第四十話 その瞳が選んだ道へ
リナリアは、曇り空の下で立ち止まり、クラウスの胸元に一枚の紙を差し出した。墨で書かれた住所。文字は、どこか気まぐれな筆致が彼女らしい。
「……今夜、この場所に来て。荷物は最小限でいいわ。着替えと筆記具、それと……気構え」
そう言って、彼女はふわりと外套の裾を翻した。ひとことの余韻も残さずに歩き去る彼女の背は、まるで何もかもを見通しているようで——しかし決して振り返らない。クラウスはその場にしばらく立ち尽くした。手の中の紙が、未来の地図のように思えた。それは新しい場所というより、これまでの自分を終わらせる地図でもあった。
彼は、かつて家と呼んだ寮の部屋に戻った。父グレイフと共に笑い合った日々も、今は書き残された手紙一通のなかにしかない。彼は鞄を開き、数冊の書物と、父の手帳、筆記用具、そして着替えを詰め込む。ベッドの隅に腰を下ろし、父の手紙をもう一度開く。
「……我が家、か……」
呟いたその声には、既に確かな決意が宿っていた。クラウスは部屋の鍵を手に取り、寮の管理人室へと向かう。白髪交じりの管理人がクラウスを見て口を開くより早く、彼は深く頭を下げた。
「半年、戻らなければ……部屋のものは処分していただいて構いません」
驚いた管理人の目が何かを言いかけたが、クラウスはその言葉を遮るように、もう一度だけ礼を述べてその場を去った。帝都の北東、街外れにある獣人街——そこは、夜になれば街灯もまばらに沈黙し、湿った石畳が音を吸い込む。クラウスの足取りに、冷えた水音のような感触がまとわりつく。空には雲が垂れこめ、空そのものが伏し目がちのよう。
彼は、曖昧な街の輪郭を、紙に記された住所だけを頼りに進む。灯りの少ない獣人街の夜は、まるで世界の裏側。路地裏には蒸気配管の音が断続的に鳴り、屋台の煙が低い天井のような夜空に溶けていく。獣人たちの眼差しは一様に冷たく、そして一瞬で視線を逸らす。よそ者は、ここでは認識されないことが最大の礼儀だ。
やがて、石造りで築かれた四階建ての宿が視界に現れる。光沢のある黒い外壁に、魔石のランプが規則正しく灯り、建物の正面には『旅籠』と書かれた金属製の看板が掲げられていた。かすれかけた文字の下には、かすかに浮かぶ彫刻——飛び立つ鳥の意匠。それは、名もなき旅人を迎え入れるための暗号のよう。
クラウスは、扉を押し開ける。魔灯の柔らかな光が、空気の温度ごと迎えてくる。建物の内装は木材と石を交互に組み合わせた意匠で、床は厚手の絨毯が敷かれ、香ばしい料理の匂いが鼻先をくすぐる。内装の一つひとつに、獣人たちの力強く繊細な美意識が息づいていた。
カウンターの奥から、大柄な熊の獣人が姿を現す。灰褐色の毛並みに、片耳には銀のリング。着ているエプロンはどこか気品があり、厨房から流れる蒸気とともに、民家の香りを纏っていた。
「おう、あんたがクラウスか。話は聞いてるぜ。奥の食堂に通んな、嬢ちゃんが待ってる」
低く朗らかな声とともに、彼は大きな手でクラウスの肩を軽く叩く。その衝撃に、クラウスの身体が一歩揺れる——その掌には、奇妙な温もりが残った。
クラウスは促されるまま、食堂へと足を踏み入れる。食堂は、一転して賑やかで、長いテーブルには木皿と金属のジョッキが並び、獣人たちの笑い声と低いうなり声、食器のぶつかる音が重なり合って、まるでひとつの生き物の鼓動のように響いていた。
その喧騒の片隅——静寂が灯る場所があった。窓際の一角。燭台の光が反射するガラスに、薄紅の髪が揺れている。リナリアは、黒いワンピースに身を包み、足元に流れるスカートの縁が月光を抱いていた。昼間に見せる知性の鎧を脱ぎ捨てたような、その姿に、クラウスの鼓動が不意に乱れる。彼女の隣には、竜の面影を宿す大柄な男と、兎耳の女が座っていた。クラウスは迷わず近づく。そして、テーブルの前で立ち止まり、少しだけ声を低くして言った。
「……やあ」
リナリアは目だけをゆるやかに上げ、彼の姿を一瞥すると、まるで定められた条件を確認するかのように微笑んだ。
「旅支度は、ばっちりね。座って頂戴。仲間を紹介するわ」
クラウスが椅子を引くと、兎耳の女が軽やかに手を振った。その手つきは、まるで翼のように柔らかく——。
「また会ったね」
その声に、クラウスは目を見開く。
「……まさか、あのフクロウのルミナ……?」
女は、くすりと笑い、ウインクをひとつ。
「そういうこと。よろしくね。クラウスくん」
リナリアが、彼女の仕草に少しだけ目を細めながら続ける。
「隣のドラゴンの彼はジーク。見た目通り、頼りになるわ。盾として、ね」
ジークは何も言わず、ただひとつ頷いた。その視線の奥に、戦いを生きてきた者の静けさがあった。ルミナは、いたずらっぽく囁く。
「ようこそ、クラウス。歓迎するわ」
その瞬間、カウンターの奥から店主の声が飛んできた。
「新入りだな! 祝杯だ!」
大きな声が弾け、獣人たちの笑い声と共に、ジョッキが高く掲げられる。どこからともなく楽器の音が混じり始め、祝祭の空気が食堂を満たしていく。クラウスは騒がしさのなかに身を置いたまま、ふと目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
——それは、かすかに覚えのある、家庭の匂いだ。
学園に居場所を失った青年は今、異種族のざわめきの中で、夜の奥底に静かに灯る一席の椅子に座った。それは誰のものでもなかったが、今は確かに、彼のために空けられていた。夜が、静かに、だが確実に深まっていく。窓の外、雲間の奥で星がひとつだけ震えていた。名前を持たないまま始まる旅路。その片隅に、ひとつの光だけが確かに、未来を指し示していた。




