第五十一話 揺れる輪郭、暴かれる素顔
重く湿った空気の中で、静寂がじわじわと戻ってくる。床に倒れ込んだジークがようやく身じろぎし、ルミナがそっとその額に手を添える。クラウスはなお膝をついたまま、呼吸の乱れを整えていた。
その中心で、リナリアは両腕に袋を抱えたまま、ゆっくりと立ち尽くしていた。袋の中では、先ほどの異形の塊――召喚核が、まだかすかに動いている。生きているのか、存在しているだけなのかすら分からない。
「……ひどすぎる」
リナリアの声が、沈黙に沈んだ空間を鋭く裂いた。呼吸が止まりそうな静けさのなかに、それはまるで刃のように突き刺さる。
「エルガ、あなた……やりすぎよ。あまりにも、強引すぎる!」
言葉に滲んだ怒りは真っ直ぐだった。しかしそれ以上に、リナリアの声には戸惑いと、揺らぎがあった。エルガに対する、わずかながらの信頼。それが打ち砕かれる音が、声の奥に隠れている。
「ジークを見て。ずっと動かなかったのよ……白目を剥いて、意識もなくて!」
その声は次第に震えを帯びていく。唇を噛みしめながら、彼女は両腕で袋を強く抱きしめる。その中で、捕らえられた召喚核がぬめった音を立て、わずかに蠢いた。
「人を囮にして、そんな風に……!それって、やり方として間違ってるって思わないの⁉」
ルミナがそっとリナリアの袖を引く。声をかけようとするが、何も言えないまま、ただその怒りを受け止めていた。
一拍の静寂。エルガは、あくまで冷ややかに反応した。淡く笑い、ドレスの裾を一振り。視線を逸らすこともなく、リナリアの怒りを正面から受け止める。
「だったら、どうすればよかったの?感情を抑えて様子を見ていたら、誰かが喰われていたかもしれない」
その声は、乾いていたが、決して冷たくはなかった。ただ、切実に現実を見据えていた。そして、わざとらしく肩をすくめる。
「感謝されるとは思ってなかったけど、こうまで言われると……損な役ね、本当に」
そこには傲慢でも開き直りでもなく、責任を取る覚悟を持つ者の揺るぎない視線があった。
ジークが呻きながら頭を押さえ、ふらつく足取りで立ち上がろうとする。瞳は焦点を結ばず、まともに呼吸もできていない。
「……うるせえ……もう二度と目を合わせたくねぇよ、あんなもんと……」
その声に、エルガは肩をすくめながら、飄々と笑みを浮かべた。
「それでも立ってるんだから、大したものよ。死んでたら、この子に、どんな顔されるかと思ったら、ゾッとするわ」
そう言ってリナリアを顎で示す。リナリアが顔を背ける。怒りは消えていなかった。拳を握りしめたまま、なおも袋を胸に抱え続けている。エルガは一歩、リナリアに近づいた。視線が、ふいに真剣さを帯びる。
「それより、あなた……自分が今、抱いてるものの正体、分かってるの?」
リナリアは戸惑いの色を浮かべる。
「……なにが言いたいの?」
エルガはわずかに溜息をつくと、再びその異形の袋に視線を落とす。
「これに普通の人間が触れたら、まず正気を保てない。視覚や聴覚、記憶の構造を壊される。まともに意識が残ってる時点で、かなり異常なのよ」
彼女は一拍置いて、まっすぐにリナリアを見つめる。
「……あなた、何者なの?」
唐突な問いに、リナリアは一瞬、息を呑んだ。袋を抱きしめる腕に、ふと力がこもる。
「私は……北の星霧の森から来たのよ。見れば、わかるでしょう?」
その言葉は、誇示でも弁解でもなかった。ただ、事実として静かに告げられた。声に込められた気配には、確かに凛とした芯があった。エルガはその目をしばらく細めて見つめたあと、わずかに笑みを浮かべる。
「……なるほど。覚えておくわ」
軽くそう呟いた彼女の視線が、ふと横に流れる。
「それに、そっちの兎耳――あなたもただの旅人じゃないでしょ?」
ルミナはぴくりと耳を動かし、いつものように首をかしげた。けれどその瞳には、どこか幼さと対極にある冷静さが宿っていた。
