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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第三章 風の眠らぬ国で

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第四十四話 声を持たない者たち

 山を越え、谷を抜けていく商隊の列が、傾きかけた陽の中で木々の影を割って進んでいた。空には薄い雲が拡がり、風は方向を忘れたように草原をなでるだけで、強さも冷たさも持たず、ただ流れていた。季節は夏に差し掛かるころ。けれど、この辺境に咲く花は、帝都のそれよりも、どこか震えているように見える。

 午後遅く、一行は山麓にある小さな村に足を止めた。村の名は記録にすら載らない。地図の余白に生きるような場所であり、帝国の目からは存在すら許されていないといってもいい。


「ここが、今夜の宿らしい」


 ジークが馬車から跳び降り、背後の荷車を確認しながら呟いた。その後ろから、ひょいひょいと跳ねるように歩いてきたのは、小柄な少女――今のルミナ。リナリアの肩に寝そべっていたときのままの、夢見るような無垢な顔。黒曜石のような瞳が揺れずに光をたたえ、絹のように細い白髪が風もなく揺れている。大人とも子どもともつかぬその容姿は、人の形をとっていても、何かが根本的に異質であることを、風すら忘れたような静けさが物語っていた。

 村の入口に咲く一本の橙色の花に、少女の姿をしたルミナは、花の前でしゃがみこんだ。何かを待っているような、その後ろ姿に、ジークは足を止める。誰もが見過ごしていく風景のなかで、彼女だけが初夏の色を確かめようとしていた。


「この色、ひさしぶり。夏が……やっと見えるのね」


 ルミナの姿は、そのときどきで変わる。神獣(しんじゅう)のような威容に、フクロウのような静けさに、時には烈火のドラゴンのように変貌する。ルミナはリナリアの感情を映す鏡でもある。だからこそ、リナリアが強くなろうとしているとき、ルミナは守る者の姿をとる。けれど、今は違う。風に押される小枝のように、どこか不安げな、けれど消えようとはしない小さな存在。

 それは彼女なりの在り方の表明。この世界の不条理の中で、リナリアがまだ人として悩み、戸惑い、進もうとしているということを、ルミナは形にしていた。


「ねえ、クラウス」


 リナリアが後ろから彼を呼んだ。クラウスは古文書の入った革鞄(かわかばん)を片手に振り返る。


「なんだか……息が浅くなるね」


 リナリアの声にはいつもの気配がなかった。今はまるで、遠くの雷鳴に気づいた鳥のように張り詰めていた。村の広場には、帝国の紋章を刻んだ軍用馬車が二台、無造作に停められていた。その周囲では、甲冑を(まと)った帝国兵が十数人、村の男たちを取り囲み、帳簿をめくりながら一方的な徴収を(おこな)っている。


「荷馬車三台分の干し魚と小麦、それに……ああ、皮革もだな。春に税を延納した分の埋め合わせだ。領令に基づいての徴収である。異議は受け付けん」


 帝国兵の声は、まるで紙に印字された文字のように乾いていた。村人たちは目を伏せ、誰一人抗う者はいない。十に近い年頃の少年が、小さな手で自分の家の麦袋を引き止めようとした。兵士がそれを、つまらない虫でも追い払うように突き飛ばす。

 少年の背が地面に叩きつけられたとき、リナリアは動けなかった。脳裏で言葉が散り散りになっていく。正しいことが何かわかっているのに、身体(からだ)が追いつかない。拳を握ったまま、彼女はただ立ち尽くしていた。あの兵士の背中に向けた視線は、言葉よりも鋭く、声よりも静かだ。


「リナリア——」


 ルミナが囁くように名前を呼ぶ。けれど、彼女は返事をしなかった。ただ、兵士たちを真っすぐに見ていた。唇が、微かに震えている。拳が小さく握られ、爪が手のひらに沈むほどに力がこもっていた。肩が僅かに上がっているのは、呼吸を止めている証。

 怒りを声に出すこともできず、叫びも拒まれたまま、それでもリナリアの目は、兵士の背中を――暴力を当然とする帝国の姿を――確かに見つめていた。彼女は何も言わなかった。ただ、その瞳の奥に、はじめて明確な拒絶が灯った。


