第五十五話 静かな誓い
村の空には、初夏の夕焼けが柔らかく広がっていた。遠くの山影が紫に沈み、あぜ道の草むらからは小さな虫の声がかすかに響く。風は温く、昼の熱を含んだ石畳にゆるやかな陰影を落としながら、リナリアたちは宿の前へと歩みを進めていた。旅の疲れが足取りに現れていたが、それでも誰の顔にも満足げな色が浮かんでいる。
この名もなき村は、ローゼン帝国とオルセリア王国を結ぶ交易路の要所に位置していた。夕暮れ時の広場には、幌馬車を囲んで談笑する商人たちや、焚き火を囲む旅人の姿が見受けられる。宿の前では、荷を積み下ろす音や、馬のいななきが交錯し、宿の前だけが活気があった。
宿の灯りに包まれた玄関をくぐると、漂ってきたのは煮込み料理と焼きたてのパンの香り。温かい匂いが彼らを迎え入れた。
一階の食堂では、丸太を組んだ長いテーブルの傍で商隊長が腰を下ろし、向かいに座る王国の役人、ユルゲン・オステンと何やら話し込んでいた。すでに何杯か酌み交わしたのだろう、湯気の立つ酒椀と皿が並び、二人の表情には疲労と緊張の色が見える。
リナリアたちが扉をくぐると、商隊長の目がぴたりとこちらを捉えた。開いた扉から差し込む光に浮かぶ彼女たちの姿を見て、彼の口元がふっと緩む。
「おお……お前たち、無事だったか!」
椅子を引いて立ち上がると、がっしりとした腕を広げて手招いた。その重い声には、言葉以上の安堵が込められていた。
「こちらへ来い。話を聞かせてくれ」
その声に、宿を手伝う娘が厨房の奥へ駆けていく。「酒と椀を!」という商隊長の言葉に、湯気立つ陶器と茶色い酒瓶が次々と並べられた。
食卓を囲む六人。クラウスは淡々と、しかし敬意をもって調査の経緯を語った。オルセリア王国の調査隊が殉職したこと、ローゼン帝国側も大きな損害を受けていたこと、そして最深部の遺物――召喚核はローゼン帝国魔導士団のエルガ・ヴァルトによって回収されたこと。
言葉の端々に慎重さがにじむ中、ユルゲンは深くうなずいていた。肩の力が抜け、目を伏せる。
「そうか……やはり、戻らなかったか……」
彼の声は低く、苦渋を噛み殺すような響きを持っていた。胸の奥に残された願いが、静かに沈んでいく声。
「ご苦労をかけた。君たちの働きは……正当に評価されるべきだ」
ユルゲンは小さな革の袋を差し出した。シャリン、と金貨の触れる音が夜気に溶ける。それを受け取り、重みを手のひらで確かめる。
「これで依頼は正式に完了だ。王国の記録にも、帝国の記録にも、君たちの名は残ることになるだろうな」
リナリアはその言葉に小さく頷きながら、革袋の中身をそっと指先で確かめた。金貨の冷たい感触が指先に触れるたび、これでしばらくは安心できる――そんな実感が、指先から心に染みてくる。
「ありがとうございます。私たちも、長い旅でしたから。収入を得られたのは、正直、ありがたいです」
笑顔ではなく、真摯な語り口。旅を続ける者としての実感がその一言に滲んでいた。
金貨の入った革袋が静かに卓上に置かれ、話が一区切りついたところで、ユルゲンがふとカップを手に取りながら尋ねる。
「ところで……旅と言っていたが、君たちはどちらを目指している?」
その問いに被せるように、商隊長が肩を揺らしながら口を開いた。
「俺も気になってたんだ。嬢ちゃん、あんたら、いったいどこから来たんだい?帝都の出って身なりじゃねぇしな」
その言葉に、クラウスが横から割って入るように答えた。
「俺たち、このまま王国を抜けて、ヴェルンハイム共和国へ向かうつもりです」
