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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者

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第三十七話 置き去りにされた時間の中で

 朝の(ひかり)は薄く、灰色の空が帝都を静かに覆っていた。石畳の街路には霧が低く漂い、通りを行き交う者たちの足音さえも柔らかく吸い込まれていく。空を一羽のフクロウが滑るように飛んでいた。大きな翼をゆったりと広げ、その視線はまっすぐ魔法学校の高い尖塔をとらえている。それはルミナであった。人の姿を離れ、空気と同化するような飛翔の中で、彼女は鋭く地上を見つめていた。

 フクロウの視線の先、図書館の前で、一人の少女が足を止めた。外套のフードをゆっくりと外すと、そこに現れた淡い赤い髪が、朝の光に照らされ花を咲かせた。大きな扉の前で、彼女は一度だけ深く息を吸い、無言のまま中へと歩みを進めた。

 図書館の扉を押すと、内部の空気が静かに揺れる。冷たく、整った空間。木の棚に並ぶ魔導書、淡い魔灯の光。普段であれば誰もが知識に没頭しているはずの空間に、今朝は、わずかな異変が漂っていた。リナリアの視線はすぐに、長机にたたずむ一人の青年を捉えた。

 クラウス。いつもなら山のように資料を広げて、机の隅まで紙とインクで埋め尽くしているはずのその場所には、今日は何も置かれていなかった。彼はただ、まるで誰かを待っているかのように背筋を伸ばし、黙って座っていた。

 リナリアが足を踏み入れたそのとき、クラウスの目が真っすぐに向けられる。視線が交差する。言葉はない。ただ、その静寂の中に、確かな合図のような感覚があった。リナリアは歩み寄り、静かに手帳を差し出した。昨日、読み解いた手帳。クラウスの父、グレイフの記録。


「……大切なものを、ありがとう。返すわ」


 クラウスは受け取ると、わずかに頷いた。表情は硬いままだが、その中に確かなものを握りしめたような感情の揺れがあった。


「今日は……一緒に来てほしい場所がある」


 言葉は短く、迷いはなかった。リナリアはわずかに目を細めたが、何も言わずに頷いた。廊下を歩く二人の姿は、学院の静けさの中で異物のよう。学生たちの視線が、すれ違うたびに彼らに注がれる。囁き声はなく、沈黙の中にある種の緊張感が漂っていた。まるで、触れてはならないものを見るような、遠ざけるような眼差し。それはリナリアに向けられたものではない。クラウスに向けられた、長い年月の中で静かに積もった偏見と拒絶。

 教師たちもまた、教壇からその姿を見ていた。表情に感情を浮かべることはなかったが、目の奥にあるわずかな動きは、決して友好的なものではなかった。クラウスは、何も言わなかった。ただ歩いた。静かに、そして確かに、ある場所を目指していた。やがて二人は、廊下の突き当たりにある扉の前に立った。そこには一枚の紙が貼られていた。


 ——【立入禁止】魔法学校総合管理室印。


 リナリアはその扉を見上げた。古びた木の板に、時間の経過が刻まれている。埃の層と、手の触れられない寂寞。それは、時間が止まった場所。


「……ここが、父の研究室だ」


 クラウスは低く言った。


「父が姿を消したあと、研究助成は打ち切られ、ここも封鎖された。誰も近づかなくなって、鍵も管理室に預けられたまま」


 リナリアは扉に指を触れた。乾いた木の感触。そこに眠る何かの存在を、肌が感じ取る。


「……この中に、父の手がかりが残っているかもしれない。彼が最後に触れた本。書きかけの資料。あるいは、行き先を記した何か」


 クラウスの声は、いつもよりわずかに硬かった。言葉の端に、確信と焦燥が交じっていた。沈黙が降りる。リナリアは扉に手を触れたまま、目を伏せる。

 しばらくして——どこかで、風が動いた気がした。微かに聞こえた羽音。そして、風の流れを裂くような音がした。ぱさり、と羽ばたきの気配が近づき、廊下の窓辺に一羽のフクロウが降り立った。くちばしには、小さな真鍮の鍵。その動作があまりにも自然で、あまりにも静かで、クラウスは思わず息を呑んだ。