「いこう」


 ジークが、クラウスよりも早く彼女の前に立った。ただ静かに、彼女の視線を遮るように。


「ここで騒ぎを起こせば、帝国はこの村を焼き払う」


 その言葉の意味を、リナリアはすぐに理解したわけではなかった。リナリアは唇を噛み、目を閉じた。長い息を吐く。そのたびに、空気の淀みが、静かに消えていく。


「ごめん……平気。もう、大丈夫」


 彼女がそう言ったときの声には、震えが混じっていた。リナリアは、それでも表情を整えて、何事もなかったかのように微笑んだ。


「僕たちが見たのは、なんだ」


 クラウスが静かにつぶやく。


「帝国の日常だ」


 ジークの答えに、クラウスは頷きさえしなかった。ただ、村の端にある干し草の山の下で、年老いた農夫が死んだ馬の足を引きずる姿を見ていた。



 その夜、宿の囲炉裏の傍に腰を下ろすと、ほんのり焦げた煤の香りが衣の繊維に静かに染み込んでいくのがわかった。

 炎はささやくように揺れており、薪のはぜる音が、言葉を持たない会話のように響いていた。リナリアの膝の上には、白い兎の姿が、ぬくもりを守るように丸くなって眠っていた。リナリアは、時折その背を撫でる。手のひらが、確かな柔らかさを確かめるようにゆっくりと動き、そのたびにルミナの耳がかすかに揺れる。何も言わず、ただそうしていることが、彼女の今の気持ちを語っていた。

 クラウスは、火の向こう側に腰を下ろしていた。視線は薪に落ちたままだが、思考の熱は目の裏で静かに続いていた。横では、ジークが外套を枕にして横になっていた。目を閉じていたが、息の間隔からは眠っていないことが伝わってくる。耳を澄ませ、黙ってすべてを聞いている気配があった。


「ねえ、クラウス」


 火の明かりに照らされた声は、昼間の光景よりも穏やかで、それでいて深く揺れていた。


「帝国って……いつから、あんなふうになったの?」


 すぐには返事がなかった。クラウスは少し身を傾けて、薪の先を見つめるようにしてから、息を吸った。


「分からない。ただ、あれはきっと、誰かが黙っているうちに、少しずつ壊れていったものなんだと思う。制度とか秩序とか、そんな名前の下で、静かに形を変えていったもの……なんじゃないかな」


 リナリアは火を見ていた。膝の上のルミナの体温が、じんわりと掌に染みていく。何も言わずに、目だけで言葉を探しているよう。


「もし、私があの兵士を止めていたら……村の人は、感謝してくれたかな」


 問いというよりは、独り言に近かった。けれど、それは間違いなくクラウスに向けられていた。彼はすこしだけ首を横に振るような動きを見せた。


「たぶん、君を怖がったと思う。でも……君が何もしなかったことを、誰も責めたりはしない。責められるとしたら、それは――僕のほうかもしれない」


 リナリアは、わずかに顔を上げた。火が彼の頬の輪郭を柔らかく照らしている。


「僕は、何もできなかった。正しいことをしようとも思わなかった。ただ、見てた。頭のどこかで、誰かが動けばいいと……自分じゃない誰かが、って、そう思ってた」


 火の光が眼鏡の縁にかすかに反射し、ゆっくりと沈黙が降りた。


「リナリア。君が怒ったとき、僕はありがたいって感じた。誰かが怒ってくれて、少しだけ……自分を棚に上げられた気がしたんだ。最低な話だけど、それが……本当の気持ちだ」


 彼の声は小さかった。だが、どこまでも正直に感じられた。リナリアは、ふと膝の上のルミナに目を落とした。白い毛並みに手をすべらせながら、目だけでクラウスを見つめた。


「私は……怖かった。あの兵士じゃなくて、自分があそこで何かしてしまいそうな気がして。声を上げたら、なにかが戻れなくなる気がしたの。だから、できなかった。なのに、何もしなかったことが、今は一番怖いの」


 クラウスは頷くでもなく、言葉を返すでもなく、火の向こうでただ彼女の言葉を受け止めていた。


「……見ていたこと、覚えていたい。誰も覚えていなくても、私は忘れたくない」


「僕も……忘れない。僕の中でも、今日見たものは終わらないままだと思う」


 そのとき、ルミナの耳がぴくりと動いた。眠っているはずなのに、まるで夢の中でその言葉を聞いたかのように。火の音がまた、静かに小さな爆ぜる音を響かせた。答えはなかった。ただ、問いだけが確かに、そこに在った。

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