第五十四話 揺れる湯気の向こうで
カサリ、と静かに布の擦れる音がした。
それに反応したのは、ルミナだった。ぴくりと耳を動かし、すぐに目を向ける。リナリアも、彼女の視線を追ってそっと振り返った。
「精霊がどうした、って?」
寝台の上、ジークが片眉を上げながら、ぼんやりとした声で呟いた。まぶたの隙間から覗く目はまだ朧げだったが、確かに意識は戻っていた。
「ジーク!」
ルミナがわずかに声を震わせて駆け寄る。リナリアも続いて歩み寄り、寝台のそばに膝をついた。クラウスも無言で立ち上がり、様子を確認するように傍に寄る。
「悪いな、俺ばっか寝ちまって。何か、やばい夢でも見てた気がするけど、もういい。生きてるみたいだしな」
ジークはゆっくりと身を起こし、枕元の布を手繰り寄せて背を支える。頭が重いのか、しばし目を閉じて呼吸を整えた。
その静けさの中、腹の底から鳴り響く音が、どこか間の抜けた響きを残す。
「ぐぅぅうう」
ジークが目を伏せ、気まずそうに頭をかく。リナリアが目を瞬かせたあと、小さく吹き出す。
「そういえば、朝から何も食べてなかったね」
そう言って、傍らに置いた荷袋をごそごそと探り始める。
「よかった。ちゃんと作ってたの、忘れてたわ」
紙に包まれたサンドイッチを取り出し、ジークに差し出す。
「ほら、食べて。出来立てじゃないけど、まだ風味は残ってるはずよ」
ジークは目を細め、口元に笑みを浮かべる。
「まじか。何も考えてねぇようで、ちゃんと考えてやがる。いい嫁さんになりそうだぜ」
そう呟いて、包み紙を器用に剥がしながらかぶりつく。その様子を見て、ルミナが両手を胸の前に合わせてほほ笑む。
「ねえ、私もお腹すいちゃった……」
「もちろん。ルミナの分もあるよ」
もうひとつ包みを手渡し、さらにもう一つをクラウスの前へ差し出したところで、クラウスは目を逸らしながら、何かを探すようにテントの隅に目を向けた。
「なあ、みんな。お茶でも飲みたくないか?」
「クラウス、お茶持ってるの?」
「あれを見てくれ」
指さした先、テントの隅には魔導式の簡易加熱装置と、封のされた水のボトルが並んでいた。小さな箱に『補給支給・帝国軍需補佐部』と刻印され、お茶の葉も置かれている。
「さすが帝国。こういう装備、妙に整ってるんだよな」
呆れたように、それでも感心した様子でクラウスは近づき、水を注いで加熱を始める。淡い青い魔力光がケトルを照らし、内部からゆっくりと湯気が立ちのぼる。
ルミナが思わず目を丸くして、長い耳を立せる。
「宿泊所でもこんなのないよ!」
クラウスは紙コップを取り出し、茶葉パックをひとつずつ落としていく。
「文明の利器ってやつさ。こういうところだけは、実に抜かりないな、帝国は」
湯気にのって、ほんのりとした茶の香りが漂う。遺跡の深奥での緊張がほどけるように、テントの中に静かなぬくもりが満ちていく。
「この依頼、わりといい額だったわよね」
コップを両手で包みながら、リナリアがぽつりとこぼす。淡い湯気が頬にかかり、瞳がふわりと和らぐ。
「助かるわ、ほんとに。家を出てからというもの、出費ばっかりで」
「え、それって……今、残りどれくらいあるの?」
すぐ隣で聞いていたルミナが、心配そうに身を乗り出して問いかける。その表情には、無邪気さと切実さがないまぜになっていた。
「まあ、まだ、なんとかなるって信じたいけど」
リナリアが苦笑いを浮かべる。
「ジークにも、用心棒代ちゃんと払わなきゃね」
すると、サンドイッチを頬張っていたジークがモゴモゴと口を動かしながら片手を上げた。
「んー。飯と寝床、それで十分だろ?」
「甘えないで。これからもまだ旅は続くんだから、お金はきっちりしないと」
リナリアは肩をすくめながらも、どこか頼もしく笑う。その口調に浮ついた様子はなく、旅路の現実を静かに見据える眼差しがあった。クラウスは少し離れた場所で湯を注ぎ終えた紙コップを手に、そんなやりとりを静かに見守っていた。
そして、ふとジークが口元を拭きながら、リナリアに視線を向けてぼそりと呟く。
「……ほんと、何も考えてないようで、しっかり考えてやがる」
ジークはサンドイッチの最後の一口を頬張りながら、ちらりとクラウスへ視線を向ける。
「おい、クラウス。おまえ、よかったな。こんなお嬢ちゃん、そうそういねぇぞ?」
唐突なその言葉に、クラウスの手がぴたりと止まった。ちょうど紙コップに湯を注いでいたところで、その動きの硬直に合わせるように――
「あっつ!」
驚いた拍子に湯が跳ね、手元のコップがぐらりと揺れる。クラウスは慌てて紙コップを持ち直し、袖で跳ねたお湯を拭おうとしたが、すぐにリナリアが身を寄せてきた。
「もう。危ないなあ」
リナリアは手早くハンカチを取り出してクラウスの手をそっと拭う。紙コップを預かり、しばらく湯気の立ちのぼるそれを見つめた後、ふっと小さく微笑む。
「ほら、落ち着いて。こぼしたらもったいないよ?」
クラウスは顔を赤くしたまま、言葉を失っている。普段冷静沈着な彼にしては、あまりにも珍しい光景だった。ルミナはその様子を見ながら、にんまりと満足げに頷く。
「ほんと、お嫁さんみたい。ね、クラウス?」
その一言に、クラウスの顔はさらに赤くなる。彼は咳払いでごまかすように視線を逸らし、ひときわ熱心にコップの湯気を見つめた。淡く漂う茶の香り、揺れる湯気、笑い声と少しの照れ。そのすべてが、村への帰路へと歩み出す前の、小さな節目のように、テントの中に静かに灯っていた。