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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第三章 風の眠らぬ国で

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第四十九話 遺跡の入口、記録の終点

 ――静寂が、深い。

 重い空気が皮膚にまとわりつくよう。遺跡の入口から数歩踏み込んだだけで、リナリアは空間の密度が変わったのを感じた。吐息が浅くなる。地上よりも、呼吸の抵抗が強い。石の壁に囲まれた通路には、誰かの魔力で(とも)されたままの魔導灯が、淡い光を灯している。その光が、逆に闇の深さを際立たせていた。

 遺跡に足を踏み入れてすぐの広間には、不自然な静けさが広がっていた。岩壁に囲まれた石造りの空間。その一角には、かつて帝国の調査隊が築いた野営の痕跡があった。

 倒れかけたテントの骨組み。焼け焦げたまま放置された結界具。半ば融けた魔導灯からは、わずかに煙の匂いが漂っている。荷を解かぬまま転がる補給箱や、蓋の開いた薬品箱、そして湿った寝具――そのすべてが、ここで何かがあったことを物語っていた。

 リナリアは足を止め、しばらくその光景を見つめた。帝国の術士たちは、ここを起点に遺跡の奥へ進んでいったのだろう。だが、その誰一人、戻ってきてはいない。

 彼女の目が闇の奥を見据える。遺跡は単なる遺構ではない。空間が重なり、奥行きがねじれ、道のすべてが異常に静かだ。これは場所ではない。何かの内部に、彼女たちは入り込んでしまった。そんな直感があった。

 ふと、リナリアの視線が足元の影をとらえた。半ば土に埋もれた金属製の筒――帝国製の魔導灯。彼女はそれを拾い上げ、親指で側面のスイッチを軽く押す。パチリ、と乾いた音がして、先端に淡い白光が灯った。

 柔らかい光が、石壁の細かな彫刻や床に散らばる破片を照らし出す。魔法の熱源ではなく、蓄魔式の発光装置。その明かりは驚くほど遠くまで届き、重苦しい空間に、ほんのわずかな輪郭を与えた。「使えそうね」とリナリアが呟く。

 そのすぐ後ろ、小さな足音を残して歩くルミナは、兎の耳をぴくりと動かしながら、リナリアの肩越しに光を覗き込んだ。銀髪の少女の姿はどこか儚く、けれどその瞳は、誰よりも鋭い。


「空気が……ちょっと違うよね」


 囁くような声に、ジークが前方で苦笑する。


「ちょっとどころじゃねぇな。体が重い。魔力の濃度が高すぎる」


 ジークは一歩遅れて、足元の岩を確かめながら前に出る。手には松明。火の先端がかすかに揺れ、壁の苔と石に影を落としていた。照らされた空間の温度が、少しだけ上がる。彼の体は人よりわずかに熱を帯びていた。竜の血を引くその肉体は、空気の密度や魔力の流れに対して敏感だったのだろう。肩越しに見た表情は険しくない。ただ、静かな警戒心がその目の奥に宿っている。


「変だな。外とは繋がってるのに、まるで内側から閉ざされてるような感覚がする」


 その分析を呟いたのはクラウス。いつもの学者らしい静けさの中に、わずかな興奮が混ざる。手には古びた文献を模した魔導本、背には地図の束と道具の数々。神秘学者として育った男は、遺跡という存在そのものを生きた資料として見ていた。

 その後ろから、無言のまま歩く黒衣の女――エルガ・ヴァルトが続く。漆黒のドレスに包まれた体は、歩いているというより空間を滑る。足元を照らす灯りは、彼女の指先から発せられた淡い光球。呼吸のように脈打ちながら、一定の距離を保って彼女の周囲を漂い、周囲の石壁と床をやわらかく照らしていた。魔法の炎は熱を持たず、音も立てず、ただ静かに存在している。表情は読めない。けれど、その背に流れる緊張は、彼女がただの観察者ではないことを伝えていた。

 五人。それぞれが異なる立場と目的を持ちながら、同じ地に足を踏み入れている。クラウスが足を止めた。かがみ込んだ彼の手が、瓦礫の下から一冊の厚いノートをそっと引き抜く。革張りの表紙は湿気にやられ、ところどころ黒ずんでいた。


「……これは調査記録だ。日誌か、報告書のようなものだな」


 そう呟いたが、遺跡の中は思いのほか暗い。クラウスは眉をひそめ、手元の文字を読み取ろうと身を寄せる。リナリアがそっと魔導灯を持って近づいた。彼女は無言で、灯りの先端をクラウスの手元に向ける。白く淡い光がページを照らし、濡れたインクの滲みを浮かび上がらせた。クラウスは視線を落としたまま、深く頷く。


