第三十一話 炎の帳の向こうに
——遠い記憶が、微かな焔となって揺らめいていた。
クラウスが父と共に帝都へ辿り着いたのは、まだ幼い頃。ローゼン帝国の高い城壁に囲まれた都の門をくぐるとき、彼の衣服はすすけ、皮膚には乾いた血と灰がこびりついていた。喉はひび割れ、足は千切れそうだったが、それでも歩みを止めることはなかった。そのとき彼にとって何よりも辛かったのは、母、アメリアの姿がどこにも見えないこと。
最後に彼女を見たのは、ヴェルンハイムの知の殿堂——学問の府として知られた建物が、炎に包まれるあの場面。燃え上がる回廊の向こう、母は確かに振り返った。轟音が響き、爆風が壁を砕いた。炎が室内に吹き込み、崩れ落ちる梁が視界を遮る。灼熱の気流が皮膚を焦がし、酸素を奪っていく。
「母上——!」
叫びが喉からほとばしる。しかし、その手を伸ばすよりも早く、崩落がすべてを分かつ。炎の向こうに見えた母の姿は、一瞬の後、灰色の煙に溶けた。扉が爆風に叩きつけられ、砕けるように閉じる。彼女はもう、どこにもいなかった。
「クラウス、走れ!」
父の声が響いた。手が引かれ、彼は夢中で駆けた。燃え崩れる天井、蹴散らされる書物、逃げ惑う人々——。そこは、彼が幼い頃から知識を蓄え、学び、言葉を覚えた場所。書物に埋もれた日々が、今、焼き尽くされていく。やがて彼らが乗った馬車は、深夜の街を駆け抜けた。振り返れば、ヴェルンハイムの街の灯はすでに狂気と死の炎に染められていた。
「母上は?」
震える声で問いかけると、父は一瞬だけ目を閉じた。
「——アメリアは、戻らなかった。」
それは疑いようのない事実。嘘で塗り固める余地すらない、圧倒的な現実が目の前にあった。幼いクラウスの中で、その言葉がすべてを変えた。母は、もうこの世にいない。
「彼らは死なない。」
父が低く呟いた。
「アンデッドは、人の生を奪い、その骸を弄ぶ。お前も、覚えておくがいい、クラウス。魂とは何か。死とは何か。もしも、アメリアが——」
そこで父は口を噤んだ。自らの思考を振り払うように。その夜、クラウスは決して忘れられないものを見た。ヴェルンハイムの防壁の上に立つ、見知らぬ影。焦げた衣をまとい、壊れた王冠を頂き、ところどころ焼け落ちた顔の皮膚が、血に塗れた眼窩で西へと視線を向けていた。
——死者がまだ何かを求めているかのように。
帝都に逃れた彼らは、名もなき難民に過ぎなかった。神秘学の権威など、何の意味も持たず、帝国の人々は冷たい視線を向けることすらしない。飢え、病、絶望——あの日々の記憶は今も鮮明に残っている。父は諦めなかった。神秘学者グレイフ・ヴァルトシュタイン——かつてヴェルンハイム共和国で学問を極めた男は、やがて帝国の学者たちの門を叩き、息子と共に再び知識の世界へ身を投じた。
「アンデッドとは何かを知ることが、生き残る唯一の道だ」
父が貫いた信念。それは、クラウスにとっても、母を喪った現実を受け入れるための唯一の拠り所となる。父の研究は止まることがなく、ヴェルンハイムが滅んだ後も、彼は何度も故郷へと戻り、廃墟となった国を踏みしめながら研究を続けていた。すでに人の住まぬ地となったその場所に、なお残る遺物を探し、かつての研究仲間の記録を掘り起こし、失われた知識を拾い集めた。
父が求めていたのは、ただの過去ではない。死者は何を求め、なぜ消えないのか。その答えが、そこに眠っていると信じていた。
最後の遠征——父は二度と帰らなかった。
研究室には、彼が持ち帰った膨大な資料が残されたまま。未整理の書物、書きかけの論文、ヴェルンハイムの廃墟で見つかったという断片的な記録の数々。彼は、何かに辿り着きかけていたのではないか。そう思うたびに、クラウスの中の疑問は深まる。
——父はどこへ消えたのか?
