第五十八話 アンデッドの兆候
朝、灰色の光が王都オルセリアの屋根の上を這いながら染めていく。喪が明けたはずの街には、なおも沈黙が染みついている。片付けられたはずの花の香りは、かすかに残り、街に死の湿り気を染み込ませてるように思えた。
リナリアは宿の窓辺に腰を下ろし、曇りがちな朝の光を透かして、王都オルセリアの街並みに視線を投げていた。通りに立つ人々は喪服を脱ぎ日常の衣をまとっているが、その動きには未だ重さが残り、口元に力がなく、視線を交わすこともない。死者を悼む日々は終わったと告げられても、心のどこかに置き去りにされたままの感情が、誰の表情にも影を落としている。
けれど、リナリアが見ていたのは、そうした街の表面ではなかった。視線は建物の先、塔の陰、路地の奥にまで届いているようで、そこに広がる目に見えない空気を測っているようでもあった。目に映るもの以上に、肌を撫でる微かな違和感――精霊の気配ではない、異質な振動が、街に広がっているのを感じていた。
心をよぎったのは、星霧の森の記憶。あの森では、死を静かに見送る儀式があった。老いた人たちは目を閉じ、風の声を聞き、亡き者の名を低く唱える。それは誰のためでもない、ただ魂が土に還る道を照らすための祈り。
今、王都で信徒を名乗る者たちの動きは違う。彼らは祈りよりも先に言葉を掲げ、手を差し伸べるよりも先に誰かの名を口にする。ナツキ・ハルヤの命を奪ったあの時、そこに祈りは存在しなかった。ただ断罪のような呪言と、抵抗のない魂の断絶。それは還す力ではない。断ち切る力。
精霊の加護の名のもとに行われたものとは思えない。あれは原理――それも、純化されすぎた意志によって行使された行動。彼らが信仰という衣を纏っていても、その中にある熱は、リナリアの知るものとは違っていた。
そっと自分の手を重ねる。気がつけば、その掌の中にルミナの手があった。細く小さな手には安心が宿っているが、それを求める自分自身の指の動きが、何よりも恐れを物語っていた。
ナツキ・ハルヤの死が偶然であるとは思えない。リナリアの心は、彼女自身もまだ言葉にできない予感の中で、ゆっくりと輪郭を浮かべていくものを探していた。街が不安に揺れるよりも前に、彼女はもう、その中心にある何かに気付きかけていた。
「西の広場では王国兵が集会を開いているらしいわよ」
「東側じゃ信徒たちが炊き出しをしてるんだって。あの法衣の連中が、難民には救いの言葉を配ってるってさ」
そんな言葉が、宿の下の道を通る女たちの口から漏れていた。声は抑えられていたが、耳を澄ませば、街が裂け始めている音が聴こえた。街のどこかで、彼女という名の争いが始まっている。街の底に、何かが蠢く気配がした。リナリアの指先が、わずかに震えた。
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その頃、クラウスとジークは、市の東端にある公会堂前の石畳に並んで立っていた。広場には、王都の東から流れ込んできた難民たちが列を成し、埃と疲労にまみれた顔で信徒たちの施しを待っている。
法衣を纏った信徒たちは、パンと湯を手際よく配りながら、子供たちの掌に山百合の花弁をそっと載せていた。その白く細い花は、信仰と優しさの象徴にも見えたが、どこか祭儀的で、同時に選別の印のようにも感じられる。
「まるで、救世主の真似事だな」
ジークが低く呟いた声には、冷ややかな観察の色があった。
「真似事、ではないのかもしれない」
クラウスの目は遠くの信徒たちに向けられたまま。視線の奥には、ただの警戒以上に、複雑な揺らぎがあった。
「何が言いたい?」
「彼らが信じているのは精霊ではない。象徴だ。そして今、その象徴がこの街にいる。リナリアという名を持って、生きている」
ジークは短く鼻を鳴らした後、ふと横目でクラウスを見た。
「……お前は、それでいいのか?」
「何がだ?」
「嬢ちゃんが何者か――まだ、はっきりしてないんだろ?」
クラウスは一瞬だけ沈黙した。その視線は信徒たちの向こうにある空白を追いかけているようで、やがて小さく息を吐いた。
「……それでも、信じたいと思ってる。リナリアは俺に言ったんだ。『あなたのお父様と話がしたい』って。それはただの頼みじゃなかった。あの時の目は、真剣だった。だから俺は、約束を果たさなきゃいけない。彼女のために」
ジークはその言葉に、ちらりと横目をやった。視線は軽く、けれど深く届く。
