第四話 雪に沈むもの、風が笑うもの
白の下から覗いた黒い手。指先はわずかに曲がり、何かを掴もうとしていた。寒さとは別の冷たさが背筋を這い上がる。
——何のために、ここにあるの?
リナリアは無意識に手を伸ばした。指先がそれに触れそうになった瞬間、かすかに痺れを感じる。胸の奥が異様に静まり、周囲の世界が遠のいていく。森の輪郭がぼやけ、雪の白さが淡く揺らめく。
「リナリア……」
囁くような声が、耳の奥で震えた気がした。空気がゆらぎ、頭の奥で鈍い音が鳴る。
——何かが、私を呼んでいる。
足が勝手に動く。膝をつき、さらに手を伸ばす。指先が雪に沈むと、手はゆっくりと下へ——白の中へと消えていく。まるで、誘うように、引き込むように。
「待って!」
リナリアは咄嗟に雪へ腕を突っ込んだ。そのまま潜り込むように前のめりになった、その瞬間——
「なにしてるの?」
あまりに能天気な声が、背後から降ってきた。
「え?」
返事をする間もなく、襟元を掴まれる。
「ちょっ、何——!」
ズルズルズル……‼
抵抗する間もなく、リナリアは雪の中から思いきり引きずり出された。仰向けに倒れ、ふわふわの雪の上にどさりと転がる。
「ふぅ〜、危ないところだったわね!」
上機嫌な声が響く。リナリアは雪を払いながら目を瞬かせた。視界の端に、赤みがかった髪が風に揺れるのが見える。陽の光を浴びれば燃え立つような赤銅色。耳元には小さな花飾りが編み込まれ、くるりとした毛先が無造作に肩へ落ちる。長くしなやかなエルフの耳が、ふわふわと揺れる髪の間から覗いていた。
彼女のローブは森の若葉を思わせる淡い緑。裾には蔦や花を象った刺繍が施され、動くたびに細やかな宝石が光を反射する。その周りを、小さな蝶のような光がふわふわと舞い踊っていた。
「ねえ、リナリア。あなた何してたの? まさか、雪の中に潜ろうとしてたんじゃないでしょうね?」
「してたよ‼」
リナリアは勢いよく起き上がり、雪まみれのコートをばさばさと払う。自分でも何をしていたのか説明できない。でも、確かに手があった。沈んでいくのを止めなきゃいけなかった——はず。
「違うの、そこに、手が……あったの……」
自分で言って、ちょっとだけ不安になる。だって今、そこには何もない。雪の表面は乱れていたけれど、さっきまで確かにそこにあったはずの手は、どこにも見当たらない。
「手ぇ?」
「そう! 本当にあったの! ここに!」
「へえ〜」
フェレリエルは特に驚くこともなく、なんとも呑気な声で答える。腰に手を当て、じろりとリナリアを見下ろすと、ニッコリ笑った。
「それで、手があったからって、雪の中に潜るの? リナリア、あなたそんなに手が好きだったっけ?」
「違う! そんなじゃない‼」
リナリアはぶんぶんと手を振る。どう説明しても、フェレリエルの頭の中では「リナリア、手フェチ説」が濃厚になりつつある気がした。絶対誤解されてる。
「まったく……エリオーネに報告しようかしら。『リナリア、雪の中で手を探す』って」
「やめてー‼」
リナリアは慌ててフェレリエルの口を塞ごうとするが、彼女はすばしこく身をかわし、くすくすと笑う。フェレリエルは、もう一人の母親みたいな、お姉さんみたいな存在だ。普段はからかってくるけれど、いざというときには真剣に守ってくれる。
「ふふ、でもリナリアが無事でよかったわ。買い出しに行って、戻る途中であなたの気配を感じたから、寄ってみたのよ。そうしたらまさか、雪の中に埋まろうとしてるなんてね」
「埋まろうとしてたわけじゃなくて!」
「はいはい、言い訳は家に帰ってから聞いてあげるわ」
そう言いながら、フェレリエルはリナリアの手を取って引き上げた。握った指先は、ほんのり温かかった。どこか安心する温もりが、リナリアの手のひらに残る。
「さて、帰るわよ。エリオーネも心配してるわ」
「うん」
リナリアはもう一度、さっきまで手があった場所を見た。でも、やっぱり何もない。ただの雪原が広がっているだけ。何もなかったのか、それとも見間違いだったのか——その答えは、もう出ない気がした。フェレリエルは、そんなリナリアの肩をぽんぽんと叩くと、ふわりと微笑んだ。
「行きましょう。帰ったら、あったかいスープが待ってるわよ!」
「スープ……!」
リナリアはフェレリエルの言葉に、くいっと顔を上げる。エリオーネの作るスープ。寒い冬の朝に飲むと、体の奥までぽかぽか温まる、あのスープ。
「行こう!」
こうして、リナリアの「雪の中の手事件」は、フェレリエルによってあっさりと幕を閉じた——けれど、それが何だったのか。その答えが、後々リナリアの運命を変えていくことを、今はまだ誰も知らない。