もしも彼が死んだのなら、遺体の一つでも戻るはず。だが、それすらなかった。まるで、大地に呑まれるように、彼は消えたのだ。クラウスはペンを止め、そっと机に指を這わせた。
——死者は何を求めるのか。何故、消えないのか。
父が求めた答えは、どこにあるのか。自分が研究を続けることで、彼の後を追うことができるのではないか。父が最後に辿り着いたものを、自分が見届けなければならない。静寂が、まるで亡霊の囁きのように、彼の問いかけに答えることなく漂っていた。
ペン先がノートの上を滑る。慎重に書き記された文字が、思考の痕跡となって頁に刻まれていく。クラウスは改めて、自らの研究の核心に立ち戻る。アンデッドとは何なのか。どこから現れたのか。そもそも、その予兆はなかったのか。ヴェルンハイムが滅びる前、何か異変はなかったか——。
記憶の中を探る。幼い頃の出来事が、断片的に蘇る。ヴェルンハイム共和国は学問の国だった。帝国の王家のように絶対的な統治者を持たず、自由市民の議会によって運営される小さな国家群。その知識への渇望こそが、ヴェルンハイムをヴェルンハイムたらしめていた。そして、父はその中心にいた。神秘学の権威として、帝国とも交流を持ち、魔法の歴史や死の概念について研究を続けていた。
——あの頃、確かに何かがおかしかった。
死者の遺体が消える。それは、ヴェルンハイムの崩壊よりずっと前から起こっていた。墓地に埋葬されたはずの遺体が、夜のうちに姿を消した。最初は墓荒らしの仕業かと思われたが、やがて、それが人為的なものではないことが明らかになった。ある日、父の研究室に、焦燥を滲ませた使者が訪れた。
「——また、ひとつ消えました」
言葉はそれだけだったが、父は即座に席を立ち、書棚の奥から古びた魔導書を引き抜いた。刻まれたルーンを指でなぞりながら、何かを確かめるように沈黙する。
「グレイフ様……これは、ただの墓荒らしではありません。我々の知らぬ力が働いているのでは?」
父は目を伏せ、短く息を吐いた。そして、何も答えぬまま書を開き、記録を始めた。
——あの時、父は何を見つけようとしていたのか。
そして、それを確かめるために、何度も故郷へ戻ったのではないか。ヴェルンハイムが滅びるよりも前に、アンデッドはすでに存在していた。ある日突然生まれたわけではない。むしろ、ゆっくりと、その影を広げていたのではないか。
もし、それが何らかの法則に則って発生していたとしたら——。ページをめくる手が止まる。自分が追っているものは、死者の痕跡ではなく、むしろ「何かが死を超えて残る理由」ではないのか。クラウスはゆっくりとペンを置いた。死者は、なぜこの世にとどまるのか。何を求めて、彷徨い続けるのか。
——父が求めた答えは、どこにあるのか。
自分が研究を続けることで、彼の後を追うことができるのではないか。父が最後に辿り着いたものを、自分が見届けなければならない。そのために、クラウスはここにいる。気がつけば、図書館の空気がざわついていた。いつもは静まり返るこの場所が、今は筆の走る音や囁き声に満ちている。
——人が多い?
視線を上げると、長机に並ぶ学生たちが、厚い本を開き、何やら必死に筆を走らせていた。試験前か。その言葉が頭をよぎる。ふと、視界の端に積み上げられた書物の山が映る。机の上に置かれた魔導書、神秘学の論文、資料の束——それが、見事に机の半分以上を占領している。
——二人分の席を独占していたのは、自分か。
クラウスはわずかに苦笑し、書籍の山を片付け始める。手際よく本を整理しながら、机の上を広くしていく。書架へ戻す本を選び、不要な資料をまとめ、ようやく片付き始めた頃——。ふいに、向かいの椅子が引かれる音がした。クラウスは何気なく視線を上げる。そこに座ったのは、桃花色の髪。静かに開かれる一冊の本。その表紙には、いつもの題名が刻まれていた。
魔導への階梯。クラウスは書類を片付ける手を止め、視線を戻す。彼女もまた、静かに頁をめくる。




