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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第四章 仮初の女神、偽りの世界

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第五十九話 精霊信仰の声明

 夜の帳が王都オルセリアを包み始めた頃、東端の通りでは住民たちの手で王国兵士たちがじわじわと西へと押し戻されている。粗末な木材や石材が次々と運び込まれ、急ごしらえのバリケードが街道を塞ぐ。その前に並び立つ白き法衣の一団は、手に杖を携え、(かぜ)にたなびく衣の裾の奥に短剣や護符を隠し持ち、ただの信仰者ではない緊張感を(まと)っていた。

 その目は夜の闇を射抜くように鋭く、街路の奥を睨む。祈りの言葉も、平和を願う動作もない。ただ、沈黙の中に研ぎ澄まされた意志がある。王国兵の一団は距離を取り、命令を待っている。何かが起これば、その場の空気が即座に崩れ去る――そんな予感が、誰の呼吸にも張りついていた。

 もはや王の(めい)も、聖職者の声も届かぬ場所。都市の境界は、信仰と恐怖の線で切り取られ、そこを越える者は誰もいない。その線の両端で、それぞれの正しさが膨張を始めていた。

 その頃、公会堂前の広場では夜の炊き出しが始まり、青緑の法衣を纏った信徒たちが、湯気立つ大鍋(おおなべ)を囲んでいた。干からびたスープと硬いパン、それでも飢えた人々にとっては十分な救いだ。子供たちは列をなし、痩せた手がそっと差し出される。言葉も笑顔もない。ただ、生き延びるための沈黙の列。

 群衆の端に紛れるように、リナリアとルミナの姿があった。深く(かぶ)ったフードの下、どこか沈んだ眼差しで人々を見つめていたが、そのとき――


「お母さん、どこ?」


 湯気の向こうから震える声が漏れた。リナリアがゆるやかに振り返る。泥にまみれた小さな少女がいた。裸足の足は傷だらけで、両手をさまよわせながら、人波に呑まれそうになっている。リナリアは迷うことなく歩み寄る。膝を折り、目の高さを合わせ、無言で手を差し出す。少女の瞳が揺れ、その細い指が彼女の手に触れたとき、肌を撫でる風が一つ、列の隙間をすり抜けた。


「……こっちに、来て」


 リナリアの囁きに導かれ、少女はそっと頷いた。その手を引き、彼女は人の列を縫って歩き出す。ルミナは一言も発せず、後に続いた。もう、問いかける必要はなかった。

 配膳場の鍋の(そば)に立っていた若い信徒が、その動きに気づいた。リナリアの左手首――そこに繋がれた、淡く青く輝くブレスレットに目をとめたとき、彼の表情が変わる。星霧(せいむ)の森の民の証。それは信徒たちにとって、ただの装飾品ではない。


「北の……ご出身ですね?」


 彼の声には、敬意と畏れがあった。リナリアは答えず、ただひとつ、小さく頷いた。それだけで、青年の態度は静かに変わる。声を潜め、丁寧に頭を下げた。


「お力添えを……お願いできませんか? 子供たちが、待っているのです」


 リナリアは迷うことなく、手を差し出した。器を受け取り、スープを注ぎはじめる。森の供宴のように静かで、澄んだ所作だった。ルミナもパンを手に取り、配りはじめる。

 その直後、列の奥で声が上がった。少女の母が、涙ながらに駆け寄ってきた。少女は抱きしめられ、何かを囁かれる。その目がリナリアを見つめ、小さな微笑を浮かべた。

 その時、クラウスとジークは群衆の向こうで立ち尽くしていた。人波に飲まれた彼女の姿が、もうどこにも見えない。


「どこに行ったんだ?」


 ジークの呟きに、クラウスは返答を返さなかった。ただ、どこかで何かが変わり始めたという感覚が、喉元に冷たく触れていた。



 広場中央には、白い法衣を(まと)った一人の信徒が静かに進み出ていた。年配の男――銀白の髪を背に束ね、その歩みはゆるやかでありながらも、踏みしめる音には確かな意志の重みがある。広場の灯が彼を照らすと、ざわついていた人々の声が、徐々に鎮まりはじめた。

 男は石畳の中心で立ち止まり、深く一礼すると、顔を上げた。目を閉じることなく、眼差しを真っ直ぐに群衆に向ける。


「皆さん」


 その声は朗々としていたが、押しつける力はなかった。むしろ風のように柔らかく、胸の奥に届くほどには強かった。


「百年です――私たちは、百年も耐えてきたのです」


 最初の言葉に、静寂が深まる。男の声は続く。ゆっくりと、そして止まることなく。


「王も、冒険者も、何も変えられなかった。アンデッドは増え続け、街は朽ち、家は奪われ、家族は引き裂かれた。この広場に集う皆さんの姿こそが、その証です」


 硬く握られた拳。抱えられた赤子。うずくまる老人。誰かが嗚咽を漏らし、それが波紋のように広がっていく。


「それなのに――この王都は、どうでしょうか」


 男の語調が変わる。穏やかな熱を帯び、群衆に向けて歩み出す。


「塔の影に隠れた貴族たちは贅を尽くし、酒場は笑い声で満ち、冒険者たちは豪奢な宿で金と栄誉に酔っている。討伐という名のもとに外へ出かけ、アンデッドを狩り、報酬を得ては暮らしを肥やしている」


 その言葉が鋭く落ちると、群衆の間にあった沈黙がざわめきへと変わっていった。


「だが私たちは? なぜ、同じこの地に生きながら、家を焼かれ、命を喪い、帰る場所を持たぬままにされるのでしょう。私たちに、富は回ってこない。信仰も、保護も、ただ与えられる言葉だけが空を舞う」


 (いか)りではなく、悲しみが滲んだ声。それゆえに重く、静かに染みていく。


星霧(せいむ)の森では、銀樹の子が(くだ)られたと聞いています。帝国でさえあの森を屈服させることはできなかった。なぜか――そこには、信仰があったからです。魂の循環と、祈りの根が、精霊の力と共にあったからです」


 男はゆっくりと、胸に手を置く。


「私の母は星霧せいむの森の里の出身です。祖父の葬儀の折、私はリナリアという少女と出会いました。薄紅の髪を持ち、静かに祈る姿はいまも目に焼き付いています。母は言いました。あの子こそ、魂の道を知る守人(もりびと)だったと」


 深く息を吸い、語調をさらに低く、静かに、確信と共に告げる。


「そして今、そのリナリアがこの街にいるのです。それは偶然ではない。巡りの環の導きであり、我らが試されているのです。祈ってください。銀樹の子に――我らの中に宿った希望に」


 男が言い終えると、広場全体が音を失い、人々はただ、ひとつの存在を思った。

 リナリアはそのときも群衆の中にいた。湯気立つ鍋に向き合いながら、器を差し出していた。声はすべて耳に届いていたが、彼女は顔を上げず、ただ静かに配給を続けていた。フードの奥、表情は波ひとつない湖面のように揺れていた。男の姿を見ることはなかったが、その声のひとつひとつを心で拾い上げ、(うち)に染み込ませていた。

 その声に応えるでも、拒むでもない。彼女の両手は静かに動き続けていた。パンを渡し、湯を注ぎ、(つぎ)の人へと器を差し出す。動きは決して乱れない。

 その瞳の奥には、使命のような光が芽吹いていた。それは「導く」という選択を、まだ言葉にはしないまま、ひたすら胸の内で抱き続ける感情。救いたいわけではない。ただ、手を差し伸べるのをやめられない。そんな衝動の静かな炎が、夜の灯火と共鳴するように、じっと、確かに燃えていた。

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