなれない理由よ!」
「……! 本当⁉ 何なの?」
リナリアが食いつくと、フェレリエルはしれっと笑った。
「それはね〜……リナリアが妖精に『飽きられてる』のよ!」
「は⁉」
フェレリエルは大真面目な顔で続ける。
「ほら、妖精って、面白いものが好きでしょ? でもリナリアっていつも真面目に考えすぎるから、妖精たちが『あ、この子ちょっとつまんないかも』って思ってるんじゃない?」
「ちょ、ちょっと待って! そんなわけないでしょ⁉」
「だって、妖精って楽しいことが好きなのよ? もっと適当に、何も考えずに遊ばなきゃ!」
フェレリエルはそう言うと、ソファの上に寝転がり、近くを飛んでいた妖精に手を伸ばした。ひらひらと漂っていた妖精が彼女の指先に降り立つと、フェレリエルはくすくすと笑いながら小声で何かを囁いた。次の瞬間、妖精はぱっと飛び立ち、リナリアの頬をつんつんと突いて逃げた。
「……⁉」
驚くリナリアを見て、フェレリエルは「ほらね!」と笑う。
「妖精たちと仲良くなりたいなら、もっと肩の力を抜かなくちゃ!」
「そんな、急に言われても……」
リナリアは困惑しながらも、頬をつつかれた感触をぼんやりと指でなぞった。彼女が何かを考え込もうとしたその時、ふっと柔らかな声が響いた。
「フェレリエル、からかうのはほどほどにしておきなさい」
振り向くと、エリオーネが静かに彼女たちを見つめていた。彼女の長い銀白の髪は、細やかな三つ編みに束ねられ、その一本一本が月光を孕んだ絹糸のように滑らか。肩から流れる髪の輝きが、穏やかな微笑みとともに優雅な気配を纏わせている。
淡い緑のローブは、柔らかくしなやかに身体の曲線に沿いながら流れ、その胸元には母なる大地の恵みを思わせる豊かな膨らみがふんわりと包まれていた。たっぷりとした胸元の布地が微かに張り、彼女の動きに合わせてわずかに揺れる。腰回りの布地は、なだらかな曲線を美しく縁取り、ローブの下でしっかりとした丸みを帯びた尻が存在感を放っている。それはまるで、豊穣を象徴する女神像のよう。
——フェレリエルは、その姿を睨みつけた。
「……またそんな格好して……」
呟くように言いながら、彼女は目を細める。明らかに、自分たちの前で無防備に女神然と佇むエリオーネの姿に、心の奥で何かを感じている。その長身に、堂々とした存在感。たとえ質素なローブを纏っていても、隠しきれない成熟した肢体。その姿はまるで、フェレリエルが勝負の土俵にすら立てないような、圧倒的な差を見せつけている。
「……なによ、何も考えてないくせに……」
フェレリエルは小さく口を尖らせる。まるで、神々しい美を前にした少女が、わずかな嫉妬を滲ませるように。
——一方で、リナリアはぼんやりと自分の胸を見下ろした。
彼女のルームウェアの襟元から覗く鎖骨は細く、まだ幼さの残る身体つきをしている。胸元にそっと手を当て、ほんの少し押してみる。……ぷに、とわずかに沈むが、それ以上の変化はない。
——あれ、これ……いつか、あんなふうになるのかな?
エリオーネのたわわな胸を、ちらりと盗み見る。
『……いや、さすがに無理じゃない?』
再び自分の胸に視線を落とし、そっと手を当てる。その小さな掌の中で、何かが変わる予兆が感じられるわけでもない。ただ、そこにはあまりにも圧倒的な差があった。まるで、神話の女神と、自分のようなまだ未熟な子供の違いのように。
「……お茶にしましょう。」
エリオーネの声音は、温かくもどこか包み込むような響きを帯びていた。彼女が優雅な所作で木のトレーをテーブルに置くと、そこから湯気が立ち昇り、芳しいハーブの香りが空間に広がる。フェレリエルはその姿にまた何か言いたげな顔をしたが、結局は黙ってカップを手に取った。
——そうして、春の暖かさが少しずつ部屋に満ちていく中、三人は静かにハーブティーを味わう。リビングに心地よい香りが満ちた。リナリアは、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、視線を落とした。
「……私、ちゃんと聞こえるようになるのかな」
思わず零れた言葉に、エリオーネは微笑んだ。
「もちろんよ。あなたが焦らなければ、きっとね」
フェレリエルは隣でお茶をすすりながら、「焦るのが一番よくないのよねぇ」と適当に相槌を打つ。リナリアは湯気の立つカップを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。妖精たちは今も、ふわふわと宙を舞っている。彼女はそっと目を閉じた。
今はまだ聞こえなくても。きっと、いつか——。