第四十三話 男たちの静寂
帝都エルゼグラードを発った商隊は、オルセリア王国へ向けて東方の峠道を越えていた。厚い雲に覆われた空の下、道の両側に広がる杉林は微かに霧を纏い、遠ざかる帝国の影を穏やかに遮っている。車輪が土を踏むたび、湿り気を含んだ音が足元から響いた。かすかな揺れが旅人たちの骨に染み、時間が緩やかに流れていることを思い出させる。馬車の中は静寂に包まれていた。
クラウスは背凭れにもたれ、膝上に置いた古文書の装丁を指でなぞっていた。目は閉じているが、まぶたの裏で思考は淡い渦となって揺れている。彼の隣では、小柄な白髪の少女——ルミナが膝を抱えてうとうとしている。膝掛けの隙間から伸びた耳が兎のように揺れ、その律動が、外の風とは違うリズムでこの空間に命を通わせていた。
「なあ、神秘学者ってのは、いつもそんなふうに黙ってるものなのか?」
前方の座席で、厚い外套を背に持たれながら腕を組んでいた青年が声を投げた。深紅の瞳が夜明けの獣のように光を宿している。名はジーク。ドラゴンの血を引く半獣人。種としても、存在としても異端。クラウスにとっては旅の同行者であると同時に、研究対象でもある。
「考えごとをしていた」
クラウスは短く返す。
「帝国に置いてきたもの?それとも……これから向かう先にいる何かのことか?」
「どちらでもある。あるいは、どちらでもない」
ジークは小さく笑った。
「難しい言葉を使うのは学者の癖か。言っておくが、こっちはあんたほど物分かりがよくない」
「言葉というのは、すべてを説明するには足りない。正確なものほど、感情から遠ざかる」
「へぇ、詩人じみたこと言うじゃないか」
クラウスはわずかに視線を逸らし、車窓の外へ目を向けた。霧が流れるように木々の間を抜け、遠くの山裾を柔らかく覆っている。
「お前のような存在が、ここにいるのが不思議だと思っていた」
「半獣人だからか?それとも、ドラゴンの名残を持っているから?」
「その両方だ。帝国の記録に残る竜の血統は極めて限られている。帝国図書館の分類にはなかった、生ける古代の欠片が、目の前で息をしている」
「記録と現実は、似て非なるものだな」
ジークの言葉に、クラウスは表情をわずかに緩めた。
「そうかもしれない。現実は、常に記述を裏切る」
「だったら、記録を信じすぎるなよ、神秘学者。生きてるもののほうが、よほど複雑だ」
ジークはそう言って身体を傾け、斜め後方で眠るリナリアのほうをちらりと見た。少女の顔は静かだった。車輪の揺れにも微動だにせず、淡い髪が頬にかかっている。ピンクがかったその色彩は、北方の霧の中で見た花に似ていた。名はリナリア。何者なのか、どこから来たのか、誰も正確には知らない。ただ、クラウスの目には、年若い旅人には到底見えなかった。幼さと成熟の境界に立つその存在には、説明のできない違和がある。
「お前は、彼女のことをどう思う?」
クラウスの問いに、ジークはすぐに答えなかった。しばし目を伏せ、口の端をゆっくりと上げた。
「妙な子だ。笑うときの目は、子どものように純粋なのに、黙っているときの空気が違う。あれは、記憶を持たない者の目に近い。生き物の目じゃない」
「彼女は魔法を使っていない。見たのか?」
「いや、まだだ。だが、魔力ってのは使われる前から漏れ出すもんだ。あの子の周りには、時々、風が止まる。鳥も鳴かなくなる。……あれは、ただの偶然じゃない」
クラウスは唇を引き結び、指先で古文書を閉じた。
「帝都では、彼女は何も見せなかった。あの柔らかな笑みの裏に、何が隠れているのか……まだ分からない」
「じゃあ、知るために旅するんだな」
「……そういうことになる」
ジークが立ち上がり、天井の梁に額を押しつけるようにして言った。
「世界は狭い。どんなに歩いても、見えるものはほんの一部。でも、一緒に歩く相手次第で、その狭さが広がって見えることがある。俺は——そういう旅をしてみたかった」
ジークの声音には、隠しきれない想いがあった。クラウスはその言葉を、すぐには返さなかった。ただ静かに目を伏せ、車輪の音の中に耳を傾けていた。
「お前は、人を信じることに慣れているように見える」
「そうか?俺は、人に裏切られたことしかないさ。でも、不思議なもんだ——信じる価値があるって感じる相手には、出会える」
馬車が坂道を登る音を立て、天蓋から差す微光が少女の髪をかすかに照らした。クラウスはその色彩の中に、帝国魔法学校の図書館でも見たことのない文字列のような神秘を感じ取っていた。




