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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者

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第四十二話 旅路の先に、まだ名もなき地図を

 陽が、街の高い尖塔の影をじわじわと伸ばしていた。商隊の出発まで、あとわずか。広場には荷を積む声と、荷馬車の蹄の音が交差し、旅の始まりを告げるざわめきが満ちていた。

 クラウスは、ひとつ深く息を吐いた。これまで学園の空気に慣れていた身体(からだ)には、このざわめきが奇妙に生々しく、どこかざらついて感じられた。けれど、その異物感すら今の彼には心地よい。かつての生活が確かに終わり、別の時間が、いま自分の前に広がっていることを、そのざわめきが告げていた。


「出発だよ、クラウスくん!」


 ルミナが背後から声をかけてきた。耳をぴょこぴょこと揺らしながら、布袋を背負ったその姿は、どこかの旅芸人のように軽やか。


「……うん、行こう」


 クラウスは頷き、荷物を肩にかけた。ジークはすでに荷車の脇に立ち、無言で全員の動きを見守っていた。彼の目は、いつでも先を見据えている。足元ではなく、もっと遠く、彼らがまだ知らない道の彼方を。リナリアは隊列の最後尾に立っていた。目を細めて陽の傾きを眺めている。旅の始まりに緊張や期待を口にすることはない。ただ、静かに受け止めている。

 クラウスは足元の石畳に視線を落とした。熱を失った石のひんやりとした感触が、今の自分の内側にある不確かな熱を反射するように思えた。これが旅のはじまりだと誰かが言えば、きっと彼は頷ける。ただ、それ以上の何かが、胸の奥で、言葉にならないまま形を求めて脈打っていた。誰かと旅をするということ——それは、これまでの彼にはなかった未知の行為。

 彼女の背中に視線を向ける。風に揺れる外套のすき間から垣間見えるその佇まいは、まるで先の光景をひとり見据えているかのように、揺るぎがなかった。その強さに、同じ歩幅で並び立ちたいと、ふと願った。クラウスは歩みを進め、リナリアの傍らに立った。そして、自分でも気づかぬうちに言葉が口をついた。


「……怖くないのか、リナリア」


 リナリアは少しだけ顎を引いて彼を見た。陽の光が彼女のまなざしに反射し、その奥に何か深いものがきらりと光った。


「何が?」


「……知らない場所へ行くこと。どこに辿り着くかもわからないのに、進み続けること」


 リナリアは目を伏せ、まるで問いかけを自分のなかで反芻するように静かに呼吸した。そして、一歩だけ前へ踏み出し、彼に向き直る。


「不安よ。でも、それ以上に——」


 クラウスの顔を見上げ、声のトーンをほんのわずかに低くした。


「……この旅で、何かを見つけられる気がしてる。自分のことも。世界のことも。それがどんな形でも、私は、私であり続ける」


 その言葉は、まるで目に見えない灯火が、クラウスの胸の奥にひとつ、静かに灯るような響きを持っていた。彼は息を呑み、そしてそのまま短く息を吐いた。知らぬ間に手がわずかに震えていたのを、自分でも驚きながら気づく。彼は、その強さに、そして彼女の透明な覚悟に、心のどこかが揺れ動いたのを感じていた。

 リナリアは、クラウスの言葉を受け止めたまま、しばらく視線を空へ預けていた。彼の素朴で、真っすぐな疑問。それは、彼女の中に埋もれていた何か古い感情の扉を、そっとノックするような響きを持っていた。風が髪を揺らし、遠くで誰かが鐘を鳴らす音がしたとき——彼女は、まるで自分の記憶と対話するように、ゆっくりと首を傾けた。その仕草には答えではなく、問いへの共鳴が宿っていた。


