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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第二章 魔法学校の神秘学者
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第三十二話 感情が生むもの、理性が形作るもの

 図書館の空気は、試験前の熱気に包まれていた。普段は静寂に満ちたこの場所も、今日は違う。学生たちは書物を広げ、机を囲んで討論を交わしていた。時折、控えめな笑い声や筆の走る音が混ざる。そんな中、クラウスはいつもの席でノートにペンを走らせていた。研究の整理を進めながら、周囲のざわめきを遠くに感じていた。試験の準備ではなく、彼にとっては日常の一部でしかない。ふと気配を感じて顔を上げると、リナリアがまっすぐ見つめていた。


「話しかけてもいいかしら?」


 彼女の声は控えめだったが、明確な意思を帯びていた。周囲がざわめいているため、いつもより会話が成立しやすい環境。クラウスはペンを置き、軽く頷いた。


「構わない」


 リナリアは椅子を引き、静かに姿勢を正した。机の上にそっと置かれたのは、革装の古い二冊の書物。魔導への階梯——。彼女がこの数日間、ずっと読んでいる本。


「パンを作るのって、どういう思考プロセスになっていると思う?」


 クラウスは、ペンを止めた。彼女の手元にある本をちらりと見やる。古びた革装丁の書物。料理書か?……いや、違う。何かがおかしい。


「パン?」


 返答が遅れたのは、単に予想外だったからだ。クラウスはリナリアと会話を交わしたことはほとんどない。彼女がどんな話をするのか、どんな思考を持つのかも知らない。ただ、唐突にパンの話を振られるとは思ってもみなかった。リナリアは、まるでその反応を楽しむかのように微笑んだ。


「そう。パンよ」


 彼女は当たり前のように頷くと、目の前の本を軽く指先で躍らせた。


「パンを作るには、まずどんな形にするか、どんな味にするか、考えなくちゃいけないわよね?」


 クラウスは腕を組む。


「……そうだな。形や大きさ、味の選択が必要だ」


「では、それは何によって決まるの?」


「作る者の意志だろう」


 リナリアは、目を細めて軽く頷いた。


「意志がなければ、ただの小麦粉の塊になってしまうものね」


 クラウスは、彼女の言葉を咀嚼する。単なるパンの話なのか? それとも、何か別の意図があるのか?


「でも、意志だけでパンは作れないわ」


 リナリアはそう言って、本の端を指先でなぞる。


「パンを作るとき、一番最初に生まれるものって、なんだと思う?」


 クラウスは、その問いの意図を探るように彼女を見た。


「……材料か?」


「違うわ」


 リナリアは笑う。


「お腹が空いた、っていう気持ちよ」


 クラウスの眉がわずかに動く。


「食欲、か」


「ええ。パンを作る前に、『何か食べたい』っていう気持ちが生まれる。これがなければ、そもそもパンを作ろうとも思わない。」


 クラウスは机の端を指で軽く叩く。リナリアの言葉に、彼の思考は少しずつ(かたち)を成していった。


「作る意志の前に、感情がある……?」


「そう」


 リナリアは、少し楽しそうに微笑んだ。


「でもね、それだけじゃだめなの。お腹が空いたからって、小麦粉をそのまま食べる人はいないでしょう?」


 クラウスは、そこで初めてリナリアが何を言いたいのか、ほんのわずかに理解しかけた気がした。


「……どうせ食べるなら、美味しいものを作る。食べるのなら、ちゃんとした形にする。そのために、どう作るかを考える。それが、理性……か?」


「そう!」


 リナリアの目が輝いた。


「つまり、パンを作るということは、『お腹が空いた』という感情があって、『どうせなら美味しいものを作ろう』という理性が働いて、そこで初めて『パンを作る』という意志が生まれるのよ」


 クラウスは、目の前の少女をじっと見つめる。彼女は、単なるパンの話をしているのではない。クラウスは静かに、机に置いたペンを回した。


「意識の前に感情がある、と?……なるほど。もし感情もなく、理性もなかったら?」


 クラウスは、試すように問いかけた。リナリアは、考え込む素振りもなく、すぐに答えた。


「パンは、できないわ」


 即答。迷いのない声。その一言が、クラウスの胸の奥に妙な余韻を残す。まるで、ずっと前から知っていた答えを言うかのように。彼は、ペンを指で転がしながら、ふと気づく。


 ——彼女は、まだパンの話をしているのか?


