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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者

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第三十五話 その声はまだ残響している

 夕暮れが窓辺を赤く染め始める頃、図書館の空気は少しずつ静けさを取り戻しつつあった。試験前の喧騒の向こうに、クラウスとリナリアの会話の余韻だけがひっそりと漂っていた。

 クラウスは、しばらく目を伏せて考え込むようにしていたが、不意に手元の資料の束に手を伸ばした。書物の山から一冊、革紐で綴じられた手帳を引き抜く。それは使い古されていて、角は擦れ、ところどころに魔法薬の染みが残っていた。


「……思い出した。ここにあったはずだ」


 リナリアの瞳が、ゆっくりと彼を捉える。無表情とも違う、感情を深く沈めた鏡のような瞳。ただの言葉では動かない。その視線は、相手の心を試し、(はかり)にかけている。軽々しく心を開く者ではない。リナリアの中に、クラウスという存在が真に信頼に値するかを測る冷ややかな風が吹いていた。

 彼は小さく呟きながら、指先でページをめくっていく。その所作は慎重で、だが確信めいていた。やがて、ある一枚のページでぴたりと手が止まる。


「……ここだ。父のグレイフが遺した手帳なんだ。ずっと読み込んできたけど、君の持つ本を見て、ふと思い出した記述があって——」


 独り言のように呟いてから、その頁に記されたメモを静かに読み上げた。


「参考文献:F・W。理論名:魔法の限界点と魂の保存。魔力とは意識ではなく、魂の残響に依る——」


 そこまで読んで、クラウスは顔を上げた。


「フェリオラ・ウィンスレット……やはり、記録にも名前がある。父は、彼女の理論に相当の興味を持っていたみたいだ」


 彼の眼差しには、探求者の歓喜と、名前の向こうにある世界への驚きが混じっていた。だが、その言葉に対するリナリアの反応は、まったく異なるもの。彼女のまなざしが微かに揺れた。言葉はなかった。思考は、静かにその名の背後を遡っていた——。


『なぜ、彼のお父様はフェリオラまでたどり着いたのか……』


 リナリアは思った。フェリオラ——母の名を、クラウスはただ歴史上の魔導士として扱っている。その事実が、かえってリナリアの胸に淡い痛みを生んだ。この青年は、どこまで踏み込むつもりなのだろう。どこまで真実に近づくのか。その目に、彼女は問いを映し込んでいた。


『三百年前の出来事から、噂も残っていたかもしれない。死の精霊の暴走、魂の再構築、数々の禁忌。どれも、研究者の目に触れれば、自然と辿り着く……』


 彼女は心の中で言葉を紡ぐ。——そして、気づく。そう、もしかしたら彼の父グレイフは、ヴェルンハイムのどこかで母の研究に触れていた。その国には、大きな研究施設があり、歴代の学者の論文が保管、検証されていたのかもしれない。母と父が記した研究の一部も、そこに残されていたかもしれない。そして、アンデッドと遭遇していたはずだ。


『私が生まれた家……あれは街の外れだった。石造りの小さな家。窓辺には白いレースのカーテンがかかっていて、よく、母が書斎から庭を眺めていた……』


 どこか、今ではもうはっきりしない。記憶の片隅に残る街の景色。もしあの頃、彼がすぐ隣の家にいたとしても、私は気づかなかっただろう——。私が、かつて家族と過ごした家、同じ土地で、知らぬままに彼は過ごしていたかもしれないという想像が、リナリアの胸をひそかに締めつけた。クラウスは、リナリアの真意に気づくことなく続けた。


「君がフェリオラに関心を持っていたのは、単なる魔法理論への興味じゃないな?」


 リナリアは、唇をほんの少しだけ動かし、答えた。


「理論は、世界の境界線を教えてくれる。私が知りたいのは、その向こう側」


 彼女の声は柔らかく、だがどこか遠くから響いてくるようでもあった。その裏で、彼女の心は静かに旋律を変えつつあった。そして、いま目の前にいるのは、まるでその記憶の亡霊のように、失われた何かを懸命に繋ごうとする青年。

 ——クラウス。あなたの父、グレイフは、母フェリオラの理論に辿り着いた。ならば彼に会えれば、母のことをもっと知れるかもしれない。

 クラウスはリナリアの口から出た言葉を聞き、目を細めた。自分の中で漠然としていた探求が、いま目の前の少女の沈黙と不確かな視線によって、どこかで繋がり始めているのを感じていた。


「……なら、もう少しだけ。父の資料を君に見せてもいいかもしれない。もしかしたら、君が読むことで見えてくるものもある」


 数秒の静寂が流れた。リナリアはゆっくりと瞬きをしてから、クラウスの言葉に答えた。声は穏やかだが、その裏には切実な何かが静かに滲んでいた。


「ありがとう。でも……資料じゃないの」


 彼女の目がまっすぐクラウスを射抜く。涼やかで、氷のように澄みきっているのに、どこか奥底で切実に何かを求めている眼差し。


「私は……あなたのお父様と話がしてみたいの。文字じゃなくて、直接。たぶん、彼自身の言葉じゃないと、聞こえないことがあると思うから」


 クラウスは眉をひそめた。


「父と……?」


「ええ」


 その答えに、嘘はなかった。彼女は確かに魔法理論にも興味を抱いている。だが、それは目的そのものではない。本当の目的は、あの夜失われた二つの影——母フェリオラと、父ノクティス。その痕跡をたどるため、彼女は今ここにいる。そしてクラウスの父グレイフは、フェリオラに辿り着いた数少ない研究者の一人なのだ。


「あなたのお父様に……少し、興味があるの。もしかしたら、私が探している扉の鍵を持っているかもしれないと思っただけ」


 彼女の声は柔らかく、しかしその奥に揺るがぬ意志があった。クラウスは彼女の表情を見つめたまま、ゆっくりと視線を落とす。そこには、自分と似た影が確かにあった。


 ——彼女もまた、失われた者を探している。


 そして、リナリアの言葉は、クラウス自身の心にも静かに問いを投げかけていた。


 ——俺も、父に会いたいのかもしれない。

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