第四十八話 ただの通行人ではいられない
帝国兵に連れられ、リナリアたちは遺跡前に設営された主テントへと向かっていた。
布地は風に揺れることなく、緊張に包まれたように静まり返っている。帝国の魔導士団の拠点。そこには簡素な書類机、地図を広げた作戦台、魔力を通すための魔導式の灯具が整然と並び、その中央に――彼女はいた。
エルガ・ヴァルト。
帝国が誇る最上級召喚士。その女が、机の端に腰をかけていた。背筋を正すこともなく、片脚を組んで体をやや傾けた姿勢。その姿は一切の無防備を許していない。周囲にいた兵士たちですら、無言で距離をとっている。
その姿は、権力者のそれではない。獣の檻に自ら入ってきた獲物を、ただ待っている狩人のそれ。
「ようこそ。思ったより早かったわね」
声は穏やかで、まるで微笑でも添えるような柔らかさ。その声音の奥には、仕組まれた余裕と、何より見抜いているという確信がある。
リナリアは何も答えない。ただ、彼女の言葉の意味を探ろうと、無言で向き合う。
エルガの視線が、ふわりと四人をなぞる。
「あなたたち、オルセリア王国の依頼で来たのでしょう?調査任務、という名目で」
エルガはわざとらしく肩をすくめ、目を細めた。
「でも奇妙よね。獣の血を引く者に、帝国の学士の装い、そして辺境の民族衣装……まるで錬金術の失敗作みたいに、噛み合わない一団。それが誰にも見咎められず、こうも都合よく遺跡の前まで辿り着いたなんて――普通じゃないわ」
エルガの視線は、まるで間違い探しの図柄を見ているよう。そこに何が合っていないのか、それだけを静かに、そして確実に見定めている。
ジークが唇を噛み、ルミナは一歩、前に出かけた。けれどリナリアがその袖をそっと引く。止めたというより、たしなめるように。空気がわずかに揺れた。
「……あら、気に障ったかしら?言葉が少し過ぎたかも。けれど、誤解しないで。私はあなたたちを疑っているわけじゃない。ただ、こうして向き合ってみると……どうしても知りたくなるのよ。あなたたちが、なぜここにいるのか。言葉の奥にある、もうひとつの理由を」
彼女の声には、責め立てるような強さはなく、むしろ楽しげな色すらにじんでいた。好奇心は、彼女にとって思考の出発点であり、武器よりも先に差し出される接触の儀式のようなもの。
クラウスが少し身を乗り出しかけるが、リナリアがその気配を感じ取り、先に静かに一歩を踏み出す。
「……私たちは、旅のものよ。王国の依頼で来た。それは間違いないわ」
その言葉は正直だった。けれど、完全ではない。彼女の瞳の奥には、まだ語られていない何かがゆらいでいた。エルガは、それをはっきりと見抜いていた。机の角に置かれていた赤茶けたファイルに、彼女の指が軽く触れる。弾いたというより、音を確かめるように叩いた指先が、次の一手を暗示していた。
「まあ、いいわ。あなたたちの立場も、意図も、正直どうでもいいのよ」
そう言いながら、彼女は腰かけていた机から軽やかに降りた。靴音ひとつ立てず、空気に音を残さないまま、歩を進めてくる。足取りには優雅さがありながら、どこか猛禽のような直線性も感じられた。
「問題は、今ここに立っている動ける人間が、何人いるか。魔導士団の連中は、口を閉ざしたまま。前回、遺跡に入った隊は戻らなかった。中で何があったのか、誰も言葉にできない。……でも、分かるのよ。何かが近づいている。魔力の密度が上がってきてるの。遺跡が、目を開けようとしてる」
その言葉が落ちると、部屋の一隅で誰かの指が書類の端をつまみ損ね、紙がわずかに鳴った。座っていた魔導士のひとりが、肩をすくめるように息を整え、隣の者が無言で視線をそらす。わずかな動作――けれど、それらは明確だった。名指しされたわけでもないのに、皆がその一言を自分に向けられたものとして受け取ったのだ。
エルガは振り返らない。だが、その背には確かに伝わっていた。沈黙のなかにあるもの――それは命令を待つ姿勢ではなく、自分たちがすでに選から外れたという、痛みを伴う認識。
彼女はリナリアの目前で立ち止まり、そのまま目線を合わせる。距離は一歩分。手を伸ばせば、互いの胸元に指が届くほどの近さ。だが、触れるでもなく、声の質が変わった。
「私と来なさい。――あなたたちのうち、誰かが扉を通す鍵かもしれない」
その響きは命令でも依頼でもなく、ひとつの選択肢。同時に、それを拒むことがどれほど難しいかを、リナリアは肌で感じていた。
無言のまま、彼女はエルガの視線を見つめ返す。その目は読み取れない。クラウスが息を詰める気配が隣から伝わり、ジークはわずかに顎を引いた。自分の体重をゆっくりと後ろへ預けるような動き――それは緊張からの解放だった。ルミナだけが頬を膨らませている。
エルガはすっと視線を外し、ひとつ息を吐いた。まるで芝居の一区切りを自ら告げる女優のように、背を向けて言った。
「選ぶのはあなたたち。でも――」
少しだけ振り返る。その瞳にはすでに答えを知っている者の余裕が浮かんでいた。
「ここで選ばなければ、あなたたちはただの通行人。名も残らないし、責任もない。何も得ず、何も失わず。……それもまた、ひとつの在り方よね」
そのままエルガは主テントの奥へと消えていく。漆黒の背が幕に呑まれたあとも、しばらく風が吹かなかった。
誰も言葉を発せず、テント内の空気は一度、深く沈んだ。
リナリアはまだ動けない。足が止まっていたわけではない。動こうとしていないだけだった。彼女の中に、忘れていたものが名を呼んだ気がした。それは恐れでも躊躇でもない。
さっきの言葉が、耳に残っている。通行人?違う。違うはずだ。私たちはもう、道の端を歩いているだけの旅人じゃない。知らずに、扉の前まで来てしまった。それなら――
リナリアはそっとルミナの手を取り、静かに息を吸い込んだ。
私は、進まなければならない。