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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者

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第三十六話 その交差点に、意味があるなら

 ぬるい水の流れが、肩を伝って落ちていく。シャワーの蛇口は、回すたびにきしむ金属音を立てる。クラウスは狭いバスルームの壁に(ひたい)をつけながら、湯気に沈む視界の中で目を閉じていた。あの瞳が、ふいに浮かぶ。


 ——リナリア。


 水音に包まれながら、その名前を心の中でゆっくりと繰り返す。彼女の声の余韻が、耳の奥にまだ微かに残っていた。氷のように澄んでいて、それでいて(しん)に火を灯しているような声。言葉の端に、決して見せようとはしない痛みがあった。

 今日一日が、まるで夢のようだと思った。髪から伝う雫が、背を伝い、床へ落ちる。その感触さえも、今は現実感を欠いていた。彼女は言った。『あなたのお父様と話がしたい』と。それは単なる興味ではなかった。ただの知識欲から来る言葉では、あの眼差しにはならない。あの瞳は、何かを失い、そしてそれでも探し続けている者のそれ。

 クラウスは蛇口を止め、雫の落ちる音だけが残された静寂の中、しばし立ち尽くした。バスタオルを肩にかけながら鏡の前に立つ。くもった鏡に映る自分の姿は、疲れた青年。目の下のくま。乾いた唇。日々の疲れが静かに積もっている。

 服を着替えながら、狭い部屋を見渡す。家具は最低限。机には本とノートが積まれ、椅子には夜を越すための毛布がかけられていた。冷却石の埋め込まれた木箱には、水の瓶と乾いたパンが並んでいた。保存のための術式がわずかに淡い光を放っていた。

 父がいなくなってから、まとまった収入は途絶えた。学院の講義の手伝いと、小さな翻訳仕事だけでは生活は楽ではない。研究助成も、年を追うごとに削られた。特にアンデッド研究など、誰も支援しようとしない。


 ——それでも。


 この部屋の本も、机のノートも、研究も、彼の誇り。たとえ古びていても、捨てられない理由があった。窓辺の椅子に腰掛けながら、クラウスはノートを開いた。リナリアと話した言葉を、忘れないうちに記録しておきたかった。彼女の言葉の端々から漂っていたもの。彼女の求める名——F・W(フェリオラ)

 なぜ、彼女はこの名を探しているのか。彼女がただの学生ではないことは、話すたびにわかる。服装も、言葉の選び方も、細部にまで洗練された気配があった。それにあの衣装——青銀の縁取(ふちど)りに、金糸の模様。エルフが用いた装束にどこか似ていた。服の織りや指先の飾りまでが、過去と交信しているかのような造形。

 彼女は、辺境の貴族の家系かもしれない。そうでなければ、あれほど精緻な文化の匂いを纏えるはずがない。彼女は、それをひけらかすことも、隠すこともせず、ただ静かに立っていた。クラウスはゆっくりとペンを走らせる。


「彼女は、父と話がしたいと言った。F・W(フェリオラ)を求めていた。目的は……わからない。ただ、その眼差しは、まるで彼女自身の過去と繋がっていた」


 筆が止まる。もしかしたら、彼女も何かを、いや誰かを探しているのかもしれない。クラウスの思考は、ふとそこに辿り着いた。誰かを失った者にしか持ち得ない、言葉の重さ。あの沈黙。


 ——俺と同じだ。


 言葉にはしなかったが、心の奥底でそう思った。彼女の沈黙に、彼は自分を見ていたのかもしれない。彼女は父と話したがっていた。ならば、あの封鎖された研究室こそが、(つぎ)なる鍵になる。

 父の研究室は閉鎖されたままだ。誰にも使われず、鍵だけが学院の管理室に保管されている。自分には、もう立ち入る権限はない。あの部屋にはきっと何かが残されている。彼女がF・W(フェリオラ)に辿り着くための、あるいは、自分が父の想いに辿り着くための何かが。

 夜風(よかぜ)が窓の隙間から忍び込み、ページを揺らす。クラウスはペンを置き、深く息をついた。あの冷たいようでいて、どこか深く熱を秘めた瞳。あの瞳が、自分の中でかすかな光となっていることに、彼はもう気づいていた。



 ホテルの部屋は、窓を閉め切っていても、夜の気配が忍び込んでいた。灯火石の淡い光が、天井に薄い影を揺らしている。街の喧騒も、ここでは絹の布のように遠く、静かにほどけていく。リナリアは椅子の背に外套をかけながら、机の上に丸くなった手帳を置いた。革装の手触りは、昼間よりも冷たく感じた。部屋の一隅では、ルミナがカップの中の銀のスプーンで陶器を淡く鳴らし、目だけをこちらに向けている。


「戻ったのね。どうだった?」


 リナリアは答えず、手帳を開いたまましばらくページを見つめていた。その沈黙に慣れているルミナは、急かすこともなく静かに待った。


「……手がかりがあったの」


 ようやく口を開いた声は、どこか遠くから響いてくるよう。


「……彼のお父様の記憶に、お母さんの名が残っていたわ。けれど彼はまだ、何も知らないままでいる。そのほうが……いいのかもしれない」


 ルミナはカップを置いた。湯気がほのかに立ち上る中、瞳が一瞬だけ鋭くなった。


「本人に会えれば、何かがわかる。たぶん、お母さんの記憶の残響に触れた数少ない人物のひとり……彼なら」


 そして一拍置いて、低く告げた。


「明日、図書館へ同行して。……もう少し、彼のお父様について調べる必要がある」


 ルミナは軽く頷くと、再びカップに口をつけた。


「……フェリオラ。その名が確かなら、私にも確かめる義務があるわ。彼がその鍵を持っているなら、扉を開ける価値があるわね」


 その指摘に、リナリアは答えなかった。ただ、窓の方へ視線を向けた。カーテンの隙間から、夜空の蒼が薄く漏れている。雲の向こうに月があるはず。


「彼は……どこか、昔の記憶を思い出させるの」


 その言葉は、ただ空に向かって投げられた。クラウス。彼の眼差しは、知識への渇望に満ちていたが、それ以上に、失われた何かに手を伸ばそうとする切実さがあった。彼の言葉。仕草。父への想い。どれもが不器用で、痛々しくて、けれど、まっすぐ。

 あの図書館の空気の中、彼が自分を見た視線を、リナリアは忘れていなかった。理解されることに慣れていない者の目。だからこそ、あの沈黙は心地よかったのかもしれない。彼が常に図書館にいること。その孤独を、リナリアは理解していた。彼の心はまだ、誰かを待っていた。


「……彼の持つ地図に、私の探す道が重なっているなら」


 リナリアはそっと言葉を紡いだ。


「その交差点に、意味があるかもしれない」


 ルミナは黙って頷いた。部屋は静寂に包まれた。開かれた手帳の上に灯火石の光が落ち、F・W(フェリオラ)の文字が淡く浮かび上がる。遠い記憶が、再び輪郭を取り戻しつつあった。


 ——明日、彼の道を借りる。


 ——その先に、お母さんとお父さんの足跡があるなら。


 リナリアは手帳を閉じ、そっと胸元に手を当てた。静かに眠るための祈りのように。

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