「そういえば、クラウス。私、十八よ」


 突然の言葉に、クラウスは不意を突かれたようにまばたきをした。


「……え?」


 リナリアは、まるで青空に思いついたことをぽつりと呟いたような口調で、くるりと彼の方に顔を向ける。


「年齢。こう見えても十八歳。あなたは?」


 クラウスは少し口を開いたまま戸惑った。てっきり彼女は、自分より年下か、あるいは……もっとずっと、年齢の概念を超えた存在かのように感じていたからだ。


「俺も、十八……」


「ふうん。ずいぶん若い講師だったのね」


 リナリアは唇を引いて、意地悪く笑った。それは突き放すようでいて、どこか温かく、照れ隠しのようでもあった。


「年齢も役職も、きっと(かぜ)に舞う仮面よ。旅が始まれば、そんなものは、すぐに剥がれてしまうわ」


 クラウスは彼女の横顔を見つめた。頬をかすめる(かぜ)に、彼女の言葉が乗って広がっていく気がした。


「君は——何にも縛られていないように見えるんだ。名前も、過去も。まるで、世界そのものに属していないみたいに」


 一瞬、リナリアの肩がごくわずかに揺れた。だがその動きは、風が外套の裾を撫でたのか、彼女の呼吸が変わったのか、見分けがつかないほどに繊細。彼女は視線を遠くへ流す。けれどその顔には微笑があった——淡く、儚げで、何かを隠すときの静けさをたたえていた。


「……縛られないって、聞こえはいいけれど」


 その声は、まるで澄んだ水に石を落としたときの音。


「どこにも属さないってことは……どこからも見送られないってこと。少しだけよ? 本当に少しだけ……さみしいの」


 それは風の音に溶け込むような声。けれどその言葉の奥に宿った温度は、確かにクラウスの胸の奥に届いた。だからこそ——彼は、彼女と共に歩くことを、言葉にせずとも深く決意した。


「じゃあ、あなたはどうなの?」


 リナリアの問いが、ふいに返ってくる。


「クラウス、あなたは……この旅で何を見つけたいの?」


 その声は、扉をこじ開けるのではなく、そっとノックして、返事を待つような優しさ。クラウスは、ゆっくりと視線を空に上げる。流れる雲の隙間から差し込む陽光が、まだ名もない未来の道標のように感じられた。


「……父が残した研究の意味。それを追いたい。なぜ封じられ、忘れられたのか。そして、僕に、それを継ぐ意味があるのか……」


 彼は一呼吸おき、胸の中のもうひとつの真実を絞り出す。


「でも……それだけじゃない。僕は、自分が何者なのかを知りたい。父の息子じゃなく、誰かの代わりでもなく。ただの僕として、世界に立つために」


 リナリアはその言葉に、しばらく何も言わなかった。けれど、風の中で微笑んだ。


「……ねえ、それなら、私と一緒にいて」


「え?」


「あなたが自分を見つけたいなら——私が、それを見届けてあげる。ね? それが私の選ぶ理由になる。たとえ、あなたがそれに気づかなくても」


 その言葉が持つ重みを、クラウスはすぐには理解できなかった。だが、心のどこかで確信していた。この言葉は、彼のこれからを変えていく、と。そのとき、広場に鐘の音が響いた。商隊の出発の合図だ。


「行くわよ」


 リナリアが振り返りもせず、歩き出す。黒い外套が風を孕んで揺れ、その背が、まるで夜明け前の灯火のように見えた。クラウスも一歩を踏み出す。荷馬車の後部に駆け寄ると、ルミナが満面の笑みで手を振り、ジークが黙って荷物を積み込んでいた。東の地平は、すでに白み始めていた。オルセリア王国を抜け、遥かヴェルンハイム共和国へと続く道。その道の先に、彼らがまだ知らない未来が、無数の地図の余白として広がっていた。

 そしてその中心に、クラウスというひとりの青年が、静かに立ち始めていた——かつて誰かの影だった彼ではなく、今この旅で、自分として息づきはじめた存在として。


 — 第二章終 —


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