心の奥を覗き込むように、まるで何も言わずに全てを見透かすような目。
「そう言いながら、目は手放す気がないって言ってたな」
クラウスは反論もせず、ただ笑った。
その笑みは肯定でも否定でもなく、まだ言葉にならない感情の断片。
「そうかもな。否定は、できない」
「まあ、俺もだけどな。嬢ちゃんがここで潰れるような真似は、見たくねぇ」
ジークは壁から背を離し、軽く肩をすくめて歩き出した。その背中を見送りながら、クラウスもまた目を伏せる。リナリアの背負っているもの、その正体。そして、彼女の隣に立ち続けたいという思い。それは研究の延長線ではないと、彼自身が一番よくわかっていた。
その時、角の向こうから騒がしい叫び声が上がった。振り返ると、大勢の人々が小道を埋め尽くすようにして歩いてきていた。老いた女、抱かれた赤子、壊れた荷車を押す男。その一団には焦燥と疲労の色が濃く、王国の東から逃れてきた難民であることは明らかだった。
「東方領から来たな。噂通り、アンデッドの侵攻が始まったか」
クラウスが呟いたとき、信徒たちがすぐに動き出した。まるで待っていたかのように、広場に幕を張り、湯と寝床を提供し始める。その中に、ひとりの若き信徒が立ち上がり、手を広げて語り始めた。
「見なさい。我らが信じる精霊は、恐れの夜に光を与える。銀樹の子は甦りの力を封じ、魂を鎮める存在。あの方こそ、巡りの環に祝福されし、真なる導き手である!」
彼の声に、疲弊した人々が次々に頷き始めた。
ジークは立ち止まり、黙ってその光景を見つめていた。そしてやがて、静かに唸るような声を漏らす。
「始まったな。信仰ってやつは、腹を満たすだけじゃ終わらない。あいつら、もう布教を始めやがった」
クラウスはその言葉を肯定するように小さく頷く。
「そしてこれは掌握だ。彼らは混乱のただ中に立って、新たな秩序を築こうとしている。祈りと慈悲を口にしながら、街全体を意志の下に繋ぎとめようとしている。まるで王都そのものを祭壇にしようとしているようだ」
ジークは応えず、クラウスの横顔に視線を向ける。彼の目は遠くを見ているようで、同時に心の奥にある何かを凝視しているようにも見えた。
「象徴としてか。あの嬢ちゃんを」
その言葉にクラウスははっきりと答えた。
「そう。彼らにとってリナリアはただの飾りだ。象徴のように崇めるくせに、彼女自身の声を聞こうとはしない。望まれるのは存在であって、意思じゃない。だけど……俺は彼女の意思が知りたい。彼女の言葉を、ちゃんと聞きたいんだ」
ジークはその言葉を受け取り、しばらく何も言わなかった。その沈黙には思慮があった。そして、ようやく口を開く。
「その手放す気がないって目が、奴らと同じなんだよ」
クラウスは返事をせず、かすかに口の端を上げただけだった。その笑みは否定でも肯定でもなく、自分でもまだ整理しきれない気持ちをそっと噛み締める。ジークもそれ以上追及はしない。ただ、ほんのわずかに肩の力を抜き、地面を軽く踏みしめた。
そのとき、石畳の向こう、西側の通りから王国兵の一団が姿を現した。武具を整えた兵士たちは整然とした列を組み、広場へと進み出る。眼差しは硬く、言葉の前に秩序の意志を突きつけていた。迎え撃つように、信徒側の先導者が立ち上がる。年若いが威厳を帯びた男で、法衣の襟を正しながら兵に歩み寄る。
「許可なき集会は禁じられている! 市民の不安を煽る行為とみなされれば、処罰の対象となる!」
呼びかける声に難民たちがざわめき、ひとり、ふたりと後退る。その中で、信徒の男は一歩も引かず、真っ直ぐに応じた。
「我々は精霊の声に従っている。混乱を招いているのは、正しさを拒むお前たちだ」
張り詰めた声の交差に、人の波がわずかにうねる。怒号と罵声、祈りの言葉、どれもが熱を帯びて混じり合い、広場の空気に不穏な熱気を孕ませていく。パンと湯が落とされ、花弁が地に散り、子供の泣き声が風にさらわれる。
ジークが一歩、後ずさる。
「クラウス、これ……もう止まらねぇぞ」
クラウスはまっすぐ前を見据えたまま、短く息を整えるように言った。
「ああ。都市そのものが、裂かれようとしている」
王都オルセリアは今、何かを選ぼうとしていた。誰を導き手とするのか、誰を信じ、誰に祈るか――それが問われていた。そして、それはもはや王や聖職者だけが決めるものではなく、ここにいる者たち、すべての視線と行動に委ねられ始めていた。