言葉に迷いはなかったが、その響きには遠くを見つめるような静けさがあった。ユルゲンの眉がぴくりと動き、商隊長もカップを手にしたまま固まった。
「ヴェルンハイム……だと?」
ユルゲンが低く呟く。重たい空気が一気に流れ込む。
「あそこは、もう……地図の上でしか存在していないとすら言われている。木も、街道も、ただの記号になりつつある場所だ」
商隊長が重々しく言葉を継ぐ。
「知ってるか?あの辺りじゃ、もう三年も木材が出荷されてねぇ。行き来してた商人たちも、戻らなくなった。俺の仲間も何人か、あそこを目指して……」
言葉を濁す商隊長の横で、クラウスが椅子に身を乗り出した。
「俺は、ヴェルンハイムの出身です。事情があって、どうしても戻らなければならない」
静かながら、決意のこもった声だった。ユルゲンが少し黙してから、カップを置く。
「共和国は、王国とも帝国とも距離を置いていたが……この数年で状況は変わった。共和国の復興に冒険者を雇っては、アンデッド討伐を試みている。だが、成果は乏しい」
「報酬は出るぞ。君たちのような実力のある冒険者なら、仕事は引く手あまただろう」
けれど、と彼は視線を下げ、焚き火の揺らめきを見つめた。
「……私は関心しない。報酬に釣られて多くが行ったが、帰ってこなかった者も多い。希望と絶望の見分けもつかないまま、消えていった連中もいる」
沈黙が落ちた。その中で、クラウスがゆっくりと口を開いた。
「俺たちがヴェルンハイムへ向かうのは、報酬のためではありません」
言葉の端に、迷いはなかった。ただ、慎重に選ばれた響きがあった。
「父を探しているのです。グレイフ・ヴァルトシュタインという名に、心当たりはありませんか?」
その名を聞いたユルゲンの表情が一瞬だけ曇る。目を細め、ゆっくりと息を吐いた。
「ヴァルトシュタイン、か。懐かしい名前だな。確かに、王国でも一時その名は幾度も報告書に載っていた。だが、ここ数年はまったく記録にない」
少しの沈黙のあと、彼はまっすぐにクラウスを見た。
「君が彼の息子ならばなおさら、足を踏み入れる覚悟を問わなければならない。あの地は……すでに、常識の通じない場所になっている」
それでも、とクラウスは言葉にせず頷く。たとえ帰らぬ場所であっても、彼の答えは変わらない。
そして再び、静寂が場を包む。その静けさを破ったのは、ジークだった。肩をすくめ、空になったコップをテーブルに置きながら、ぼそりと呟く。
「遺跡だって、常識が通じる場所じゃなかった」
誰にというわけでもなく、けれど確かに届くような声だった。
「でも俺たちは、帰ってきた。あの深淵からな。次も、きっと戻ってこれるさ」
そう言って、隣に座るリナリアとルミナへと視線を向ける。その目には、決して軽くない確信が宿っていた。リナリアは頷いた。言葉にせず、ただ静かに。けれどその仕草は、ジークの言葉に応えるには十分だった。ルミナもまた、小さく微笑みながらうなずく。
ユルゲンはそのやり取りを、静かに見つめていた。杯を口に運ぶこともなく、視線を逸らすこともせず。
――エルガ・ヴァルト。王国と帝国をまたにかけた、かつての才覚と危うさを持つ女。そしてその女と行動を共にした冒険者たちが、今こうして、自らの意志で危険の地へ向かおうとしている。
何かが、ただの偶然ではないと告げている。
「君たちの名前を、記憶しておくよ。いつかまた、王国で語られることがあるかもしれない」
小さく、けれど確かにユルゲンは呟く。記録ではなく、記憶に刻むように。名もなき村の、ありふれた夕餉の席に灯った、小さな決意と誓いの残響を。焚き火の影が、再び静かに揺れた。




