第五十二話 手を引く者
外の空気が、こんなにも濃くて、眩しいものだったとは。
遺跡の石造りの出口を抜けたリナリアは、足を止めて大きく息を吸い込んだ。胸いっぱいに満ちていくのは、陽射しを孕んだ夏の匂い。七月の午後、草と土の温もりを混ぜた風が、頬を軽く撫でていく。喉奥まで陽の匂いが染み込み、肺の隅々まで新鮮な空気が行き渡った。
「……空気って、こんなに美味しいものだったっけ」
思わず漏らした言葉は、空に向かってふわりとほどけていった。
頭上には、帝国の飛空艇がゆっくりと旋回していた。流線型の艦体が鈍く光を反射し、滑らかに空を裂いていく。艦腹からは輸送用の昇降籠が降ろされ、兵士たちが順番に地上へと送り下ろされている。そのすべてが、秩序だった指揮系統の下で動いていた。遺跡の外周にはテントの列と物資の山、兵士たちの掛け声が淡く風に乗って流れてくる。
その景色を見渡しながら、リナリアは目を細めた。どこか現実味が薄れていく感覚があった。暗い空間を彷徨ったあの数時間は、まるで別の世界だったかのように、午後の陽射しの中で遠ざかっていく。
数歩遅れて、クラウスが遺跡の暗がりから姿を見せた。その肩に縋るようにしているのはジークだった。彼の足取りはまだふらつき、体を支えるクラウスの腕には無言の緊張が宿っている。それでもクラウスは一歩ずつ、着実に地を踏みしめていた。ジークの顔にはまだ蒼白さが残っているが、瞳の奥にわずかながら生気が戻りつつある。
「大丈夫そうね、ジーク」
リナリアが振り返って声をかけると、彼は肩越しに親指を立てて見せた。
「……まぁな。また中に戻りたいとは思わねえけどよ」
その声に、リナリアは安堵を込めて笑った。
そして、最後にルミナが現れた。遺跡の影からぴょこりと兎耳を揺らしながら姿を見せた彼女は、淡い陽射しの中、その輪郭はどこか現実感が薄れ、光の中に溶け込むように見えた。
「みんな無事で……よかった」
静かに告げられたその言葉には、心からの想いが滲んでいた。
遺跡の外には、すでに一団が整列している。漆黒の軍装に身を包んだ帝国兵たち。男も女も、年齢も様々な救助部隊の面々が、しんと張りつめた空気の中で規律正しく立ち並んでいる。彼らの姿は、真昼の陽光を受けながらもどこか影を背負ったように見えた。それは遺跡の奥に広がる現実を知る者だけが纏う、静かな覚悟の色だった。
一人の男が、列から一歩前へ出る。年の頃は四十半ば。銀灰色の髪を後ろでまとめ、鋭い視線をたたえた面立ちは、只者ではない威圧感を持っていた。
「エルガ様より報告を受けております」
その男の声は、よく通るが、どこか柔らかさを含んでいた。
「皆さま、無事のご帰還、何よりです。あちらの休息用テントをどうぞご自由にお使いください。お疲れでしょう」
男が指し示した先には、大型のテントが風に揺れていた。近衛の魔導兵たちが安置所の設営作業を進めている。クラウスがゆっくりと前に出た。肩の荷を下ろすように、彼は懐から一冊のノートを取り出す。それは、あの遺跡で拾い上げた、かつての術士の手記。
「これは……遺跡の第一層で見つけたものです。帝国調査隊のものと思われます」
男は無言でそれを受け取った。革表紙の感触を、手のひらでそっと確かめるように撫で、慎重に一枚目をめくる。その視線が、記された文字を静かに追う。わずかに眉が動いた。けれど顔全体に浮かぶのは、怒りでも、悲しみでもなく――深い沈黙の、祈るような色だった。
「……これは、たしかに、彼の筆跡です」
小さく、噛み締めるようにそう言ったその声には、過去を知る者の重みがあった。
「時間が……経ちすぎていました」
クラウスの声が低く漏れる。悔しさを押し殺したその口調に、男はそっと首を横に振った。
「いいえ。貴殿らが持ち帰ってくれたこと、それだけで十分です」
革表紙を閉じる音が、風の音に紛れる。
「この記録は、ただの報告書ではありません。彼らがここで何を見て、何を感じ、どう生きたのか――その証です。軍として、正式に保管させていただきます」
その言葉に、クラウスは静かに頷いた。男は、記録を胸に抱えたまま、整列する部隊へ振り返る。そして短く、だが確かな声で指示を発した。
「遺跡内部、殉職者の確認と回収を急げ。記録の残された座標を最優先に進行する。これは命令だ」
一糸乱れぬ動作で部隊が動き出す。彼らの足音が、まだ冷たい朝の大地に静かに響く。それは、過去を弔いに行く者たちの、黙示のようだった。リナリアたちはその後ろ姿を見送る。誰も言葉を発しない。ただ、その背に込められた祈りのような気配を、静かに感じ取っていた。
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午後の陽射しが遺跡の外をやわらかく包む中、リナリアたちは用意された休息用テントへと案内されていた。ジークは依然として本調子ではなく、簡易な寝台の上に横たえられ、深い眠りに沈んでいる。リナリアはそのそばに座り、微かに汗ばんだ額を拭いながら、静かに彼の顔を見守っていた。
