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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者

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第三十九話 選ばなかった方の真実 

 中庭に静けさが満ちていた。学園の喧騒は石造りの回廊によって遮られ、ここだけが時の流れから取り残されたような空間。石畳(いしだたみ)に広がる苔の緑、その中心には一体の石像が立っている。かつて魔王を討伐した英雄の一人。学園を創設し、魔導の叡智をこの地にもたらしたとされる伝説の人物。大賢者エーリクの像。その杖は空へと向けられ、まるで見えない光を今もなお掲げ続けているかのようだ。

 その像の前に、一人の老紳士が佇んでいた。白髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、深い紺のローブに身を包んだその姿は、ただそこにいるだけで周囲の空気を一段引き締める威厳を湛えていた。ふと、彼の視線がわずかに動いた。空を滑るように舞い降りてきた一羽のフクロウ——ルミナが、静かに彼の肩の近くの石柱にとまったのだ。


「ほう……これはこの前の娘さんではないか。ルミナ、と言ったかな」


 老紳士は、まるで旧友に再会したかのように、優しい口調で語りかけた。フクロウは声に答えるように一度だけ目を細め、羽をすぼめて彼の声に耳を傾けた。その様子に、クラウスの目が静かに細められた。


「……アルフレート先生。お久しぶりです」


 老紳士——アルフレート・ヴァイスは、ゆっくりとクラウスの方を振り返る。その瞳には歳月の重みと、若者に向ける穏やかな慈愛とが同居していた。


「君も……苦労ばかりするね。グレイフの息子よ」


「はい。どうやら、それが俺の役回りのようです」


 クラウスは冗談めかして言ったが、その声にはどこか疲れた笑いが滲んでいた。リナリアは、すぐ隣で立ち止まりながらも、老紳士の言葉とその佇まいに、わずかにまぶたを伏せた。まるで微細な風を感じ取るような仕草。そのまなざしが、石柱にとまるルミナへと流れる。けれどルミナは揺るがない。まるで、自らがこの場に属する者であることを疑わぬように。リナリアはゆるやかに目を細め、胸の奥に降り積もった記憶をそっと手繰った。


 ——この声。この空気。


 無言の沈黙が、まるで過去と現在をつなぐ橋のように横たわる。そして彼女は一歩、前へ出た。衣擦れの音さえ、場を乱さぬように。


「先日は、図書館を……。おかげさまで、探し物の影にようやく触れられそうです」


 声には、礼儀の音階の奥に、抑えきれない異質な律動が宿っていた。アルフレートはしばらく何も言わず、ただ彼女の瞳を見つめた。その眼差しは穏やかでありながら、雲の向こうの雷鳴のように、ひそかに響くものを孕んでいた。


「……君のような者にとって、『知』とは足元の灯だ。だが、灯火はときに目を眩ませる。光ばかりを見ていれば、影の形が見えなくなる」


 リナリアはその言葉に、ほんのわずか口角を動かした。微笑とも、嘲りともとれない繊細な表情。


「私は……生まれつき、影から先に形を知る子でしたから。私は光の向きを測る者ではなく、地形の歪みに影を探す者です。私は……その試みに生まれたもの」


 その返答に、アルフレートは初めてほんの少し、口元をほころばせた。知性と誇りのある返し。微笑みはすぐに翳る。


「……やはり、君はそういう答えを持っているのだな」


 リナリアは静かに、首を傾けた。


「証明されるのは、あまり愉快ではありませんわ。こう見えて、私、驚きを愛しているものですから」


 その声音には、乾いた知性の冗談と、ほんの少しの刺があった。言葉は軽やかだが、選ばれた刃物のように(するど)かった。アルフレートはわずかに視線を伏せ、また彼女を見た。


「君の選択が、本当に君のものなら……この世界は、少しだけ優しいのかもしれない。真理を求める資格が、君にはあった……」


 その言葉に、リナリアはすぐには反応しなかった。代わりに、ふと空を仰ぐような視線を放った。沈黙が一瞬、場を支配した。


「私は、家族を選びました。ええ、それはあなたのいう真理よりもずっと粗く、壊れやすいものかもしれない。でも……そういうものに価値を感じる程度には、私はまだ……人間なんです」


 アルフレートの目が細くなり、そして、もう一度だけ優しい、だがどこか切ない笑みが浮かんだ。


「……大賢者エーリクも、塔に登る前、誰かを見送っていったよ。真理と情の交差点で、彼は一度だけ立ち止まった。君も、いずれそうなるかもしれない」


 リナリアは視線を逸らさなかった。ただ、微かに言葉を繋ぐ。


「なら、そのときは——違う選び方をしてみせます」


 それは約束ではなかった。ただ、可能性の中に宿る意志の発露。アルフレートはその答えを受け取り、満足したように一歩退いた。そして、銅像に目を戻す。


「君たちには、まだ道がある。……どうか、その道が続いているうちに、行きなさい」


 ローブの裾が風に揺れ、彼は静かに歩き出す。その足取りは軽やかで、けれどその背に宿る重みは、長く時を生きた者にしか持ちえぬもの。リナリアは彼を見送らない。けれどその背に向けて、ほんの微かな声を残した。彼女の視線は空を切り、どこにも向けられていないようで——その実、彼女だけの真実を見ていた。


「……不愉快、ではありますけど」


 その声は風に紛れたが、クラウスには確かに届いた。まるで、胸の奥にひそかに刻まれるように。

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