表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第三章 風の眠らぬ国で
51/84

第五十一話 揺れる輪郭、暴かれる素顔

 重く湿った空気の中で、静寂がじわじわと戻ってくる。床に倒れ込んだジークがようやく身じろぎし、ルミナがそっとその(ひたい)に手を添える。クラウスはなお膝をついたまま、呼吸の乱れを整えていた。

 その中心で、リナリアは両腕に袋を抱えたまま、ゆっくりと立ち尽くしていた。袋の中では、先ほどの異形の塊――召喚核(サモン・コア)が、まだかすかに動いている。生きているのか、存在しているだけなのかすら分からない。


「……ひどすぎる」


 リナリアの声が、沈黙に沈んだ空間を鋭く裂いた。呼吸が止まりそうな静けさのなかに、それはまるで刃のように突き刺さる。


「エルガ、あなた……やりすぎよ。あまりにも、強引すぎる!」


 言葉に滲んだ(いか)りは真っ直ぐだった。しかしそれ以上に、リナリアの声には戸惑いと、揺らぎがあった。エルガに対する、わずかながらの信頼。それが打ち砕かれる音が、声の奥に隠れている。


「ジークを見て。ずっと動かなかったのよ……白目を剥いて、意識もなくて!」


 その声は次第に震えを帯びていく。唇を噛みしめながら、彼女は両腕で袋を強く抱きしめる。その中で、捕らえられた召喚核(サモン・コア)がぬめった音を立て、わずかに蠢いた。


「人を囮にして、そんな風に……!それって、やり方として間違ってるって思わないの⁉」


 ルミナがそっとリナリアの袖を引く。声をかけようとするが、何も言えないまま、ただその怒りを受け止めていた。

 一拍の静寂。エルガは、あくまで冷ややかに反応した。淡く笑い、ドレスの裾を一振り。視線を逸らすこともなく、リナリアの怒りを正面から受け止める。


「だったら、どうすればよかったの?感情を抑えて様子を見ていたら、誰かが喰われていたかもしれない」


 その声は、乾いていたが、決して冷たくはなかった。ただ、切実に現実を見据えていた。そして、わざとらしく肩をすくめる。


「感謝されるとは思ってなかったけど、こうまで言われると……損な役ね、本当に」


 そこには傲慢でも開き直りでもなく、責任を取る覚悟を持つ者の揺るぎない視線があった。

 ジークが呻きながら頭を押さえ、ふらつく足取りで立ち上がろうとする。瞳は焦点を結ばず、まともに呼吸もできていない。


「……うるせえ……もう二度と目を合わせたくねぇよ、あんなもんと……」


 その声に、エルガは肩をすくめながら、飄々と笑みを浮かべた。


「それでも立ってるんだから、大したものよ。死んでたら、この子に、どんな顔されるかと思ったら、ゾッとするわ」


 そう言ってリナリアを顎で示す。リナリアが顔を背ける。怒りは消えていなかった。拳を握りしめたまま、なおも袋を胸に抱え続けている。エルガは一歩、リナリアに近づいた。視線が、ふいに真剣さを帯びる。


「それより、あなた……自分が今、抱いてるものの正体、分かってるの?」


 リナリアは戸惑いの色を浮かべる。


「……なにが言いたいの?」


 エルガはわずかに溜息をつくと、再びその異形の袋に視線を落とす。


「これに普通の人間が触れたら、まず正気を保てない。視覚や聴覚、記憶の構造を壊される。まともに意識が残ってる時点で、かなり異常なのよ」


 彼女は一拍置いて、まっすぐにリナリアを見つめる。


「……あなた、何者なの?」


 唐突な問いに、リナリアは一瞬、息を呑んだ。袋を抱きしめる腕に、ふと力がこもる。


「私は……北の星霧(せいむ)の森から来たのよ。見れば、わかるでしょう?」


 その言葉は、誇示でも弁解でもなかった。ただ、事実として静かに告げられた。声に込められた気配には、確かに凛とした芯があった。エルガはその目をしばらく細めて見つめたあと、わずかに笑みを浮かべる。