ルミナとクラウスも傍らに腰を下ろし、それぞれの思いを胸に、静かにジークの様子を見守っていた。ルミナは眠るジークの手元に目を落としながら、時折耳をぴくりと動かし、周囲の気配に神経を研ぎ澄ませている。クラウスは肩越しにテントの外を見やりながら、小さくため息をついた。遺跡で目にした数々の異常――そして、自分たちが生きて戻ってきたという事実。それを飲み込むには、少しばかり時間が足りなかった。
テントの外では、帝国兵たちの足音や指示の声が、風に乗ってかすかに響いていた。整然としたその動きは、まるでこの場所の異常など最初からなかったかのように淡々としていて、それがかえって、彼らが踏み越えてきた異常の深さを際立たせていた。
リナリアは、ジークの顔を見つめながら、革袋の中にあったあの異形の感触を思い出していた。掌に残る、あの温度とぬめり――決して死んではいない、けれど、生きているとも言い切れない何か。それを抱えていたという事実が、じわじわと胸の内に重くのしかかってくる。視線を外しても、感触は指先にこびりついて離れなかった。
ふと、誰かが入ってきた気がして、リナリアは顔を上げた。テントの布地が静かに揺れて、光の陰から数人の小さな影が差し込んでいた。子供たちだった。年の頃はまちまちで、十歳にも満たない者から、少年と呼ぶにふさわしい年頃まで――みな素足で、服は古びていたが、不思議とその目は澄んでいて、どこか懐かしいような、柔らかい笑みを浮かべていた。
「……子供?」
思わず声が漏れる。リナリアは立ち上がる。懐かしい?どうしてか――胸がざわつく。
「遺跡の中に、閉じ込められてたの……?」
一人の少女が、リナリアの手を握った。白く、小さな手。ふわりと微笑んで言う。
「ここにいたんだ。急にいなくなるんだもん探したんだよ。リナリア、おねえちゃん」
名前を呼ばれた時、まるで幼い頃、誰かにそう呼ばれていたような錯覚がリナリアを包んだ。別の子供がもう片方の手を取った。
「何してあそぶの?」
言葉に反応するように、ほかの子供たちも一斉に笑い出す。誰も大声ではなく、くすくすと、秘密を分かち合うような笑い。
「……わかったわ。じゃあ、少しだけね」
言葉が自然に口をついて出た。気がつけば、自分が笑っていた。肩の力が抜けて、呼吸が軽くなる。リナリアは立ち上がり、子どもたちの手を取って笑っていた。テントの外に連れていこうとする。太陽の光が眩しい。あの遺跡よりも、この笑い声のほうがずっと現実に感じる……。ふと、彼女は後ろを振り返る。
「ルミナ?」
そこに誰もいない。ぞわりと背筋を何かが這い上がる感覚がした。子どもたちの手が、いつの間にか硬く、強くなっていた。服をつかむ手が、離れない。
「ちょっと待って……お願い。連れていってあげるから、そんなに引っ張らないで‼」
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「そういえば、ジーク……いつまで寝てるのかな」
ルミナがふと笑いながら口にする。声は穏やかで、緊張感のない空気の中に、そっと和らぎをもたらした。
「さっきまで唸ってたけど、今は静かだしね」
クラウスもそれに応じて、軽くジークの額に手をあてる。
「ほんと、かわいい顔して寝てるよね。普段あんなに大声で怒鳴ってるのに」
ルミナが、ジークの顔を覗き込んで微笑んだ。
「あと三十分くらいしたら、起こしましょうか。……もう、大丈夫そうだし。ねえ、リナリア?」
ルミナは隣に座るリナリアの方へ顔を向けた。
「……ねえ、聞いてる?」
返事はない。ルミナの笑顔がほんのわずかに揺らぐ。彼女はゆっくりと体を前に傾け、リナリアの顔を覗き込んだ。クラウスもその様子に気づき、視線を向ける。リナリアは、微動だにしない。
顔を上げたまま、瞳を見開き、何かを――いや、誰かを見ているような眼差しで、まっすぐ前を向いていた。まるで過去と未来の狭間を見ているような、深い闇に縛られた視線。ただ、何かと確かに向き合っているような、そんな深い静けさを湛えていた。
「様子がおかしいわ」
ルミナが低く呟き、すっと立ち上がる。椅子を擦る音も立てず、まるで空気すら揺らさぬように、彼女はリナリアの傍へと近寄った。わずかに首をかしげ、その白い指先が、そっとリナリアの頬に触れる。
「リナリア……?」
声をかけても反応がない。そのまなざしの奥、彼女は、別の景色を見ていた。ルミナは、すぐに理解した。
「しまった……。死が濃すぎる」
その言葉が落ちた時、クラウスがぎょっとしたように振り返った。
「死が……濃すぎる?」
ルミナは歯を噛み締め、リナリアに手をかざす。空気の流れが一変し、テントの中の温度が下がる。




