第五十三話 揺籃の門
静寂に包まれた草原を、リナリアは歩いていた。
風が絶え間なく吹いている。けれど、それは決して騒がしくはない。柔らかく草を揺らし、空に浮かぶ雲を押し流していく。
空は高く、風が雲を裂きながら通り過ぎていく。地平線は揺らぎ、遠くの空と重なっていた。草の葉がリナリアの脚に触れるたび、何かが囁くように擦れる音が響く。そこには道があった。踏みならされたわけでも、誰かがつけたわけでもない。それは、歩む者にだけ開かれた一筋の風の道。
彼女の周囲には子供たちがいる。誰も言葉を発さない。ただ、小さな手を繋ぎ合いながら、彼女の足元を囲むように歩いている。それは導いているというより、共に進んでいるという感覚。どこへともなく。けれど、確かな何かへと向かっている。
風の中に、すすり泣く声が混じる。リナリアは足を止め、草むらに視線を向ける。そこには、誰にも気づかれずにうずくまる影があった。草陰に膝を抱え、顔を伏せている小さな子供。その姿は、忘れられた命の残響のように見えた。いや、もしかしたら本当に──誰にも見つけてもらえなかったのかもしれない。
リナリアはしゃがみこみ、その肩にそっと手を置いた。
「見つけたよ」
子供は顔を上げた。濡れた頬に陽が差し、その目に、ゆっくりと生気が宿っていく。リナリアの手をしっかりと握り返し、何も言わずに立ち上がった。彼の背中に、別の子供たちも続く。草むらにうずくまっていた者、影の中でひとり言葉をなくしていた者、誰にも見つけられなかった無数の小さな命が、リナリアの背後に集まってくる。
そして、風の向こうに景色が開ける。
草原の果てに、大きな川があった。広く穏やかで、静かな水面には空が映っている。向こう岸は霧の向こうに隠れているが、確かにそこに「在る」とわかる。声がなくとも、誰もが知っていた。あれが生と死の間に横たわる境界であることを。
川辺に一隻の船が待っていた。大きく、美しい帆船。装飾はほとんどなく、木の質感がそのまま生かされた簡素な造り。それがかえって、気高さを漂わせていた。帆には風の紋が織り込まれ、陽を浴びて淡く輝いている。
甲板には、黒衣をまとった者たちが静かに立っていた。人とも影ともつかない存在。顔は見えないが、その仕草には威圧ではなく、沈黙の優しさがあった。彼らは向こう側の者を待つ者たち。誰かの最後を見届ける役目を担う、名もなき精霊のひとり。
リナリアがうなずくと、子供たちは手を繋ぎ合いながら船へと歩き出した。誰も走らない。誰も振り返らない。恐れはなく、ただ、ゆっくりと、静かに、その歩みに意味を込めている。
さっきまで泣いていた子も、今は涙を拭い、まっすぐ前を見ていた。誰かに「大丈夫だ」と言われた子供のように。いや、きっと――リナリアがそう告げたのだ。
船の舷側に階段が下ろされ、精霊のひとりがそれを見守る。子供たちが一人ずつ上がっていく。甲板に立った者から順に、彼らの名を静かに呼んでいるように思えた。だが、それは音にならなかった。ただ風の中に、安らぎが満ちていた。
やがて全員が乗船し、船がきしりもせずに川面を滑り始める。風が帆を満たし、水が音もなく分かれる。舵を取る者の姿はない。それでも船は、まるで魂の意志に応えるように、正確に川を渡っていく。
リナリアは岸辺に立ち、そのすべてを見送った。誰も言葉をかけない。ただ、送り、見届ける。それが彼女にとって、もっとも自然な在り方だった。
胸の奥にそっと手を添える。そこに感じるのは、重たさではなかった。ぬくもりでもない。ただ、満ちていく光。死は終わりではない。風の流れる国では、それは始まりの向こう側にある、もうひとつの故郷だった。
水の向こうへと進む船。帆は風を受け、影たちは静かにたたずみ、子供たちは誰一人として振り返らなかった。
リナリアの瞳に、静かな笑みが宿る。船が霧に溶けても、彼女は動かない。誰もいない岸辺に一人立ち、風に髪をなびかせながら、遥か水面の向こうを見つめていた。その姿は、渡りゆく魂のために在る、ひとつの灯火のようだった。
誰かに見つけられるのではなく、誰かを見つけるために。彼女は、そこにいた。
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テントの内側に、風が流れる。 誰も動かしたはずのない空気が、静かに揺れていた。
ルミナが歩み寄る。 まるで迷子を迎えに行く母のように、ゆっくりと、リナリアの視界へと入っていく。 その小さな体が、まるで夜明けの灯火のように、まっすぐ差し込んだ。
リナリアは、彼女を見つめていた。 何かを懸命に思い出そうとしているように――いや、思い出さないようにしているようにも見えた。 瞳の奥に、かすかな光が揺れている。 それが涙だと気づいたのは、頬を伝い落ちてからだった。
ルミナは何も言わなかった。 ただ一歩、そしてもう一歩。 その足音すら聞こえないほど、静かに歩み寄り、リナリアの手にそっと触れる。 目と目が合う。 世界が結び直される音がした。
リナリアはゆっくりと、深く息を吸い込む。 胸の奥に沈んでいた水のような感情が、波紋を描いて広がっていく。 やがて、静かに目を閉じた。
そのまま、時間が止まったかのように――けれど、それは戻るための時間だった。
まぶたが開く。 焦点の定まったその瞳に映るのは、ルミナの顔。
「ただいま」
囁きのような声が落ちる。
ルミナは微笑んで答える。
「おかえりなさい、リナリア」
リナリアは少しだけ笑った。 それは力の抜けた笑みではなく、静かに許されたような、柔らかいものだった。
胸の奥には、まだ余韻が残っていた。 小さな手の温もり。 草の匂い。 風に乗って流れていった歌声。 すべてが消えたわけではない。 ただ、遠ざかっただけ。 それが「彼岸」というものなのだと、いまなら分かる。
あの川には名がなかった。 だが、どこかで聞いたことがある気がする。 忘れることによって渡れる川の名を。
Lethe。 それは、ただの境ではない。 想い出のかけらを一つ、舟に乗せて、彼らが彼らであることを失わずに進めるように――それを照らすために、自分はそこに立っていた。
灯台。 渡る者のために在るもの。 けして渡らない者。
リナリアは、もう一度ルミナの手を見つめる。
クラウスは、そっと眼鏡を押し上げる。瞳の奥に、静かな光が揺れた。
「……父の書斎に、こんな記述があった気がする。風の尽きるところに、忘れられた精霊が在ると」
声はかすかに掠れていたが、その響きには確かな輪郭があった。
「火、水、大地、風――そのどれにも属さず、魂を渡すためだけに在る、もう一つの精霊」
言葉のあとには、沈黙が流れる。だがそれは不安ではなく、何かを受け取った者だけが抱く静けさだった。
テントの内にただ、風の匂いが残る。