「……なるほど。覚えておくわ」


 軽くそう呟いた彼女の視線が、ふと横に流れる。


「それに、そっちの兎耳――あなたもただの旅人じゃないでしょ?」


 ルミナはぴくりと耳を動かし、いつものように首をかしげた。けれどその瞳には、どこか幼さと対極にある冷静さが宿っていた。


「ん……リナリアを守らなきゃって思っただけだよ」


 その声はいつも通り柔らかかった。けど、エルガの目には違って映っていた。


「思ったからできる、っていう魔法じゃないわよ。あの障壁、帝国の魔導士団でも一部しか展開できない。あなたたち、何を隠してるの?」


 クラウスが息を飲み、ジークは再び立ち上がろうと唸りながら片膝をついた。場の空気が、緊張を帯びる。


「魔導士団にあのレベルの障壁魔法が使える術士がいれば、探索隊は全滅しなかったわ」


 誰も言葉を返せなかった。緊張の余韻が、空気の中に色濃く残っていた。エルガはゆっくりと踵を返し、第二層の奥へと続く闇の通路に視線を向けた。


「……それにしても、ひどい匂い」


 言葉は独り言のようだったが、確かな嫌悪が滲んでいた。彼女は鼻をひくつかせ、わずかに顔をしかめる。


(あるじ)がいなくなって、ようやく幻影が晴れたのね。……気づいた?」


 リナリアは周囲に目を向ける。確かに、さっきまで空間を歪めていた不可視の霧が薄らいでいた。壁の文様がはっきりと浮かび、奥へ続く道筋が異様なまでに明瞭になっている。


「第二層……死臭がするわ。血と、肉の腐った匂い。(すう)十人分じゃきかない。……生き残りはいないでしょうね」


 そう呟きながら、エルガは再びリナリアの方へ向き直る。そして突然、リナリアの胸元から袋を奪い取るように引き抜いた。


「ちょっと!」


 リナリアが反射的に叫ぶ。しかしエルガは無言のまま袋を持ち上げ、ぷらぷらと揺らした。中の召喚核(サモン・コア)が、重たげにぐにゅりと音を立てる。


「二層には、おそらく王国の先遣隊と我々の探索隊の成れの果てがある。……今、私たちが行っても意味はないわ」


 リナリアは息を飲んだ。


「意味がない、って……」


「あなたたちの仕事はもう終わったんじゃない? 帝国の動きも見た。王国の調査隊の行方も、ある程度つかめた。――ここから先は、後始末よ。私たち、帝国の処理班がやること。任務として」


 言葉は冷たくも事務的だったが、そこに責任感のようなものが透けていた。


「これ以上、あなたたちを巻き込む理由もないし、私も無駄に時間をかけたくないの。帝都に持ち帰るべきモノも、手に入れたしね」


 エルガは改めて、手にした袋を眺める。その眼差しに一瞬、好奇と嫌悪が交錯した。


「……五千年。これが何を見てきて、どれだけの命を呑み込んだのか。考えるだけで、背筋が寒くなるわ」


 そう呟いた後、彼女はくるりと踵を返す。その動きに、一切の迷いはなかった。


「これは、私が持ち帰る。あなたたちも、ここで一区切りね。王国の依頼人にでも報告して、金貨を数えて満足すればいい。……ねえ、冒険者さんたち?」


 エルガは笑っていた。嘲るでも、見下すでもなく、ただ淡く、どこか安堵の色さえ混じった笑みだった。ようやく任務が終わったのだ――そんな、肩の力が抜けた笑い。


「……はぁ、シャワー浴びたいわ。髪にまで遺跡の匂いが染みついてる気がする」


 誰にでもなくつぶやくように言いながら、袋をくるりと回す。


「そういえば、私、自己紹介がまだだったわね」


 エルガはゆるりと振り返り、リナリアたちに視線を向けた。


「私はエルガ。エルガ・レクシア・ヴァルト――これでも帝国王家の末流、召喚術第七階梯の継承者。まあ、名乗ったところで、そんなのはどうでもいいのだけど」


 わざとらしく肩をすくめたその仕草に、誇示や高慢さはなかった。ただ、彼女自身がその名に縛られていないことを示していた。


「じゃあ、またどこかで」


 その一言を残し、エルガは革袋を手に、軽やかな足取りで闇の向こうへと歩み去った。ドレスの裾が、魔導灯の淡い光に揺れながら、ひときわ黒く美しかった。

 背を向けて歩き出したエルガの背中を見送りながら、リナリアはふっと小さく息を吸った。手に残る塊の感触、鼓動のようなものはすでに止んでいた。その背に向けて、彼女は言った。


「――私は、あなたのこと、嫌いよ」


 ただそれだけを、静かに。答えを求めることもなく、声を潜めて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