「ありがとう。これで読める」


 彼はページを丁寧にめくり、指先で文字の曲線をなぞるように辿った。視線が紙面を滑るたび、表情に陰りが広がっていく。


「ちょっと、人の日記を読むのって、どうなんだろう。こう、亡くなった人の、最後の思いとかを……」


 言いながらも、リナリアは目をそらせなかった。紙の匂い、湿気、かすれた文字――すべてが、この遺跡に生きていた者の存在を証明していた。


 ジークが鼻を鳴らした。


「嬢ちゃん、こういう場面はな――」


 松明をくるりと回しながら、笑いを含んだ口調で続ける。


「最後に何があったかを、ご丁寧に書いてくれてるもんさ。読まなきゃ、同じ目に遭う」


 その言葉に、誰も笑わなかったが、反論もしなかった。やがて、クラウスの口元がわずかに動いた。


「日付が飛んでいる。文体が変わってる。書き手が変わったか、あるいは……途中で、何かがあった」


 そう呟きながら、クラウスは一つ前のページに指を戻す。そして、声を整えて読み上げた。


《第六月二日。晴れ。初期調査完了。遺跡の第一層構造は安定しており、崩落の危険は少ない。魔力濃度も通常域。封印術式は未発動状態。明日より内部構造の測定と転移陣の確認に入る予定。》


 ジークが腕を組みながら眉をひそめる。


「ふつうの調査記録だな。今のところは」


 クラウスは、さらに数ページを繰った。文字の筆跡がやや乱れ、言葉の構成が簡素になっていく。


《第六月三日。午前。遺跡中央の広間にて、王国の先遣調査隊の痕跡を確認。宿営跡と少量の物資、旗印を確認。だが、人物は見当たらず。物資に荒らされた様子はない。》


 ルミナがリナリアの袖を軽く引いた。


「……誰も、いなかったんだ」


《午後、第二層への探索を開始。魔力濃度にゆるやかな変化あり。隊員の一部に軽い頭痛、動悸を訴える者。体調と魔力流動の因果は不明。経過観察。》


 リナリアが眉を寄せる。


「魔力が人に影響するの?」


 次の頁を開く。紙の端にシミが(にじ)み、インクが波打っていた。


《第六月四日 午前。遺跡内部の封印装置に接触。術式構造が現代のものと大きく異なる。解析不能。壁面に痕跡。だが、文字ではなく、視覚的錯誤のような、空間歪曲の痕跡。接触後、記録係が言語混乱を起こす。意識は明瞭。だが語順が崩壊し、意味を成さない。》


 ページをめくるたびに、文章は断片的になっていく。


《第六月五日 夜。術士ミラ、宿営中に突然錯乱。誰もいないはずの影に向かって呪文を連呼。取り押さえたが、翌朝になっても正気に戻らず。魔力過飽和の影響か?退避検討中。》


 しんとした沈黙が、全員の間に降りた。誰も口を開こうとしなかった。リナリアが、かすかに喉を鳴らす。クラウスは言葉を区切り、さらに最後の記録を読み上げる。


《第六月六日 ミラが、夜明け前に姿を消した。探しに行った衛兵二名も戻らない。誰かが呼んでいる。わたしを見てと。壁の向こうから、音がする。繰り返される。音が、声になっていく。》


 ページはそこで終わっていた。破られた跡があり、続きは見つからなかった。クラウスはゆっくりと息を吐き、日誌を静かに閉じた。


「これが、最後の記録だ。以降は、書き継がれていない」


 クラウスが顔を上げると、リナリアは一歩下がる。ジークが、足元の砂利を蹴った。


「で、その調査隊は、どこへ行ったんだ?姿も、血の跡もねぇ。誰も戻ってねぇし、死体もねぇ。まるで、丸ごと飲み込まれたみたいだ」


 沈黙が広がる。そのとき、ルミナが静かに言った。


「この場所、奥へ行くほど、音が吸われてる気がする。声も、足音も、ほら」


 彼女がそっと足を踏み出すと、その音は確かに地面に届いていないような、不自然な静けさの中に溶けて消えた。


「音が、沈んでいく?」


 リナリアが口にした言葉に、クラウスが深く頷く。


「音だけじゃない。時間感覚が薄れる。語彙がうまく出てこない。これは、遺跡の作用か……」


 エルガがその言葉の続きを断つように、やや遠くから声を落とした。


「……黙って。聞こえる」


 誰もが息を飲んだ。奥の通路、その暗がりから、かすかな音がした。何かが、擦れるような音。声のようでいて、言葉ではない。風のようでいて、風ではない。ジークが松明を高く掲げる。ルミナがリナリアの手を取り、リナリアは魔導灯をぐっと持ち直す。エルガは、光をまとったまま一歩、前に進んだ。無言のまま、道を選ぶように。その先には、まだ名もつかない闇が待っていた。

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