 いや、違う。これは、もっと別の何かについての話だ。そして、クラウスはもう一つ気づいた。リナリアはまだ、パンの話を続けようとしている。彼女の視線は、もう次の問いへと向かっていた。試験前の図書館は、変わらず喧騒に満ちている。クラウスにとっては、この瞬間だけが異なる時間の流れを持っていた。

 クラウスとリナリアの間には、それとは異なる流れが生まれつつあった。『パンは、できないわ』。リナリアの言葉は、まるで確固たる真理。感情もなく、理性もなければ、パンは作れない——それは単なる事実のように思えた。クラウスは、ノートの端を指で軽く(たた)きながら、もう一つ問いを投げかけた。


「では……感情はどこから来る?」


 リナリアは、ふっと息を飲んだように見えた。それは一瞬の沈黙。彼女はすぐに微笑むと、また楽しそうに問いを返した。


「それって、『お腹が空くのはなぜか』って聞いてるの?」


 クラウスは、その言葉に軽く眉を上げる。


「似たようなものかもしれない」


 リナリアは、考え込むように自分の手を見つめた。


「お腹が空くのは、体が何かを求めているから。でも、それだけじゃないのよね」


 クラウスは、彼女の言葉を聞きながら思考を巡らせる。


「つまり、必要だから生じる感情もある?」


「そう。でも、ただの生理現象とは違うわ」


 リナリアは、ゆっくりと指先を動かし、机の上で何かを形作るような仕草をした。


「お腹が空いているからって、何でもいいわけじゃないでしょう? 人は、『何を食べたいか』を選ぶわ。それって……必要とは関係のない感情よね」


 クラウスは、微かに息を呑んだ。この会話がどこへ向かっているのか、ようやく掴みかけていた。


「つまり、感情には、生存に必要なものと、それとは関係のないものがある?」


「そう。」


 リナリアはゆっくりと頷いた。


「さっきも話したけど、パンを作るときにただ空腹を満たすだけなら、小麦粉を水で練って焼くだけでいい。でも、人はそれをしない。美味しくしようと思う。もっとふわふわにしようとか、甘くしようとか。そこには、ただの必要を超えた『何か』があるのよ」


 クラウスは、その言葉を噛みしめるように聞いていた。必要を超えた何か。それは……何だ?


「その『何か』が、意識の本質ということか?」


 リナリアは、すっと彼を見た。その瞳には、確信めいたものが宿っていた。


「魂よ」


 クラウスの指が、ノートの端で止まる。ペンの先がかすかに紙をこすり、音を立てた。


 ——魂。


 クラウスはその言葉を口の中で反芻した。魂。それは、単なる観念ではないのか……?言葉としては馴染みがある。だが、それが何かと問われると、答えに窮する。研究の中で何度も触れてきた概念。けれど、定義することは誰にもできていないもの。彼は慎重に言葉を選びながら問いかけた。


「……魂が、感情を生むと?」


 リナリアは、小さく息を吸い、ゆっくりと続ける。


「魂は、ただの概念じゃないわ。何かを感じ、何かを求める。それが意識になり、感情になって、やがて理性と混ざり合う。そして……意志を生む」


 クラウスは、視線を落とす。意識と感情、理性、それらを結びつける何か——それが魂だと?彼は静かにノートを閉じた。


「……つまり、魂があるから、人は何かを求めるのか?」


 声に出した瞬間、その問いがあまりに単純であることに気づく。もし魂がなければ、人は何も求めないのか?欲望も、理想も、何も。リナリアは、手元の『魔導への階梯』を軽く撫でながら答えた。


「この本は、その関係を解き明かそうとしているの」


 クラウスは、その言葉を聞きながら、ゆっくりと彼女の視線を追った。これは、単なる学術書ではない——その確信が、徐々に輪郭を帯びてくる。魂。それは、アンデッドにも存在するのか?意識と感情が魔法を媒介し、魔力として具現化するならば……。

 彼は思考を巡らせる。死者が何かを求めることはあるのか?——あの夜、ヴェルンハイムの城壁の上で見た、焦げた王冠の亡霊。彼は、何を求めていたのか?リナリアは、彼が言葉を紡ぐのを待つ。試験前の図書館は、変わらず喧騒に満ちている。

 クラウスにとっては、この瞬間だけが異なる時間の流れを持っていた。それは偶然のようでいて、必然かもしれない。……リナリアの前にある本が、その答えを持っているのかもしれない。クラウスは、再びノートを開く。ペン先を軽く転がしながら、リナリアを見やった。彼女の瞳は、まだ次の問いへと向かっていた。

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