第五十七話 騒乱の足音
陽炎に焼かれた午後の石畳の上で、王都オルセリアは静かに崩れ始めていた。
ナツキ・ハルヤの死から一日が経った。黒布を掲げた建物が広場に集い、商人たちは半ば強制的に店を閉じ、喪に服すよう命じられていた。喪服姿の兵士が街を巡回し、広場では大理石の台座が磨かれ、花弁がまかれ、銀製の剣がその中央に据えられていた。
それは葬儀の準備だが、静かな弔いというには程遠い――街の空気には火薬のような不穏さが充満していた。
「……奴を殺したのは、あの連中だ。あのエルフを崇める信徒たち」
「聞いたか? 銀樹の聖域の子に逆らえば、命を落とすって噂」
「ただの信徒が、転生者を殺せるなんて……何が起きたか説明してくれ」
商人が両腕で抱える木箱を落とし、青ざめた顔で拾い集める。冒険者たちは、広場脇の酒場で武具を手に押し黙り、革の鞘にゆっくりと指をかける。剣を抜く音はない。ただ、剣を抜く気配だけが、空気にしんしんと滲んでいた。
衛兵の列が葬儀の設営場を取り囲むように巡回していた。金属の靴音が石畳を打つたびに、街のざわめきが一瞬止まり、そして別の方向から膨れ上がる。
「銀樹の娘が、死者に裁きを下したって言ってたぞ」
「違う、あれは精霊の声を聞く巫女だ。いや、偽神の器って言ってた連中もいた……でも、そいつらの目は、何かを見た目をしてた」
言葉は通りを跳ね、拡散し、交錯し、やがて互いを否定し始める。正しさではなく、怒りを先に立たせる言葉が選ばれ始めていた。
広場から伸びる大通りには、数人の信徒の姿が確認された。彼らは簡素な青緑の法衣を纏っていた。その姿を見つけた少年が石を手に取ると、傍の母親が無言でその腕を掴んだ。その目は咎めではなく、むしろ共感の光を帯びていた。静かな憎しみは、騒乱の足音と共に確かに息を吹き始めていた。
その静かな憎しみの気配を、宿の窓辺から見下ろす者がいた。
リナリアは広場に面した宿の窓辺から、どこか遠いものを見るような眼差しで街の喧騒を眺めていた。どこかで子どもの泣き声が上がる。風がすり抜け、白いカーテンが空に泳ぐ。
「リナリア」
クラウスの声が後ろから響いた。
その声には、いつもの理知の冷静があった。だが、それ以上に、葛藤が滲んでいた。彼の隣には、腕を組んだまま寡黙に立つジークの姿がある。赤い瞳がどこか警戒を含んで細められていた。
「リナリア。……君は、本当に、ただの旅人か?」
リナリアは肩越しに微笑んだ。
「ただの旅人って言いたいところだけど。そうね、たしかに、話すべき時が来たのかもしれない」
ルミナがひとつ、心配そうに前に出ようとした。
「リナリア、言わなくていいよ」
「いいの。言わせて」
ルミナの小さな手を、リナリアはそっと握り締めた。その手には温もりがあり、しかし不思議な透明感もあった。まるで風のように、この世にあってこの世のものでないもの。
リナリアは窓から離れ、部屋の中心に歩を進める。
「私は、星霧の森の奥、銀樹の聖域で育ったわ。あそこは、精霊たちが眠る場所。言葉にすれば、そんなふうにしか言えないけど」
クラウスの目がかすかに見開かれる。
「銀樹の……聖域……?」
「うん。私はその地で、エルフと共に育てられた。……でも、私はエルフじゃない。普通の人間よ。正確には……その聖域で育てられた存在」
ジークが言葉を探すように眉をひそめる。
「つまり、あいつらが言っていた銀樹の聖域の子ってのは……」
「ある意味、正しいわ。ただし、私は象徴そのものではない。象徴に近しい何かとして見られているだけ。エリュシア・スィリュフェイン。彼女の近くにいただけの存在」
その名が空気に溶けるように響いたとき、クラウスがひとつ、乾いた息を吸い込んだ。
「エリュシア……まさか……」
彼は後ずさるように机に手をつき、そのまま、記憶の奥を呼び起こすように目を細めた。
「帝国魔法学校に、古くから語られていた伝説がある。銀樹の聖域に住むエルフのドルイドに辿り着いた二人の天才――彼らは卒業と同時に忽然と姿を消し、以後、外界に戻らなかった。そのエルフのドルイドの名がエリュシアといったか」
リナリアは黙って彼を見つめていた。
「そして、その卒業生の名は……フェリオラ・ウィンスレットと、エリオーネ・ルヴェリエ」
クラウスの声音が震えた。思考の光が、一点に集約されていく。
「リナリア。君が帝国魔法学校の図書館で読んでいた本。あれの著者が、そのフェリオラだった。それに父も彼女の研究を追っていたんだ。俺は、今まで、なぜ気づかなかったんだ」
クラウスは頭を抱え、ひとつ小さく笑った。焦燥と驚きが混じった、ほとんど呆れにも似た笑み。
リナリアは静かに言った。
「気づかなかったんじゃない」
リナリアはクラウスの目を見つめる。
「ただ、まだ繋がってなかっただけよ、クラウス」
その声は、光の粒が揺れるような静けさを持っていた。
「人の記憶って、意外と散らかってる。私、記憶って苦手で。……でも、香りとか音とか、そういうのが先に来るの。たぶん、頭じゃなくて感覚で動いてるっていうか――うん、そんな感じ」
ルミナがくすっと笑った。
クラウスは深く息を吐くと、ひとつ真っ直ぐにリナリアを見た。
「つまり、君はあの二人の伝説と、父の研究と、そしてエルフの信仰と、全てが繋がる何かなんだな」
「その何かを探してる途中、かな」
リナリアはゆっくりと、まるで心の奥に続く扉をそっと開けるように、クラウスの瞳をのぞき込む。
宿の窓の外、遠くから聞こえてきたのは、葬儀の鈴の音に混じる、不穏なささやき――怒声になりきらない声が、だんだんと街の輪郭を塗り替えようとしていた。けれど、その中心に立つ者の姿は、誰よりも静かで透明で、そして確かに語るべき物語を背負っていた。
――それが、リナリアという存在の、最初の輪郭であった。




