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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者
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第三十八話 その瞳はまだ私を見ていた

 扉が音を立てて閉じた。古びた鍵が錠に絡むと、廊下には静けさだけが残る。クラウスは、しばらくその扉の前に立ち尽くしていた。指先に残る真鍮の感触が、まるで父の記憶を掴み取るように重たかった。


「鍵は、俺が預かる」


 彼はそっと呟き、父グレイフの手帳の革紐に鍵を結びつけた。それは、時間を束ねるような行為。彼にとって、この手帳はすでにグレイフそのものであり、今やこの学園で唯一(ゆういつ)、家と呼べるものになっていた。


「……ありがとう。ついてきてくれて」


 リナリアにそう告げる声は、控えめで、それでいて確かな温度を持っていた。ふたりは、再び静かな廊下を歩き始めた。その沈黙は、さきほどの静けさとはまったく異なるもの。今はまだ名のない絆のような、脆く、そしてどこか柔らかいものがその(あいだ)に芽生え始めていた。

 そして、曲がり角を折れたとき——ふたりの歩みは、不意に止まる。重厚な魔道士のローブに身を包んだ男が、数名の従者を引き連れて廊下を横切っていた。その先頭に立つのは、魔法学校の学長であるヘルムート。銀縁の眼鏡の奥から、クラウスに向ける視線は無機質な冷たさを帯びていた。


「おや……君は、クラウス君だったかね?」


 その声は柔らかいが、まるで喉の奥で泡立った水を啜るような不快な響きを持っていた。


「お父上(ちちうえ)は……戻られたかな?」


 クラウスは、わずかに顎を引き、答える。


「……いいえ。まだ戻っていません」


 学長は眉をひそめることもなく、事務的な口調で続けた。


「そうか……それは残念だ。君もそろそろ見切りをつけるべきだろう。アンデッドの研究など、今となっては好奇の対象にもなりはしない。……生徒たちからも、もはや見向きもされていないではないか」


 その言葉に、クラウスの眉がわずかに動いた。痛みを隠すように、視線をわずかに伏せる。リナリアの横顔は、凛として動かなかった。


「魔導の学び舎であるこの学校おいて、無為な幻想に耽る余地はない。今後、図書館の使用についても、見直すことになるだろう」


 それは、退去命令と同義。学園で唯一、彼が身を置くことのできた場所——その余白さえも、切り捨てられようとしている。そのやり取りを、もう一人の男がじっと見ていた。帝国魔術師団、中央局所属の高位魔導官。漆黒のローブの肩には金糸で縫い込まれた三重の三日月。その階級の高さを示す紋章が、白日の下でなお異様な威圧を放っていた。男はゆっくりとクラウスに歩み寄ると、冷ややかな声で問いかけた。


「アンデッド……。最近、辺境で冒険者どもが騒いでいた亡者の遊園地とやらも、それか?」


 問いというには、言葉があまりにも軽かった。だがその瞳には、どこか得体の知れぬものを探ろうとする色が一瞬だけ走った。


「まるで子供の空想だな。貴族の令嬢が怪談話を持ち帰ったかのようだ。くだらない……そうは思わないか?」


 笑うでもなく、(あざわら)うでもなく。明確な軽蔑と共に吐き捨てられたその言葉は、ただの無知からではなかった。知っているが、信じたくないという者の声。危機の可能性を嘲ることでしか、己の無力を認めたくない者の語り口。

 クラウスは何も言わなかった。ただ、唇がわずかに結ばれた。その隣で、リナリアの目は、そっと窓の外へと逸らされていた。まるで、この場にいること自体が時間の浪費だとでも言いたげに——あるいは、相手の存在すら価値がないと言わんばかりに。魔術師団の男は、リナリアの沈黙に一瞬、何かを感じ取った。目が彼女に向く。そして——彼の視線は、リナリアの腕にとまっているフクロウに吸い寄せられた。


「フクロウ?……貴様は学院のものではないな」


 ルミナはじっと彼を見つめていた。だが、何の反応も示さなかった。


「……名前は?」


 沈黙。リナリアは、何も答えなかった。ただ、静かにまつげを伏せ、外を見ていた。男は不快そうに鼻を鳴らすと、踵を返した。その視線の余韻が、ひと筋の氷のように空気を切っていく。

 その場に残されたのは、クラウスとリナリア。学園の廊下の片隅で、彼らは、確かに外の者であることを、誰の口からでもなく突きつけられていた。クラウスは、小さく笑った。それは、笑みというにはあまりにも苦く、乾いた音。


