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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第三章 風の眠らぬ国で

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第五十話 サモン・コア

 エルガ・ヴァルトは、闇の奥から微かに響く不確かな音に耳を澄ませながら、わずかに睫毛を震わせた。音は遠く、意味を持たず、それでいて意図だけが伝わってくる。彼女の脳裏には、先ほどクラウスが読み上げた日誌の一節が、濁った水のように再び浮かび上がる。


 ――誰かが呼んでいる。「わたしを見て」と。壁の向こうから、音がする。


 文字が崩れ、意味を失い、声が言葉にならなくなっていくあの記録。

 ()()は、魔力で直接攻撃してくるような存在じゃない。もっと厄介。言葉や思考の流れ――記憶や判断のつながりに、じわじわと入り込んでくる。召喚術の理論でいえば、最も危険とされるタイプ。外から力を呼ぶんじゃない。呼びたいと思わせる。誰かの心を通して、自分自身を呼ばせる構造。

 エルガは、その可能性に思い至って、背筋に微かな冷気を感じた。


「自律型の召喚媒介か」


 声にはならない呟きが、彼女の胸中で結論として形を取った。封印された()()は、生きていない。意志を持った霊的存在でもない。()()は、『召喚という概念そのものを内包した核』であり、誰かに開けられることを前提に、そこに存在している。

 そして今、音を発しているのは、彼女たちに開けさせようとしている兆候。


 ──これは持久戦じゃない。誘導されているのは、こちらの方。


「……時間を稼いでるのは、向こうね。試されてるのは、私たちの方だったみたい」


 エルガは低く呟く。遺跡に眠る何か――それはただ隠れているわけではない。探索者(たんさくしゃ)たちの接近を黙って見ているだけでもない。こちらの反応を見極めようとしている。選ばせようとしている。そう確信していた。静観は罠だ。音を聞き、足を止め、逡巡するそのすべてを、()()は判断材料として利用している。

 だったら――こちらから出るべきだ。こちらが、選ぶ。

 焦燥ではなく、計算された危機感。静かに拳を握ったエルガは、視線を通路の先へ送る。このまま遺跡の構造に従って進めば、完全に導線に乗ることになる。だが、それを選ばず、こちらから手順を壊す。それが彼女の選んだ手段だった。彼女は、息を吐きながら口の端を上げる。今度は誰にも聞こえるように、明瞭に言った。


「……やってくれるわね」


 その声は、闇の底に沈んだ何かを揺さぶるような、鋭く乾いた切っ先だった。静寂を裂くように響いた低音が、広間全体の空気を震わせる。

 リナリアは思わず息を呑んだ。耳に届いたのはただの呟き。そこに込められた魔力の震動は、彼女の肌をわずかに粟立たせるには十分だった。エルガの声は命令でも(いか)りでもない。何かを察知し、即座に行動に移すもの。リナリアは隣にいるルミナにちらりと視線を送る。

 エルガは右手をゆっくりと持ち上げた。指先に微細な魔力が集まる。彼女の周囲に漂っていた淡い光球が、まるで彼女の意志に呼応するかのように明滅し、緊張の胎動を告げるように脈動する。


「待っているだけでは埒が明かないわ。こちらから引き寄せてあげましょう」


 エルガは静かに呪文を唱え始めた。その声は、深い湖面に沈む石のように、遺跡の空気を静かに波立たせる。指先から放たれる魔力は目に見えぬ波紋となって周囲に広がり、まるで眠る何かに触れようとしていた。それは、彼女が幾度となく遺跡で用いてきた強制召喚の術――だが、今回ばかりは周囲の空気が違った。


「引き寄せるって……まさか⁉」


 リナリアがかすれた声で呟いた。声の奥には直感的な不安があった。ルミナがそっとその袖をつかみ、軽く首を振るようにして身を寄せる。だが、エルガは一切反応しなかった。


「ちょ、ちょっと待て!」


 クラウスが慌てて声を上げた。魔導書を抱え込むその手には、明らかに冷や汗が滲んでいた。


「何をしようってんだ!」


 ジークが松明を掲げたまま半歩踏み出す。火の揺れが、彼の顔に動揺の影を刻む。

 静寂の中で、エルガの指が空中を切る。幾つかの点を打ち、そこをつなぐように指を動かす。まるで空間そのものに紋を刻むように、正確な手順が重ねられていく。なめらかでいて無駄のない動きは、詠唱ではなく、なにかの合図のように見えた。闇の中に漂っていた光球が、その動きに引き寄せられるようにして一点に集まり、そこに圧のある輝きを宿しはじめる。重力さえもゆるく歪み、空間が応答している。