「ん……リナリアを守らなきゃって思っただけだよ」
その声はいつも通り柔らかかった。けど、エルガの目には違って映っていた。
「思ったからできる、っていう魔法じゃないわよ。あの障壁、帝国の魔導士団でも一部しか展開できない。あなたたち、何を隠してるの?」
クラウスが息を飲み、ジークは再び立ち上がろうと唸りながら片膝をついた。場の空気が、緊張を帯びる。
「魔導士団にあのレベルの障壁魔法が使える術士がいれば、探索隊は全滅しなかったわ」
誰も言葉を返せなかった。緊張の余韻が、空気の中に色濃く残っていた。エルガはゆっくりと踵を返し、第二層の奥へと続く闇の通路に視線を向けた。
「……それにしても、ひどい匂い」
言葉は独り言のようだったが、確かな嫌悪が滲んでいた。彼女は鼻をひくつかせ、わずかに顔をしかめる。
「主がいなくなって、ようやく幻影が晴れたのね。……気づいた?」
リナリアは周囲に目を向ける。確かに、さっきまで空間を歪めていた不可視の霧が薄らいでいた。壁の文様がはっきりと浮かび、奥へ続く道筋が異様なまでに明瞭になっている。
「第二層……死臭がするわ。血と、肉の腐った匂い。数十人分じゃきかない。……生き残りはいないでしょうね」
そう呟きながら、エルガは再びリナリアの方へ向き直る。そして突然、リナリアの胸元から袋を奪い取るように引き抜いた。
「ちょっと!」
リナリアが反射的に叫ぶ。しかしエルガは無言のまま袋を持ち上げ、ぷらぷらと揺らした。中の召喚核が、重たげにぐにゅりと音を立てる。
「二層には、おそらく王国の先遣隊と我々の探索隊の成れの果てがある。……今、私たちが行っても意味はないわ」
リナリアは息を飲んだ。
「意味がない、って……」
「あなたたちの仕事はもう終わったんじゃない? 帝国の動きも見た。王国の調査隊の行方も、ある程度つかめた。――ここから先は、後始末よ。私たち、帝国の処理班がやること。任務として」
言葉は冷たくも事務的だったが、そこに責任感のようなものが透けていた。
「これ以上、あなたたちを巻き込む理由もないし、私も無駄に時間をかけたくないの。帝都に持ち帰るべきモノも、手に入れたしね」
エルガは改めて、手にした袋を眺める。その眼差しに一瞬、好奇と嫌悪が交錯した。
「……五千年。これが何を見てきて、どれだけの命を呑み込んだのか。考えるだけで、背筋が寒くなるわ」
そう呟いた後、彼女はくるりと踵を返す。その動きに、一切の迷いはなかった。
「これは、私が持ち帰る。あなたたちも、ここで一区切りね。王国の依頼人にでも報告して、金貨を数えて満足すればいい。……ねえ、冒険者さんたち?」
エルガは笑っていた。嘲るでも、見下すでもなく、ただ淡く、どこか安堵の色さえ混じった笑みだった。ようやく任務が終わったのだ――そんな、肩の力が抜けた笑い。
「……はぁ、シャワー浴びたいわ。髪にまで遺跡の匂いが染みついてる気がする」
誰にでもなくつぶやくように言いながら、袋をくるりと回す。
「そういえば、私、自己紹介がまだだったわね」
エルガはゆるりと振り返り、リナリアたちに視線を向けた。
「私はエルガ。エルガ・レクシア・ヴァルト――これでも帝国王家の末流、召喚術第七階梯の継承者。まあ、名乗ったところで、そんなのはどうでもいいのだけど」
わざとらしく肩をすくめたその仕草に、誇示や高慢さはなかった。ただ、彼女自身がその名に縛られていないことを示していた。
「じゃあ、またどこかで」
その一言を残し、エルガは革袋を手に、軽やかな足取りで闇の向こうへと歩み去った。ドレスの裾が、魔導灯の淡い光に揺れながら、ひときわ黒く美しかった。
背を向けて歩き出したエルガの背中を見送りながら、リナリアはふっと小さく息を吸った。手に残る塊の感触、鼓動のようなものはすでに止んでいた。その背に向けて、彼女は言った。
「――私は、あなたのこと、嫌いよ」
ただそれだけを、静かに。答えを求めることもなく、声を潜めて。