「……もう、この場所には、俺の居場所はないらしい」


 その言葉に、リナリアはようやく彼の方を見た。その瞳には、迷いがなかった。


 ——ならば、この場所を捨ててもいい。


 ——新しい旅の始まりは、いつも、門が閉じられる音から始まるのだから。


 魔術師団の男の足音が遠ざかり、静けさが廊下に戻った。扉の向こうで風が微かに揺れ、まるでいまのやりとりを一枚の帳に包み込もうとする。その沈黙の中、クラウスは無言のまま扉を見つめていた。手には、父の手帳と括り付けた鍵がある。その小さな重みが、今の言葉の数々よりもずっと重たく感じられた。隣に立つリナリアが、ふと前に出る。


「ねぇ」


 その声は、風のよう。振り返るより先に、胸の奥に触れてくる。


「私、決めたの」


 彼女は一歩、クラウスの正面に立った。軽く腰に手を当て、仰ぐように彼を見上げる。その視線には、揺るぎない光があった。だがそれは、傲慢でも高慢でもなかった。ただ——知っている者のまなざし。


「私は、あなたに案内してもらうわ。あなたのお父様に、会わせて」


 言葉は静かで簡潔。それでいて、どんな命令よりも強かった。


「……あなたの役目は、それだけ。私にとって、十分に価値のあることよ」


 クラウスのまなざしが、言葉を探すようにわずかに揺れる。だがその言葉を紡ぐよりも早く、リナリアの唇が次の言葉を零した。


「不満なら、ここで離れても構わない。でも——」


 彼女は一拍、間を置く。


「私は、必ず辿り着く。どんな道を通ってでも。あなたがその道を知らないのなら、見せてあげる。私が持っているものが、どれほどのものか」


 まるでそれは、予言。ルミナがふいに羽音を立てて舞い降り、クラウスの肩に軽く触れる。何かを察したように、微かな重みを残してとどまる。リナリアはそれを見ながら、ふっと笑みを浮かべた。その笑みは、優しさではなかった。確信——それだけがあった。


「ね、ルミナも言ってるわ。……選ばれたんだって」


 クラウスの心が、その言葉に静かに震えた。彼は問いかける。


「……君は、一体……何者なんだ?」


 リナリアは、少しだけ首を傾げて、彼の顔を覗き込む。まるで深海を映すような、澄んだ瞳で。


「神様よ。あとで、考察を聞かせてくれないかしら?」


 クラウスの眉が微かに動いた。挑発的な冗談にしては、あまりにも自然。しかも、それが彼女の真実の片鱗に触れているようにも思えた。


「……冗談には聞こえないな。君の放つ魔力の気配は普通じゃない。だが、神の名を語るなら、もう少し人の感情に鈍くあるべきじゃないか?」


 リナリアは肩をすくめて微笑した。


「だったら、人間の方が、ずっと残酷よ。私のような沈黙より、あなたのような優しさの方が人を傷つける。ねぇ……クラウス。あなたは、誰よりも他人の痛みに聴きすぎるのよ。まるでそれを抱えて、自分の心を削ってしまうみたいに」


 クラウスは一瞬、言葉を失った。


「君は……見透かすのが上手いな」


「ええ。魂の端に触れるのが、私の魔法だから」


 リナリアの声はひどく静かに響く。まるで水面に指を落とすように、相手の心の奥へと届いてくる。クラウスは視線を落とし、つぶやいた。


「……君は、危険だ」


 リナリアのまなざしが僅かに動く。


「そうね。でもね、クラウス。危険だと思ったのに、あなたは私から離れなかった」


 クラウスの喉が、わずかに鳴る。言い返す言葉が浮かばなかった。


「どうしてだと思う?」


 リナリアの問いは、甘さも鋭さもなく、ただの事実のように口にされた。クラウスは答えられなかった。言葉にするには、それはあまりにも早すぎて、しかし、遅れればもう戻れない気がして。リナリアは、彼の沈黙を肯定と受け取ったように、そっと視線を逸らした。だが、その横顔には微かな笑みが残っていた。


「じゃあ、次はあなたの番ね。……私の考察、聞かせて?」


 その声は、誘うのではない。導くような響き。彼女は、自らの運命に値する者を選び取るために生きている——クラウスは、そう理解した。自分がその眼差しの中に選ばれていることが、まだ信じきれないまま。彼女の瞳の残像が、クラウスの胸の奥でゆっくりと波紋を描いていた。


 ——リナリア。君は本当に、神様なのかもしれない。そう思わされた瞬間だった。

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