「もう……どうにでもなれっ」


 ジークが吐き捨てるように呟く。


「来なさい」


 エルガの声が響いたその刹那、光が破裂した。空間が歪む。軋むような音とともに、そこに()()は現れた。


 ――肉塊。


 円形のそれは、生きているかのように微かに震えて宙に浮いていた。湿った表皮が蠢き、内部から脈動する音が空気を濁らせる。召喚核(サモン・コア)。そう認識すると同時に、肉塊の一部がぬらりと裂け、ぎょろりとした巨大な目がひとつ、開いた。

 その眼は、迷いなくエルガを見据えていた。


「……やだ。これはまずいわ」


 エルガが小さく呟いたその声に、ほんのかすかな緊張が()じる。だがそれは怯えではない。次に何が来るのか、すでに彼女だけが理解していたのだ。エルガが眉をひそめ、素早く後退する。


「皆、離れて!」


 彼女の鋭い声に、リナリアたちは即座に反応した。ジークだけが一瞬遅れ、彼はその場に立ち尽くし、目を見開いたまま動けなくなる。白目を剥き、全身が硬直している。


「ジーク!」


 リナリアが叫ぶが、彼は応えない。その(あいだ)にも、召喚核(サモン・コア)と呼ばれるその遺物は、周囲に不穏な波動を放ち始めた。


「リナリア、下がって!」


 ルミナが前に出て、素早く結界を張る。透明な障壁が彼女たちを包み込み、召喚核(サモン・コア)の放つ邪悪な気配を遮断する。クラウスもすかさずリナリアの足元にしゃがみ、結界の中に身を寄せた。彼の顔は青ざめ、冷や汗が(ひたい)を伝っている。

 エルガは一人、召喚核(サモン・コア)と対峙していた。彼女の動きはまるで蝶のように流麗で、闇の中を瞬時に移動する姿は幻想的ですらあった。召喚核(サモン・コア)が放つ精神汚染の視線を、彼女は軽やかにかわしていく。リナリアが息を呑む。


「その障壁、器用なことするのね。やっぱり何者かしら」


 エルガの残像が微笑む。


「それよりも、この状況をどうにかしなさいよ!」


 リナリアが叫ぶ。エルガは再び(いん)を結び、今度は召喚核(サモン・コア)に向けて強力な封印術を放った。光の鎖が召喚核(サモン・コア)を絡め取り、その目を閉じる。召喚核(サモン・コア)は激しく抵抗するが、エルガの術は揺るがない。


「今よ!」


 エルガの声が響いた。低く、鋭く、迷いのない命令だった。


「これに包みなさい! 早く!」


 彼女は腰に手を伸ばし、丸めた麻布のような素材を取り出すと、躊躇なくリナリアの方へ放った。動作に無駄はなく、それが何を意味するか、言葉よりも速く伝わっていた。

 ルミナは手をかざしていた障壁を解除する。淡い膜のような光がはらりとほどける。リナリアの胸元に布が飛び込んできた。受け止めながら、彼女はすでに駆け出していた。召喚核(サモン・コア)の目は閉じている。その肉塊の存在感は異様なほど強く、触れることすらためらわれるほどだった。

 リナリアは躊躇わない。袋を広げ、その異形の物体を片手で掴む。ぐにゅりとした感触が手のひらに広がり、体の奥がざわつく。勢いのままに、彼女はそれを袋の中へと押し込む。布地が生き物のように波打つ。中から小さくもがくような振動が伝わってきたが、逃れる余地はなかった。

 ジークの膝が崩れ落ちるように地面を打った。白目を剥いたまま硬直していた体が、呪縛から解き放たれたように深く息を吐く。

 ルミナがすぐにジークの元へ駆け寄り、クラウスもそれに続いた。

 リナリアは袋を胸元にしっかりと抱え込む。中にいるものが、まだ蠢いているのがわかる。その動きは、捕らえられた野獣のようでもあり、何かを探す子供のようでもあった。


「……捕えたわ」


 誰にともなく、リナリアはそう呟いた。息を整えながら、袋をぎゅっと胸に引き寄せる。その手の中で、召喚核(サモン・コア)がわずかに脈打つ。その様子を見ていたエルガは、口元にゆるやかな笑みを浮かべた。漆黒のドレスが静かに揺れる。


「……やっぱり、面白いわ。あなたたち」


 闇に沈んだ広間に、その声だけがふわりと漂った。

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