「……それは?」


 リナリアは、フクロウの羽に軽く触れた。温かく、確かな存在。


「……友人が、手配してくれたの」


 鍵をクラウスに手渡すと、彼はその重みに言葉を失ったように一瞬黙り込む。そして、ゆっくりと鍵を握りしめた。


「……ありがとう」


 クラウスは扉に向き直り、鍵を差し込む。錆びついた音を立てながら、古い鍵がゆっくりと回っていく。その音は、まるで封じられていた時が再び動き出すような、そんな予感を抱かせる響き。カチリ。音が鳴った瞬間、扉の向こうにあった静寂が、わずかに息を吐いたように思えた。クラウスは手をかける。扉を、押し開ける。その先には、父グレイフがかつて過ごしていた空間。(とき)の止まった研究室が、息を潜めて彼らを待っていた——。

 扉がゆっくりと開いた。軋む音が静寂を裂くと同時に、長く封じられていた空間がわずかに息を吐く。空気は重く、乾いていて、時間という埃が舞い上がるような感覚がした。クラウスは、一歩、足を踏み入れる。リナリアはそのすぐあとを、まるでその時間を乱さぬように静かに追う。

 研究室の中は、時が止まっていた。机の上には開きかけたままの魔導書、積み重ねられた文献、書きかけの紙。インクは乾ききり、紙の端にうっすらと染みの輪を描いている。椅子は中途半端に引かれたまま。まるでその主が次の瞬間にも帰ってくるかのような、そんな錯覚を誘う空気が漂っていた。


「……変わってない」


 クラウスのつぶやきは、ほとんど息に溶けていくほど小さかった。その響きには、凍った記憶が軋むような痛みが混じっていた。リナリアは何も言わず、視線だけで部屋を辿る。指一本動かさず、瞳で、そこにあるすべてを受け取ろうとしていた。何かを探すというより、感じ取るような姿勢。言葉よりも、記憶の輪郭を拾い上げるような、静謐な動作。

 クラウスはやがて、父の使っていた大きな机へと歩み寄る。引き出しに指をかけた。錆びついた音とともに開いたその中に、ひときわ丁寧な封筒が眠っていた。古びた紙に、鉛筆のやや滲んだ筆跡が載っている。


 『クラウスへ』


 指先が止まる。その文字を目にしたとき、胸の奥で時間が跳ねた。彼はゆっくりと封を切る。乾いた音。中には、厚手の紙に綴られた手紙が一枚——それだけ。読みなれた筆跡。父の文字。目がすぐには動かない。視線がそこに吸い寄せられたまま、彼はしばらく言葉を忘れた。やがて、呼吸をひとつ挟み、ゆっくりと目を走らせていく。


 ⋆ ⋆ ⋆


 クラウスへ

 もしこの手紙をお前が読んでいるのなら、私はもう帰っていないのだろう。

 恐れるな。私はこの最後の旅路に悔いはない。

 お前の母さん——アメリアが呼んでいる気がするんだ。あの場所で、もう一度だけ、彼女の声を聞ける気がしている。

 これは別れではない。もし私が戻らなかったら、それは悲しむべきことではない。むしろ、祝福してほしい。私は彼女と共にあることを選んだのだから。

 この研究室はお前のものだ。いつか、ここでお前が見つけるものが、誰かの光になることを願っている。

 そして、私は我が家で待っている。


 グレイフより。


 ⋆ ⋆ ⋆


 クラウスの目から、声にならない呼吸が漏れた。言葉は何も出てこない。ただ、手紙を握る手に、ゆっくりと力が入っていった。


「……父さんは……覚悟してたんだ」


 その声は低く、震えていた。けれど、そこにはどこか救いのようなものもあった。


「最後の遠征……戻らないことを、わかってた。……それでも、母さんと……一緒にいることを選んだんだ」


 彼の瞳に、わずかな水光(すいこう)が浮かんでいた。その言葉の奥には、喪失の痛みではなく、ようやくたどり着いた理解の静けさがあった。

 リナリアは、彼の背をそっと見つめる。語られぬ想いのすべてが、その背中から滲んでいた。この部屋に残された記憶、父が遺した想い、それに触れる息子の姿。彼女は、そこに言葉を挟むことをしなかった。ただ、その姿が語っていた。彼が、何を失い、何を探してきたのか。その答えが、今まさに彼の中に落ちていくのを、彼女は感じ取っていた。

 彼の家族の記憶。その残響。それがこの部屋に、まだ色濃く残っていた。クラウスはそっと手紙を胸に当てた。まるで父の心音を聞くように、そこに静かに手を置いていた。


「……我が家で待つ、か」


 しばらくの間、クラウスはただ立ち尽くしていた。言葉が胸の奥で溺れていた。


「なら、行こう。父と母が待つ我が家へ」


 その言葉に、リナリアのまなざしが静かに揺れた。


 ——彼もまた、旅立つ準備ができたのだ。

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